Genesis e:3 これから
"INITIATION"


ある意味では、世界は何も変わらなかったといっていいかもしれない。 世界経済を握る国連の委員会とネルフの対立構図はそのまま残っていた。 ただ、人類補完委員会でなく世界通商再建委員会であり、 ネルフ本部でなくネルフドイツである、という点のみが違っていた。

マギへのクラッキングが 666 プロテクトによって阻止されると同時に ネルフドイツはゼーレから離反し、彼らは手にしていた補完計画の要項を国連に渡した。 補完計画が成功するならばよし、失敗した時のための保身であったが、 結果的にはこれが功を奏した。 サードインパクトは国連軍の占領作戦の真最中のできごとである。 いかに事前情報によってサードインパクトの主体がネルフと信じられていようと、 事実として「サードインパクト」を誘導したのがネルフでないことは明らかであり、 ネルフへの同情をも利用して戦犯から被害者へと巧妙に立場を入れ替え ゼーレをスケープゴートとしてネルフは生き延びることに成功した。

首謀者とされるゼーレ全メンバーの帰還がほぼありえないこと、 大打撃をうけた物流の回復にむけて世界通商再建委員会が設置されたことによって、 事件後わずか 3 日目にして世間の興味はネルフから離れ、そしてネルフは再び地下に潜った。

周囲の状況はそんなところである。


ろくに防音の効いていない無翼輸送ヘリの中でシンジは眼を閉じて思考に神経を集中した。 爆音が遠ざかり、暑苦しい空気から切り離される。
ネルフもエヴァもなく第三新東京に居る意味はもうない。 そもそも第三新東京市という街自体がない。
第二東京は ── 綾波のビジョンからすれば、やはりもとの街ではないだろう。
たいして楽しいこともなかった第三新東京市での生活。 それでも無くなってみれば彼の気持ちは宙に浮いた。

何故だろう、慣れているはずのことなのに? と彼は思うところで気付いた。 あの街は一つの象徴だった。父親を憎み、綾波を思って泣き、ミサトに甘えた、 どれも手加減なしで、心から。
第二東京(かどこか)に戻るとして、再び何もない生活に戻れるだろうか? 手が震えて動かなくなる程の重みはもう感じたくない、嫌なこと嫌いなことはしたくない、 なによりも、誰かに裏切られる気分を味わうのはもう嫌だ ── とは思う。ただ、彼は閉じ籠りたくなかった。 閉じ籠らずにすむものならば、もう一度やりなおせるのならば ‥‥
そう思い始めたことの象徴が「第三新東京市」だった。 時を巻き戻したとしても前よりうまくやる自信はないがまだ住んでいたいと思う街。 たった一つの手掛かりを失う‥‥ 彼は息苦しくなって身を起こし、ため息をついた。

視線を隣の席に向けると、相変わらずアスカは窓の外を堅い表情で一心に見つめている。 救助された時からずっと。 日本に居る理由の無くなった彼女はドイツに帰ることになるだろう。 今回の事件でどんなことになったにしても爆心地の日本よりは良いに決まっている。
幾つか感情が沸き上がってくるのを感じ、シンジは慌てて思考を窓の外に振った。 何かを尋ねてみようとは彼は思わなかった。 ようやく救助されて余裕のできた今、先のことを想像するにいくらか思うところがある、 今はまだそれだけでいい ── さまざまな不安を箱に押し込め蓋をして、彼は睡魔に身を任せた。

ヘリは太平洋に出、どこかの空母に着艦した。 二人がヘリから降りると、出迎えた中に見知った顔がある。

「日向さん ‥‥」
「や。遅れてごめん。いろいろトラブルがね」

なにか話しこみそうになるところに アスカがシンジを払い除けてマコトの前に立ち、睨みつけながらマコトに尋ねた。

「で、いま何をしてる訳?」
「君達を処刑台に送らないようにするためのもろもろは終ったから。 あとはどこに住むか」
「‥‥ なんでそんなに簡単にコトが進むのよ」
「いや、この 3 日にもいろいろあって、‥‥ 今はもうサードインパクト自体の興味がなくなってる、という感じだからさ。
こんなところで話をするのもなんだから、二人ともこっちに来てくれるか?」

