私のジャズ歴書 (パートIV)

  June 26, 1999 Up Dated

11.明大前マイルス(パート2)

夜のマイルスへ出入りをするようになってすぐ、都立日比谷高校に通うOという同学年の常連と知りあい、お互い都立高校に通う同じ年ということもあってか、すぐに意気投合して友達になった。彼も家が明大前でマイルスのすぐ近所に住んでいて、週3,4回は顔を出していただろうか。話しをしていると日比谷高校はお堅いうちの学校とは違い、かなり自由な校風があったらしい。彼は酒も飲んでいたし、例のスリク(睡眠薬)も時々やっていたし、学校仲間もそのたぐいは大勢いるとのことだったが、学校はあまりうるさくは言わなかったらしいので、羨ましく思ったものだ。昼間というか、夕方までは当然場所がら、明治大学の学生が大半をしめていたが、夜ともなると、それぞれ個性のある、いろんな人が常連に居た。最初に驚いたのが、ミュージシャンの顔があったときだ。ドラムの本庄直紀さん、ピアノの北条直彦さん(現在は作編曲家)だった。たまたま何度か新宿のジャズコーナーでの演奏を見ていたのでこちらは顔を知っていたのだ。二人とももうプロとして活動していたが、本庄さんは当時まだ青山学院大学の学生だったし、北条さんも芸大の作曲科に在学中であった。北条さんはマイルスのオヤジと将棋三番勝負をするのがが好きで、将棋盤とにらめっこをしている事が多かった。勝負はオヤジの方に歩があったよう記憶している。こちらはミーハー心理で彼らからいろいろジャズの話しを聞きたかったのだが、どちらかというと、そういう話しではなく、いつもオチャラケタ冗談話をしていたように思う。その他にも、当時、たしか多摩美の学生だったが、もうプロとして仕事をしていたギターの甲斐さんというひとも時々顔を出していたし、法政大学出身のアルトサックスの吉井さんというプロもいた。この吉井さんは現在北海道でラーメン屋さんを経営なさっていて、1997年のハイネッケン主催のジャズコンテストサックス部門で第3位になった。(1位は山田穣)何だかんだで、私はプロのミュージシャンとジャズの話しをしたりするのが面白く、ほぼ毎晩のようにマイルス通いが始まった。 クスリのほうはというと、当時ハイミナールという睡眠薬は販売規制が強化されていて、限られた薬屋しか売っていなかったし、買うにも身分証明書とか印鑑とかが必要で、なかなか入手しずらかったのである。その頃ミュージシャン同士ではプレミアムがついて売買されていたらしい。その代用薬として大正製薬の某鎮痛剤が出回っていた。私もご多分に漏れず、徐々にその魔力に引き込まれていった。これがやっかいな代物で、通常摂取量では効かなくなり、どんどん摂取量が増えていくのである。この薬はピリン系で元来のアレルギーである私はこの薬を飲むとじん麻疹が身体中にでるのだが、この誘惑にはなかなか勝てないのである。やめる頃には1回一箱飲んでいたと思う。やめるのはもう少し先の話しだが。ただし私は楽器を練習したり演奏するときは服用しなかった。私の場合、翔んでいる状態になると、全然演奏できなくなってしまうタイプなのだ。言語障害というか、言葉も出なくなってしまうし、指も動かなくなる。でも音楽などを聴いているときのあのけだるさと現実ばなれした浮遊感とか、何ともいいがたいあの感覚が一時的にでも違う空間に連れ込まれるのだ。

マイルスにはその他、法政大学のジャズ研の連中も出入りしていた。そのリーダー格が大越さんといってミンガスという愛称で呼ばれていた。その頃もう4年生位だったのであろう、そのグループの実権を握っていたようだ、大越さんの弟さんも法政大学のジャズ研で彼ら兄弟も明大前町内会であった。このグループは皆、何かコワオモテで高校生の私にはちょっと取っつきがたい所があった。そのグループの中には、通称Sと下の名前を呼び捨てにされているスリク常習の人もいて、彼の立ち振る舞いとかを見ていると怖い思いもしたものだ。(実は後になって気の優しい、ちょっと逃避的に薬を常用していた人だったというのがわかったのだが、見かけはガタイの大きいアヴァンな奴だった。)何というか硬派タイプで言いたいことは言う、喧嘩は厭わない、ジャズはアヴァンギャルド、セオリーはマルクス、レーニンだ、見たいな無法者集団に見えたものだ。でもこういう人たちがタムロするからこの店はすごいのだとかとも思ったりするのだった。当初は彼らが居ると、私は店の隅でだまって本を読んでいて、耳だけは興味津々に彼らの話しを聞いていたものだ。マイルスへ通いだして1,2ヶ月、秋の文化祭シーズンのとある日、ミンガスさんたちから、お前サックスやるんだったら楽器を持って俺達の大学祭のコンサートへ来いという事になった。当時は70年安保闘争の幕開け期でもあり、うちの高校も何十年と同じ高校に勤務しながら教鞭をとる極右の教師が何人も居るかたわら、共産党に所属している教師も幾人かいてその左系の教師は何時間に1回は左指導の授業を行なうのであった。その影響もあって、民青に加入する生徒も増えだした。中にはその時から過激派に加わり、後の羽田事件で機動隊に頭をかち割られ逮捕される強の者もいた。(彼はいまジャズ批評誌の評論家になっているという話しだ。)私もその熱狂的な民青信者である女生徒からよく誘われたが、当時からノンポリというより、左右中間よりはやや右傾向の強かった私としては完全に無視する形となった為、ホームルームなどでは良くヤリダマにあげられ批判されたりもした。話しがとんだが、そのような訳で秋のとある日、法政大学へ向かう、コンサート会場は六角校舎と呼ばれた建物で、校舎の壁には安保闘争のスローガンやビラが貼られ一種独特の雰囲気があった。コンサートの前に何曲か吹けということでテストみたいな事が行われたように思うが良く覚えてはいない。その日ちょうど法政のレギュラーバンドのテナー奏者が病気で休んでいるのでおまえが変りに演れということになった。何の曲をやったのかもよく覚えていないが、結構アヴァンギャルド的なアプローチをしたのを覚えていて、それが受けたらしい。次の週末にはそのメンバーで成蹊大学の学園祭に出演する事になった。法政のバンドのリーダーは二階誠さんというトランペッターで大変うまかった。当時まだ2年生だったと思う。成蹊大学のコンサートでは、東京理科大学の学生だった佐藤修弘さん(現ピアニスト兼銀座のクラブ、クラビクラのゼネラルマネジャー)と知りあった。話しをしてみれば、佐藤さんも京王線の仙川に住んでいてマイルスの常連でもあった。その日の打ち上げは当然マイルスでおこなわれた。その日から高二の私は法政大学ジャズ研、レギュラーバンドのメンバーとなってしまったのである。法政のジャズ研は余り練習熱心ではなく、楽器をやる人も数少なくて、どこかへ集まっては飲んだり、議論したりすることの方が多かった。アヴァンギャルド的アプローチというのは、その頃ちょうどアーチー・シェップに凝っていた時期でマイルスへ行く前、学校の帰りに新宿の「DIG」(DIGが当時発売されていた5枚すべてのアーチー・シェップをコレクションしていたので)に寄り毎日一枚づつリクエストして聞いていたのである。それで初期のシェップを模倣したような演奏をしてみたのであろう。

