正岡子規・絶筆三句を読む         秋 尾   敏


  糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
  痰一斗糸瓜の水も間に合はず
  をとゝひのへちまの水も取らざりき

 この三句は、子規の俳句の到達点であると同時に、俳句的態度というものの到達点だということができます。死に望んでの、この極度な自己対象化、これこそ俳句的態度のきわみというものだと思うのです。
 対象を見つめ、そこに人間存在の本質を描写して、巧まざる笑いを引き起こすということが、俳句の究極のねらいであるように思われます。この三句は、その域に見事に到達し、しかもその対象が自分自身の死であるというすごみを持っています。
 もともと俳諧という言葉は「滑稽」ということでありました。しかし芭蕉は、それまでの五七五の言葉遊びに精神の奥行きを付け加え、この短い詩型の中に、存在の深みを表現する手だてを示しました。
 以来、俳諧には「滑稽」を超えて、様々な精神の姿が描かれることになりました。もとより芭蕉は「滑稽」を否定したのではなく、滑稽の本質を押し進めて、ある深さに到達したのです。本来、滑稽と深さは別のことではありません。滑稽というのは、常識的なものの見方を超えて、ものごとの本質を深くえぐり出す行為なのです。
 しかし一方で、滑稽を表面的にとらえて、言葉のおかしさがないという意味で、滑稽でないものは俳諧とは言えないと言い張る人々もいたのです。子規はそうした人々を『俳諧大要』の中で「濁酒を好む馬士の清酒を飲んで酒に非ずといひたらんが如し」と排斥しています。
 明治以降、むしろ「深刻な問題意識」が文芸の主流となっていきます。そうしたものを持たない文芸は深さを認められないというような時代がつい最近まで続きました。むろんそうした偏向に組しない作家も多かったのですが、近代は「滑稽」にとっては不遇の時代であったといえるでしょう。
 子規にしても、天保以来の月並み俳諧を排し、俳諧に文学としての普遍的価値をもたせようとする中で、従来の型にはまった「滑稽」を否定する気持ちは強かったのです。
 しかし民間のジャーナリストとしての道を選んだ子規には終生柔軟な目で社会を見つめる態度がありました。またその生い立ちからくる士族的で近世的な教養の内部には、「悟り」や「超俗」という態度の取り方が根強くあって、それらの精神は、子規の文学の中に世俗の価値観を超越した世界観を作り出していきます。それはやがて彼の「写生」という方法論とも結びついていくのですが、そこに子規の俳句が、この「絶筆三句」に見られるような質の高い「滑稽」にたどり着く必然性があったと言えるでしょう。
 「滑稽」とは、硬直した意味の世界、つまり常識の世界を飛び越えて、世界を別の見方で捕らえた時の感動なのです。共同体の常識的見地を離れ、個人として世界の姿を捕らえ切り、そこに自らを同化させた感動を得たとき、笑いの質は極みに達するように思われます。そうした意味では、質の高い「滑稽」は「悟り」とも通じるものを持っています。
 すべての「滑稽」が精神の深さを表現しているわけではありませんが、質の高い「滑稽」が、存在や精神の深みを魅力的に表現するものであることは疑う余地がありません。
 悟りを開いた禅僧の高笑い、あるいは乳首を見出した赤子の微笑みという辺りが、笑いというものの究極の姿なのでしょうが、文芸の「滑稽」がその域に達することは至難のことです。なぜならそれら究極の笑いは、言葉以前の、人間が世界を認識する出発点における笑いだからです。
 しかし子規には、そのような認識への志向性があります。子規はそれまでの類型化された表現の体系をひっくり返し、改めて新しい表現の体系を組み立て直そうとしました。そこには事象と言葉との新しい接点を見いだそうとするたいへんラジカルな思想があります。その発想が「悟り」の態度と結びつくとき、子規は硬直した常識の世界を飛び越えて、世界を別の見方で捕らえることになるのです。
 「俳諧連衆」という古き共同体の常識見地を離れ、個人として世界の姿を捕らえたところで、子規は新しい「滑稽」を創生したと言えるのです。
 さて、一句目です。
 「糸瓜」というのは、たいへん庶民的な素材で、江戸時代から秋の季語として使われています。けれどこの一句目では、その「糸瓜」が咲いたということなので、本来は夏の季題ということになります。