二人はおとなしくそれにしたがった。 他に選択肢のある筈もないのだが、アスカが警戒の構えを半分解いた時 シンジはようやく「救助」が「逮捕」に化けていた可能性に思い当たり、 彼の表情を読んで呆れるアスカに小さく一言だけ謝った。


魂、その不可解なるもの。
腕がなくなっても、脚がなくなっても、人はその人でありつづけるだろう。 胃は? 眼は? 耳 ‥‥ 結局は「脳」が人の本質だろうか。
さらに言語機能を失ったとして、その人はその人か? 過去の記憶を失ったら? その上に知能の低下 ‥‥
魂と分かち難き記憶。かの者の'価値観'において忘れ得ないもの。 その人をその人たらしめる、記憶。それが魂。 この第一基本原理(The First Fundamental Principle)に続くいくつかの発見によって 形而上生物学が生まれた。 その後わずか 1 年で急激に発展した形而上生物学は ある種の人々に傲慢な計画を思いつかせることになった。

魂を保全する方法として進化の過程で発明された方法として 生まれ変わり(reincarnation)がある。 第三使徒サキエルに在った魂が最終的に渚カヲルに渡り、 カヲルの身体が滅んだのちに渡るべき安住の地は本来ならエヴァ初号機のはずであり、 そう予言されていた。セカンドインパクトの時、 分かれて封印されたアダムの魂が再び一つに戻るまでの道程として。

しかし初号機に碇ユイが融け込み、 そして綾波レイがサルベージされたことから話が変わる。
形而上生物学の第二基本原理(The Second Fundamental Principle)として 身体一つに魂は一つしか存在できない筈だったが、魂の融合という現象が確認され、 神の再生に人類を巻き込むべくそれに干渉する計画が生まれ、事態は一気に複雑になった。 干渉者でさえ、所定の身体に魂を追い込むのに 他の身体を全て滅ぼす以外の確実な方法が分からないというほど事態は複雑、 いやむしろシンプルになったか。
人とのインターフェースを保ち続ける綾波レイを経由してリリスに魂を追い込み、 人の心の壁の閾値まで下げて全人類の魂をアダムの融合に巻き込む。 第二基本原理のために 生物にしか魂は存在できず、生きていればガフの部屋は埋まってしまうために タイミングの調整はシビアを極めたものの、計画そのものはうまくいった。 その現在の形が上空の帯である。

思えば、地球上の生物は須く複数の意識体を一つに統合する方向で進化してきた。 単なる分子の集まりよりは一つの細胞として、 単細胞生物よりはむしろ多細胞生物へ、 そして孤立して生きるよりは社会という構造体をなすように。 ならば、この進化の究極の形の一つが補完世界ではないか?
この素朴な自然観と、彼らが血みどろの対立を繰りひろげて来た歴史観に飽いていたこと、 労力が複雑かつ微妙極まりない計画の推進につぎこまれていたために 計画推進者達には幾らかの心理的盲点があった。 それは補完への反発という形をとり、碇シンジの造反がその最初のものとなる。

心の壁がなくなるとは言い条、他人の心に手を突っ込めばそれは強姦も同じ、 心理的な禁忌から外に手を伸ばさぬ者がいた。
また、その意味を知らず、疑いの対象でしかなく、 相手が何を考えているかということが何故か解ったとして、 それが自分の思い込みだと思う者もいた。
自らの心さえ信じられず、 他の心と融合したとて、もちろんその現実に身を委ねるはずのない者。

現実世界に翻訳すれば一言ですむ。

「それは見なかったことにしよう」!
幸か不幸か、人々は個を区別することに慣れすぎていた。

ある意味で彼らが最も悲劇的だった。 赤い雪はすでに降りやみ、魂の還る場は閉ざされたあとである。 補完世界の融合が進むにつれ、 拒否反応から剥離していく彼らは誰に知られることもなくひっそりと消える。
この結果、 補完世界は予定よりも少しばかり力を失った。 また、少しばかり予定より純化も進んだ。


