<老いるということ・・・・>
池宮 彰一郎 記(作家)
(日本経済新聞1998年5月26日(火)発行から抜粋)
<老いるということ・・・>
人の老い方はさまざまである。
八十歳、九十歳に達しても、矍鑠(かくしゃく)とあるき、走り、畑仕事に精を
を出し、山登りを楽しむ人もあれば、六十歳を超えたあたりで杖に頼って歩き、
鞄一つ持つのに不自由な人もある。
若い頃の節制や躰の鍛錬による影響は多いと思うが、そうばかりは言えない
ような気がする。肉体は労働で鍛えた人が案外早く老化する例もあれば、かな
り不規則な生活を送った人が、老いてますます盛んな例もある。
老いというのは、ゆっくりと絶え間なく訪れ、積み重なると思っていた。ところが
実際に経験してみると、ある年齢に達すると急激に段階的に襲う。去年まで無
意識に登れた地下鉄の階段が、今年一気に登れなくなる。途中で一度休息時
間をとったものが、次の年には二度三度になる。
六十二歳の時、心筋梗塞を患った。当時医師から課せられた運動は、一日4
キロ、一時間で歩行する事であった。
かなりきつい運動量だった記憶がある。昔、軍隊の行軍では、装具30キロを
身につけて、その速度で八時間歩くことは並だった。戦地では15時間も歩いた
こともある。それが空身で歩く。歩けない訳がないと頑張った。
それも、いまはむかしである。昨今では速度どころか4キロを歩き通すことすら
難しい。
老いが躰だけならまだしもの事だが、頭の中身に及ぶと事態は深刻である。
物忘れ、ど忘れがひどくなる。用件が三つ以上重なると、きまって一つはと忘れ
する。人の名を忘れる。物の置き処を忘れる。最近に至っては用を思いついて
部屋を出て、目当ての場所まで来てから、ハテ何のために来たかと戸惑う事す
らある。
生憎な事に、歴史小説を書く身である。史実を手前勝手に曲げることは許さ
れない。ところが史実は何の史料を調べればいいか、それを忘れる。さんざん
遠回りして調べたメモが、書く段になると亡失する。その挙句、その史実はすで
に前段で書いたことを失念している。笑止千万というほかない。
老いの辛さは、経験した者でないとわからない。一晩や二番の徹夜は平気だ
った頃もあった。だが今は二、三時間根を詰めると休憩時間を同じほど取らな
続かない。
そうした耐久力の差は、五十歳代の者には六十歳を越えた者への察しがつ
かない。六十歳に達した者は、老いはこういうものか早とちりする。七十歳台の
老いのすさまじさは、想像の範疇を越える。
人と会うと、かならずといっていいほど挨拶の言葉をかけられる。
「やあ、お元気そうで」
こちらは、内心を舌打ちしてつぶやく。
「ばかやろ。お元気そうなのは、おまえのほうだ」
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