 しかし難しいのは、ここでは三つの句が連作のように続いているということです。後の二つは「花」とはいっていませんから、もちろん秋の句です。実際「糸瓜忌」は九月十九日ですし、子規のこの句は九月の十八日に示されたものです。そこでここは連作の中の一つと見て、特別に季を秋とする考えが一般に行なわれています。
 『俳句大観』(明治書院)は、ここを「咲き残った花」と解釈しています。うまく読んだという感じです。が、この解釈にも難はあります。「咲いて」の「て」はどう読んでも咲き始めの感じなのです。今まで咲いていなかった花が咲いたというのが「糸瓜咲いて」の本来の意味でしょう。「残った」というのならむしろ「今まで咲かずに残った最後のつぼみがついに咲いて」と取るべきです。が、それにしてもそこまでこじつけて季を秋に揃える必要があるのでしょうか。
 「咲き残った花」というような読みは、句の解釈を作者の実生活に適合させようとする意識から生まれたもので、この句の語法から言えばやはり無理な読みなのです。つまり作者論からは正しくとも、作品論からは異論の出る読みに違いありません。では、どう読めばいいのでしょうか。
 季の約束に従って素直に読めば、この三句の連作は、一カ月ほどの間の回想ということになります。つまり一句目と二句目の間に時間的な隔たりを置くわけです。糸瓜の咲く季節に既に自分を佛と自覚したことだったが、その後病はますます進行し、秋となると糸瓜の水も間に合わなくなった、という風に読んでいくわけです。連作として、季の約束に従って読めば、そうなります。それが作者の思いであったかどうかは分かりませんが、「痰のつまりし」の「し」が過去(回想)の助動詞であることを考えれば、この読み方には根拠があることになります。
 ここでもう少し「糸瓜」にこだわってみましょう。
 まずこの句を、対比と類比という二つの概念で読み解いてみたいと思います。比較の中でも、異なるもの同士の見比べが対比、同類のものとの見比べが類比です。
 この句は「糸瓜咲いて」の「て」で切れています。ですからここは、単に喉に痰を絡ませている瀕死の主人公の背景に、糸瓜の花を置けばそれでよいことなのです。
 しかしいくらそう切っても、いや切れているからこそ、二つのイメージは関わりを主張し始めます。切れていなければ初めから一つのイメージしかありませんから、関わりなどというものは成り立ちません。
 まず、ともかくも「糸瓜」は「咲て」いるわけで、「痰のつまりし佛」の方は、もうあの世へ踏み出しているわけですから、陽の世界と陰の世界の対比を考えることができます。そうするとここは「糸瓜の咲く季節に」という平面的な意味の裏に「自然の営みは今年もまた糸瓜に花を咲かせ、糸瓜はまた自然の恵みを受けて花を付けているのに対し、私の方はといえば」ということになって、だいぶ悲観的なニュアンスが強くなることになります。あるいはまたもう少し卑近な読みをして、「痰を切るのに効くという糸瓜が咲いているというのに、その前で痰を詰まらせて佛になっていくことよ」とすると、ひどく滑稽で、しかもシニカルな解釈になります。これらは対比を全面に立てた読み方です。
 けれどもう一歩踏み込んで別の側面から考えてみると、この二つの世界が類比的に書かれているというふうにも読めるのです。つまり「糸瓜」というものを子規自身に重ね合わせるのです。するとそこには「一応の仕事を成し遂げた」と自覚している子規の姿が浮かび上がってきます。むろん「糸瓜咲いて」という表現に対して、作者がどれほど自覚的に「仕事の成就」という思いを込めたかということは誰にも分かりません。全くそのつもりだったかも知れないし、無意識だったかもしれない。あるいは作者自身が、そういう思い入れも現れているなあと、この作品を書き終えた後で気づいたのかも知れない、というようなあいまいなことなのです。
 ですからこれは、どちらが正しい読みかという問題ではありません。おそらく子規自身にもその二つの思いが交錯していたに違いないのです。この二つの意味のどちらをどのくらい感じ取るかは、すでに読者の問題です。ある読者は百パーセント対比的に感じ取るかも知れませんし、別の読者は両方に揺れる作者の心を読み取るかもしれません。事実は、この表現をそれぞれに受け取る読者がいるということで、そこにこの作品の深さがあります。しかもその二つの意味は、どうも重なった形で同時に認識することが可能なようなのです。