食堂で簡単な食事をとる二人にマコトが尋ねた。

「それで、これからどうする?
僕達と ‥‥ ネルフに残るか、それとも他にどうする?
「え、って ‥‥」
「メリットは? エヴァには乗れないし」

マコトはフォークをテーブルに置き、二人を見つめた。

「ネルフにいてくれたほうがいろいろと守りやすいんだ。 チルドレンという経歴は知ってる奴は知ってるから、 またエヴァが造られた時に乗せられるかもしれないよ。 エヴァを造るのがネルフとは限らないし。
ただ、もちろんウチがまた造る可能性もある訳だしね。
他の問題としては、 シンジ君が前に住んでいた第二東京は瓦礫の山で、連絡がまだ取りようが無いんだ」

シンジがのろのろと顔を上げるのにマコトは手を振って、

「ああ、今度の事件で死体はほとんど見つかってないから、大丈夫だとは思う。 アスカ君の御両親については、連絡がとれてるんだけど、ただ、ちょっと ‥‥ ドイツ支部のお膝元に戻るのもなんだかちょっとヤバそうなんだよね」
「どうしてですか?」
「そりゃ、ウチにクラックかけてきたとこの一つだし、 いつまた日和るかわからないからさ。アスカ君には悪いが、疑惑の種があって」

マコトは軽く顔をしかめた。
ドイツ支部は(旧)量産型エヴァンゲリオンの製造、運用実績をもつ。 そして本部消滅後、ネルフ所有のエヴァンゲリオンは 1 体も存在しないことになっており、 エヴァの引渡しにドイツ支部は応じる必要がなかった。 したがって国連とネルフの間には暫定地位協定を結んだ今も エヴァの所在に関して微妙な緊張関係があった。 ドイツ支部が実際にエヴァンゲリオンを所有しているのかどうなのかは もちろん最重要機密だったが、 この状況の下でチルドレンがドイツの手に渡ることの意味を知らぬマコトではなかった。
アスカも納得したように頷く。

「ふうん」
「問題はあるかないかじゃないんだ」
「そうね、どっちにしろ渦中の人になるってことね」
「そうなんだ。よく考えておいてくれ。俺達はなんにしても協力するから」

実際には同じことと言えなくもない。 適格者の動向はネルフと国連にとって お互いの動きを監視する重要ポイントの一つである。
国連の知らぬところで二人が消えたならば、 それはネルフが敵対色を強めたことの証拠であり、 逆にネルフの知らぬところで二人が消えたならば、 国連が敵対色を強めたことの証拠である。

焦点はドイツが適格者のうちの一人でも確保できるかどうかだから 適格者を半分ずつ分けて確保しよう、という考えは意味がない。 ドイツは適格者を何人まで確保する気があるか、 という問いはもちろん現有エヴァ数に直結する問いだから誰も知らない。 お互いの手のうちをさらしたくないがために政治に無関係な本人達の希望を尋いてみた、 というのが実情だった。


すべての生物には寿命が存在する。正しくは同じ遺伝情報をもつ DNA の集合には寿命がある。 遺伝子の複製回数制限と修復メカニズムの化学的限界のために常温の下では たかだか 200 年どまり、 多細胞生物では老化メカニズムによって一般に寿命はさらに短くなる。 「細胞」に構造基盤をおく生物の本質的な宿命だが、これは不幸なことだろうか?
もちろん上空の帯、補完世界はこのくびきから逃れている。 寿命の理論限界を定める最重要因子は魂の疲労回復メカニズムであり、 理論限界は 100 億年を越える (上空の存在自体の寿命はもちろん別の話、それよりかなり短いだろう)。

想像してみればいい。太陽系の余命はあと 50 億年ほどである。 宇宙全体の余命をあと 200 億年と仮定しよう(今の因果の地平までの距離である)。 たちまちのうちにやってくる 50 億年後、ただひとり虚空をさまよう姿を? そのさらに 150 億年ののち星さえ輝かなくなり、 そして強い相互作用が原子を維持できないほどに冷え切った宇宙で 独り身体を蝕まれて死んで行く姿を?

