境涯俳句史 秋尾 敏
2024年
| 「境涯」は、江戸期には「境界」と書かれ、多くの俳書中に用例がある。 当然のことだが、俳句をその人の「境界」において理解するためには、その人の「境界」を伝える俳句以外の情報源が必要になる。 芭蕉には其角の『芭蕉翁終焉記』など信用できる資料も多いが、肥後の文暁が発見したという『芭蕉翁反古文(花屋日記)』は、正岡子規をも感動させた名文だが偽書である。作者の境涯が脚色されているということは、近現代俳句でも起こり得ることであろう。 江戸後期に現れた一茶は、自分で自分の「境界」を語るという荒技に出た。『おらが春』には、自らの「境界」が幾度も語られている。 明治になると、その一茶の境涯が文芸の枠を超えて人の生き方の手本とされ、国語や修身の教材となったので、一茶の句はますますその境涯と結びつけて読まれるようになった。 さらに、子規が病躯を押して近代俳壇を作り上げたことから、一般の人々にとって俳句は、作者の境涯に重ねて読むものとなった。 大正期に入ると、村上鬼城の句が「ホトトギス」誌上で脚光をあび、年に何度も巻頭を飾って大須賀乙字にも賞賛された。 大正六年に刊行された『鬼城句集』(中央出版協会)に虚子は十九ページに及ぶ序を記し、鬼城の聴覚の障害に触れ、生活の労苦を詳しく書いている。続いて乙字も序を記し、芭蕉、路通、一茶を例に境涯俳句の意義を説き、鬼城を称揚している。 ところが虚子は、大正十二年の「講話会」で質問に答え「鬼城のやうな人になると、その主観なり境遇なりに触れた句が大変面白い、といふことはありますけれど、他の多くの人の句になると、特別な境遇にゐる為に面白いといふことは無いのです」と述べる。 ここにおいて「境涯俳句」と「花鳥諷詠」は対立概念となってしまった。この講話は「芭蕉の境涯と我等の境涯」という題で「ホトトギス」に掲載され、『朝の庭』(改造社・大正13年)に集録されて読み継がれていく。だが、鬼城の境涯句を認め、近代の境涯俳句を確立したのは、虚子と乙字なのである。 虚子は、特別の境涯を持つ人が境涯句を詠むことを否定していない。しかし、俳壇の構造が、虚子の答弁をきっかけに「境涯俳句」対「花鳥諷詠」という図式を作ってしまう。 その後、必然的に境涯俳句は新興俳句系のものとなり、石田波郷がその象徴となった。 昭和十七年、波郷が「鶴」に書いた「俳句は境涯を詠ふものである。境涯とは何も悲劇的情緒の世界や隠遁の道ではない。又哀別離苦の詠嘆でもない。すでにある文学的劇的なものではなくて、日常の現実生活に徹しなくてはならない」という一文は、近代境涯俳句の原点とされるようになった。 波郷の主張は、虚子が特別の人のものと考えた境涯を、万人が持つそれぞれの状況と捉えた点で画期的であった。境涯は誰にもあることに波郷は気づいたのである。波郷のこの発想が、戦地で湿性胸膜炎を発病する以前のものであることに留意したい。波郷は、自分が結核に冒される以前に、そうした俳句観を培っていたのである。 戦後は、人々の生活の厳しさが、必然的に境涯俳句を生みだしていく。林翔は「敗戦後の窮乏の時代に、皆が生きることに必死だった頃、「境涯俳句」と呼ばれる俳句が沢山詠まれました」と記している(「俳句」(角川書店・昭和53年8月号))。 昭和二十五年、波郷の『惜命』(作品社)が刊行され、境涯俳句の象徴的存在となる。 昭和三十一年には、飯田蛇笏、山口誓子らの監修で河出書房から「現代俳句講座�U」として『俳句の作り方』が刊行され、そこで「人生境涯俳句」を担当した飯田龍太は、芭蕉、一茶に続けて原石鼎、村上鬼城、飯田蛇笏を取り上げ、「人生に徹し、深く境涯に根ざした句が読者をとらえるという俳句の原則は、芭蕉の時代も今日も決して変わっているわけではない」とまとめている。 昭和三十七年には村越化石の句集『獨眼』(琅?洞)が刊行され、境涯俳句は俳壇に不動の位置を占めるようになる。『俳句年鑑』(角川書店)「年鑑回顧」欄には「療養者と俳句」「収容所俳句」などの項目が立てられ、三十九年の「俳句研究」(俳句研究社)八月号は「特殊環境の俳句」を特集。スラム街、ハンセン病棟、�C�P療養所、収容所の俳句が取り上げ、「スラム街の俳句」を担当した西矢籟史は「境涯俳句の復興」を示唆した上で、小野正三の「境涯俳句はクソリアリズムではない。想像という夢幻の翼に乗って、観念や象徴の世界をめざすべきだ」という意見を紹介している。また、同年の「俳句」(角川書店)三月号には香西照雄が「角川賞・俳人協会賞など最近の受賞作には境涯の俳句が多い」と書いていて、境涯俳句の全盛期だと分かる。 昭和四十年代には、境涯俳句の限界が問われだす。四十一年の「俳句研究」七月号には小寺正三が「境涯俳句の限界」を書き、現状は「境涯の売り物的作品」ではないにしても「現実以下でもないかわりに現実以上でもない」という限界があるとし、これからの境涯俳句として鷹羽狩行の〈秋夜アパート妻が掃き出す星屑よ〉のようなイメージを描く方向を示唆している。しかし、こうした句を「境涯俳句」と呼ぶことに意味があるのだろうか。戦後生活を詠った境涯俳句は、二十年を経てその内実を解体し始めたようである。 波郷の主張は、境涯を自覚して主観を高めよ、ということであるから、戦後俳句の水準を大きく引き上げる原動力となった。 しかし、近代の境涯俳句を確立したのは虚子と乙字と鬼城である。『俳文学大辞典』(角川書店)の「境涯俳句」の項に松本康夫は、「作者の境涯が反映されている俳句」とした上で、「花鳥風月のみに徹する作品のアンチテーゼであって、実生活に根ざし、かつ私に即した作品を指す」と解説しているが、これは波郷以降の状況にすぎない。 これまでに「花鳥諷詠」対「境涯俳句」という対立図式の不毛を指摘する意見がなかったわけではない。昭和五十五年の『俳句年鑑』に村松紅花は、写生俳句と境涯俳句が「どちらも「こころ」を基盤とするという一点においては同一のものである」と述べている。しかし、この論法には説得力がない。写生や花鳥諷詠と境涯俳句の位置関係を構造化する評論が待たれる。 境涯俳句は、社会が変化し、貧富の差が拡大する時代に繰り返し現れる。芭蕉、一茶、鬼城、波郷の時代は、いずれも経済構造が変化し、新たな格差が作られる時代であった。 そして今、今日の格差社会の中で、また境涯俳句が注目され始めている。 従来と違うのは、社会の多様性が進行しているということである。障害や性差をはじめあらゆる既成の認識が脱構築されていく中で、従来、境涯と思われなかったものが境涯と認識されていくことも多いと考えられる。文学とは状況認識であり、俳句もまた世界観を基盤に置く。これからの俳人が、何を境涯と考えていくかに注目したい。 |