12.池袋JUNクラブ

そうこうしているうちに私も高三になっていた。学校の勉強はあいかわらず何もせず、ジャズと文学の世界にどっぷりと漬かっていたが、学校をサボるとか授業を抜け出すということは2年間いちどもなかった。しかし高三の新クラスで午後になると自分の前と後ろに座っている奴等ともう何人かは居なくなっているのに気がついた。とある日私のすぐ後ろのIという生徒にどうしたんだと聞いてみる。すると昨日は安岡章太郎の講演会に行ったし、その前は大江健三郎の講演会だという。今日はパチンコに行くから午後は出ないと言う。この3,4人のグループは2年生の時同じクラスで皆文学好きで、2年の頃からちょくちょく授業をサボっていたらしい。このIという生徒は1年生のときに自作の小説で講談社か何かの新人賞を受賞していた。自然と小説や文学の話しから彼らと近くなる。そのうち私も午後の学校サボリに付き合うようになった。毎回講演会へ行くわけでもない、喫茶店でお茶をのんでおしゃべりしたり、パチンコ狂の奴もいたが、結局は私が常連であった新宿の汀がタマリ場になってしまった。この頃は高一クインテットは完全解散状態でベースとトランペットはひたすら受験体制に入っていた。ドラムはちょっと変わった奴で、勉強している風は全くないが、何をしているのかはわからない。小熊はエレクトーン道まっしぐらだったのであろう。そのうちサボり組の中では夜の不摂生がたたってか私がサボリ頭になってしまっていた。午後どころではなく、朝も平気で1時間、2時間遅れて行くようになった。

ジャズに戻ると、夜は相変わらずマイルス通いだったが、ある日、ミンガスさんや法政OBの先輩から友達が洋服のJUNに勤めていて、そのJUNが池袋にジャズのライブのクラブを出すので、そのこけら落としをお前たちやらないかと言ってきた。この頃の若者ファッションの世界はアイビーの「VAN」とコンチの「JUN」の2メーカーが一世を風靡していた。わがリーダーの二階さんは二つ返事でその話しに乗ることとなった。池袋西口、北側、今も結城屋としてその建物は残っているが、そこの2階がJUNクラブであった。当日はオープンという事もあって、あのいそのてるヲ氏が司会を勤めるというので緊張したものだ。いその氏はJUNクラブの顧問をするとい事であった。全身派手なJUNの装いで頭をパンチパーマにしたダミ声の工藤さんという人が店のマネージャーであった。ここには順次プロのミュージシャンを入れていくということであったが、いその氏の後押しもあって、幸運にも、私たちのバンドは毎週1回、金曜日に出演させてもらえる事になった。これには二階リーダーが大喜びで、すぐさま私は二階さんにマイルスへ呼び出された。彼の話しでは、今の法政大学のメンバーではプロに太刀打ち出来ないから、学校のジャズ研は俺が何とかするから、JUNクラブへ出るメンバーを編成替えしようというのである。私は選ばれたことは嬉しかったが、他のメンバーの手前もあったのだが、結局私も二つ返事でOKすることになった。それから二人で学生が出演している店を偵察に行くことになった。新宿のジャズ喫茶「ジャズビレッジ」では時々学生のバンドの生演奏を入れていて、神田の「」でも時折やっていて、私たちも出演した事がある。ジャズビレッジで見た東大のバンドは藤田さんというピアノと春日井さんというベースのふたりの超人がいて、その演奏は凄かった。理科大学もジャズビレッジへ出演していて、佐藤修弘さんの関係でそれも見にいった。(東京理科大学モダンジャズグループはすぐ後、JUNクラブのレギュラー出演を獲得することになる。)結局、ピアノはマイルスで親しかった理科大の佐藤さんにお願いすることとなり、ドラムは法政のレギュラーだった高橋さん(3年)が残ることになった。ベースには佐藤さんの紹介で理科大の中山憲一さん(当時2年生)が参加することとなり新クインテットが結成され、毎週1回JUNクラブへ出演することとなったのである。


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