福祉ざっくばらん 
「向井承子(ノンフィクションライター)記」


  社会的入院からの救済  
(日本経済新聞1998年7月2日(木)夕刊から抜粋)


  社会福祉の現場を歩いていると、息をのむような光景にであうことがある。
例えば、老人病院。お年寄りたちの蝋(ろう)人形のような無表情は、何よりも
衝撃だった。病院のはずなのに、医師や看護婦の姿が見えない。すべて付添婦に
ゆだねられ、お年寄りたちは感性をマヒさせ、何とか生命を保っている。そんな
病院が少なくなかった。

  そういう私も、親をそこに預けてようやく自分を支えた体験を持つ。他に方法
がなかったからだが、自分よりはるかに老い、病み、弱った人を生き地獄と知り
ながら預けた記憶には、今も心を刺される。

  高齢化社会が政治的課題になるずっと前から、その解決は個々の家族に任され、
老人病院は介護の重課荷に耐えかねた子族の手っ取り早い救済策として増殖して
きた。その実態は、ケアには程遠い非人間的なものだった。が、それを社会問題
として問わないうちに大増殖させてしまった歴史の責めは、だれが負うべきなの
だろうか。行政の無策を責めるのはやすいが、それだけでは根本を問うことには
ならない。


老人病院には、現代の「姥捨山(うばすてやま)」の印象があった。確かに家
族には重すぎる荷であり、行政の無策がその増殖に拍車をかけたのだが、私は最
も不気味に感じたのは、まるで「臭いものにフタ」をするように、その現実に目
を閉ざす人々が構成する社会そのものだった。

  これまで社会がどうやら平穏に保てたのは、耐えることを仕込まれた世代の人
たちの忍従のおかげに違いない。過去形で語るだけではすまない。良質のケアが
模索される現在だが、なお、少なからぬ施設に「積み残された人たち」がいる。
この人たちのの救済こそ急務である。


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