 深さというのは、ある一つの読み方をしても、まだ別の解釈の余地が残されているということです。いや、漠然と作品の意味を感じ取っているうちはいいのですが、言葉ではっきりどちらかに解釈してしまうと、とたんにもう片方の読みが懐かしくなってしまうのです。ですから読者は、なかなか読み切れたという感じに到達しません。同じ読者が一年後には全く違った読みをするかも知れないし、いや数日後に違った感情で読めば、また違った意味が引き出されるかも知れないのです。そのことが、作品の意味世界に奥行きや膨らみを与えていきます。
 さて、さらに「糸瓜咲いて」の問題を考えてみましょう。
 糸瓜の花を御存知でしょうか。蔓全体がたいへん大きく伸びるのに比べれば、いかにも可憐な花で、そこからあの大きな実が成るかと考えると滑稽なくらいです。
 糸瓜自体は、影を作り実を供して実用になり、大きく蔓と葉をのばす庶民的な伸びやかさを持った植物ですが、その中で花は可憐に、次に実を結ばせることを予感させながら、つつましく咲いています。そこにこの糸瓜が、作者の状況をにじませているという面白さがあります。
 子規の俳句は既に新聞『日本』』や雑誌『ホトトギス』をとおして全国に読者を増やし、さらに短歌の革新も良き後継者に恵まれ、新しい韻文の流れは子規派を中軸に置こうとしています。その仕事は、子規自身の大きな野心にとっては、まだ不足であったのでしょうが、一方、良くここまで来たという思いもあったことでしょう。
 そうした子規自身の状況は、糸瓜が葉をいっぱい広げたなかに、小さな花を咲かせている「糸瓜咲いて」のイメージと一致していくところがあります。 
 むろん、文学作品の独立性ということから考えれば、この句からそんな具体的な状況まで読み取れるわけがありません。作家についてのつまらぬ知識を振り回して、そこまで分かろうとする態度は、むしろ不純な読みというべきでしょう。
 けれど、「糸瓜咲いて」という語句から、この作者が可憐に小さく咲いた糸瓜に共感していることぐらいは読み取ってもよいわけでしょうから、なぜ作者がそんなものに共感し、思い入れをして作品に登場させたのかと考えれば、作者の状況はおおよそ推測されるのです。この作品の言葉を純粋に読みとる中から、何か大きく広がったもの中に、一つの結実を見ようとしている作者の心情が浮かび上がってきます。
 このように、作品の中に登場したある「もの」が、特定の意味、つまり記号性をもってその作品の存在価値を支えているとき、その「もの」を文学形象と呼びます。
 この作品の糸瓜の花は、まさしくりっぱな文学形象性を有しているわけです。作品の一部分として、全体の意味を支えているのです。糸瓜という植物と、作品世界とが、抜き差しならない関係を持っていることを見ることができます。
 心理学では、こうした部分と全体の関係をゲシュタルトといいます。一つ一つの音に対するメロディーの全体のように、分解して元に戻すと、まったく意味を成さなくなるような形態がゲシュタルトなのです。ちょっと音楽とは違うところもあるのですが、作品の一つ一つの言葉に対して、その作品の全体が表している世界もまたゲシュタルトです。ですから文学作品を下手に分析し、どこが比喩だとか、何が対比だとか言ってみても、それだけでは、作品の全体を説明したことにはなりません。大切なことは、それぞれの部分の言葉が、全体性をどう形作っているのかを読むことでしょう。先ほど述べた構造分析も、つまるところ部分的な表現要素と作品の全体性との関係を把握しようとする試みにほかなりません。
 糸瓜の花は、この作品を構成する一つの文学形象となって、作者の状況を暗示しています。「糸瓜咲いて」は、情景であり背景ではあるけれども、それは、作者の状況の隠喩ともなっているということができます。
 二句目、「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」
 「間に合はず」に注意して下さい。この「間に合はず」という意味を抽象し、広げていってみましょう。すると作者の心情に突き当たります。「間に合はず」という言葉を選び取るしかなかった作者の心情です。
 このときの状況を表現する述語は、他にいくらでも考えられます。「まだ足りぬ」と言っても良いし「効かぬなり」と言っても良い。そうした多くの語句の中から、なぜ作者は「間に合はず」と言ったのか。それは作者の心の中に「間に合はず」という語が浮かんだからに違いないのです。そしてその言葉の選択が、この作品に、緊迫感と客観性という二つの矛盾した要素を同時に与えるという快挙を成し遂げています。「まだ足りぬ」や「効かぬなり」では文学にならぬものが、「間に合はず」だと文学になる。その表現の文学としての価値を保証しているものは何なのでしょう。
