作家水上勉氏は、昭和32年9月(38歳)から34年10月までの2年間、松戸市下矢切に居住していた。当時、氏は矢切の豊かな自然に触れ、窮乏の”陽かげ”を歩いてきて、”陽かげ”から脱け出るきっかけとなる直木賞候補作となった「霧と影」(昭和34年8月15日河出書房から刊行)を執筆されていた。
そして、はじめて陽をうけたのが、昭和36年刊行の「雁の寺」で、直木賞を受賞し文壇にデビューした。
その後は、北陸や京都を舞台に「五番町夕霧楼」、「越前竹人形」など女性の哀しい運命を描くなど独特の作風を確立している。
水上勉氏は、それまでの苦しい30年間を回想した「冬日の道」の中で、次のように記している。
「そこは下矢切といい、市川との境である。国府台の式場病院の裏にあたる高台だったが、一帯はまだ畑で、結核療養所と警察の射撃場にはさまれていた。目あての家は、射撃場の上にある。六畳、四畳半に台所のついた恰好の広さで、月六千円という家賃も魅力だった。あたりの田園風景に魅かれて、私は借りることにした。
中略
式場病院の裏へゆく途中に、三角山とよぶ、旧連隊時代の、これも実弾射撃場跡があって、ここは、松林にかこまれた篠竹原になっていたが、蜘蛛は無数にいた。捕えてきては、南面の庭にはなって、巣をつくらせ、チョウやトンボをあたえた。蜘蛛は秋ちかくなると、ふとって、黄金の腹つづみを打ち、どれもこれも、植え込みやぶどうの棚に金色の卵をうんだ。ところが、その蜘蛛の産卵期もハンターの練習がさかりになる季節なので、とんでくる散弾が腹にあたることもある。蜘蛛は汁をふいて死んだ。
このときばかりは、怒りをおぼえた。子も若狭で数年すごしてきていたので、村の子らが、蜘蛛あそびをするのをみていたか、私のうしろから三角山までついてきて、いっしょに捕えてもち帰った。
隣家の大工は、私の蜘蛛好きをみて、気味わるがった。だが、日がたつにつれて、私のことを、蜘蛛の旦那とよぶようになり、両家とも仲良く交際しはじめた。」
後略