 それこそが、作者の心情というものなのです。
 子規は、「間に合はず」という観念を、日常的に宿していたのです。そうした心理的背景があって、「糸瓜の水」という対象に接したときにも、「間に合はず」という言葉の選択が行なわれることになるのです。
 このときの子規にとって「間に合う」とは、やりたいことを、生きているうちにやり遂げられるかということだったに違いありません。しかもそれは、これだけやったら死んでもいいというような性質のものではなかったはずです。いくらでも後から後から、彼の野心は間に合わぬことを作りだしていきます。「間」とは死ぬまでの「間」であり、その距離に合わぬほど大きいものは子規の野心なのです。
 そうした子規であればこそ、「足りぬなり」でも「効かぬなり」でもなく、「間に合はず」という表現が可能になったのです。そして、この切迫感と客観性が、多くの読者の共感を得ることになるのです。
 三句目を読んでみましょう。
 をとゝひのへちまの水も取らざりき      子規
 この句を病床の子規が書いたのが九月十七日ですから、「をととひの糸瓜の水」というのは、九月十五日、つまり新暦の十五夜というわけで、水原秋桜子編「俳句鑑賞辞典」(昭和四十六年・東京堂)は、

 この夜に採取した糸瓜の水は特に効力を発すると言い伝え
 られていた。しかし病が重く、とうとうその糸瓜の水も取ら
 ずにすませてしまったのである。子規の心中にその「をとと
 ひ」という日が過ぎて還らぬ日として強く刻みつけられてい
 る。そのおとといの糸瓜の水さえあったらと、子規はかすか
 な悔恨を持って思い返すのである
 
 としています。しかし果してそうなのでしょうか。
 尾形仂編「俳句の解釈と鑑賞辞典」(昭和五十四年・旺文社)は、「糸瓜の水さえあったならばと、還らない〈をととひ〉の命の水を乞う子規は、決して悟り得た人ではなかった」としながらも、前二句との関連を捕らえ、「〈糸瓜の水〉への拘泥も、それほどこの世への未練や悔恨を残したものとみることはできない」とまとめています。
 この解釈には秋桜子の「俳句鑑賞辞典」を参照したフシがあり、その先達の解釈に敬意を払いながらも、若干の疑義を差し挟んだという風なのですが、この解釈でも、まだ釈然としないものが残るのです。一句目、二句目であれほどの自己対象化を果たした子規が、最後にそういう形で生への執着を語るというのは、少し考えていることのレベルが違ってしまうようにも感じます。確かにここで、生への執着を見せるというのも、人間的でなかなか面白いのです。悟りきれない子規の人間臭さを嗅ぎ取るのもよいでしょう。けれども何か不自然さを感じます。それは「水も」の「も」に原因があるのです。
 この「も」は何なのでしょう。なぜ「を」ではないのでしょうか。
 「も」というのは、既に糸瓜の水を取ることなど止めたという意味にとれます。既に十五夜の水さえも採ろうとしなかった、という意味にもなるのです。たしかにこの「も」は、悔恨と諦念の両方の意味を持ちそうです。これを「を」とした場合と対比すると、明らかに「も」の方が諦観、あるいは悟りといった要素が強く立ち現れてくると感じるのですがどうでしょう。 
  をとゝひのへちまの水を取らざりき
  をとゝひのへちまの水も取らざりき

 また「き」という言い切りからも、生への湿った感慨は感じ取りにくいようです。
 「き」というのは言うまでもなく回想の助動詞です。同じ回想の助動詞「けり」が、韻文の中ではほとんど詠嘆そのものになってしまうのに対し、「き」の方はもっと即物的にその事象が過去の出来事であったことを表します。散文の中で、「けり」が伝聞回想として、人から伝え聞いた話題を語る場合に使われるのに対し、「き」が自分で経験した事象を語る場合に使われることからも、「き」が直接的で率直なニュアンスを持つ助動詞であることが分かります。
 このように、作品を読む場合、助詞・助動詞などのいわゆる付属語にも、細かな注意を払っていく必要があります。むろん細部にこだわりすぎ、木を見て森を顧みないとようなことになっては困るのですが、日本語の場合、付属語のニュアンスがその大きな特徴になっているのですから、そこをいいかげんにしたら、深い読みなど成り立つわけがありません。特に文語では、付属語の語彙は豊富で、それと比べると現代の口語などは文末のパターンを変えるのさえ苦労するほどです。付属語のニュアンスをこそまず読むべきでありましょう。