150 億年の孤独。 一口に 150 億年というが、熱い岩の塊からヒトの姿を取るものが生まれ、 口をきくようになるまでの時の流れの数倍に達する。 無機質の岩をも(将来の)友とするに足る、 逆に見ればそういうものを友とせざるをえないような孤独。

かつて、碇ユイが語ったことがあった。 それでもいいと。独り宇宙をさ迷うことになろうと、人が人として生きて来た証として ──
天性の楽観主義で彼女は人の未来を信じると同時に見通した。 150 億年の長さも「希望」があれば生きていける。 「希望」に祝福されるべき存在であるか否か、それが最後の鍵だった。


空が赤く染まり出すころ、シンジは後甲板に登った。 割り当てられた部屋で 2,3 時間ばかり熟睡し、久しぶりに少し心が軽い。
夕日をぼんやりと眺めて肩が重くない。もちろん忘れた訳ではない、と彼は思う。 「夕方」にまつわる事件も、「船」にまつわる事件も多く、 表層はともかく ともすれば心の奥底ではさわさわと流れるものもあった。 ただ、しばらくは忘れていても許されるだろう、陽がそう語りかけているように思えた。 ちょうど渚カヲルならば言ったにちがいないことを。
だからアスカがいきなり話しかけてきたときも、 自然に言葉を返すことができたのかもしれない。

「ふーん、あんたもそういう顔、できるんだ」

ふと気付くと彼女が少し離れて手摺を鉄棒のようにして凭れかかり、彼の顔を覗きこんでいる。 シンジは静かに答えた。

「そういう顔って?」

彼女が眼を逸す。

「‥‥。バカシンジ」
「そっちからふってきたんだろー、気になるじゃないか」

口をとがらせつつ、シンジは少し眼をみはった。 彼女にも生気が戻って来ている。 還ってからこちら、表情らしい表情を見たのは初めてかもしれない。 時を巻き戻したとも少し違う彼女の姿がそこにあった。
アスカが手摺から離れて立ち上がる。 黄色地の服に夕焼けの照り返しが微妙な色合いをつくり、はためく。 半ば場違いな思いでシンジはその色に見入った。

「シンジはさあ ‥‥ バカなのよね?」

シンジは渋い表情を作った。

「そんなにバカバカ言わなくたっていいじゃないか ‥‥」
「でさ、あたしはバカだと思う?」
「え、なんでそんなこと ‥‥」
「言っとくけど。あたしは天才よ」
「うん」
「あんたが言葉も喋れないドイツに来たら今よりもっとバカに見えるでしょうね」
「‥‥ うん」

何やら意味不明の会話が途切れ、シンジはぼけっとその空気に身を浸した。
ただ全部が全部その中にとけ込むことはできず、頭の片隅で絶えず警告ランプが灯り続ける。 今のアスカのように、普段は正視しがたいほどの炎の輝きがふと消えることがある、 静かでいい ── と思うだけでいいなら苦労することはなにもなく、 それは何かのシグナルでなんだろうというところまでは彼は理解していた。 ただ、その意味するところがまったく解らない。 解ろうとはしたが、解った気が全然しなかった。 何も変わっていない、彼は心の中で苦く自らを嘲った。
一度は何もしなかった。
二度目は横に座った。
三度目は?

シンジはその場に座り込んだ。アスカが無言で彼に目を向ける。 視線を外し、彼は風音に負けるかどうか位の小声で話しかけた。

「夕焼け。奇麗だね」
「‥‥ ええ」

船は日本列島沿いに太平洋を南下していた。 西方にあるはずの陸の姿は影もなく、太陽は水面の上に浮かぶ。 陸地でみるよりはやや小振りに感じる太陽が海を照らす姿は確かに美しかった。 そして天頂には陽に照らされた血の帯がすでに蒼み始めた空にくっきりと映えている。 手摺にもたれるように上を向いて彼女がつぶやいた。

「最後に ‥‥」
「え?」
「最後にレイに会った時どうだった?」
「どうって ‥‥」
「ファーストが何考えてこんなことしてるのかって、考えたことある?」
「何って、助けてくれたこと?」
「そっか、あんたにとっては助けてくれたことになってんだ」
「違うの?」
「あんたは ‥‥。それだけならここに居ればいいのよ。 なんで顔ださない訳?」
「いろいろ忙しいんじゃないの?」
「そーよ。で、なんで忙しいと思う?」

必死になっていろいろ思案し、補完世界でやることが残っているんだろうと想像する。 と同時にアスカが何を考えているかも分かった。

「向こうのが良かった?」
「‥‥」
「ごめん」
「結局あんたのその癖なおんないのね」
「これは違うよ。 謝ることになるかもしれないと思ったけど、でも止める気はなかったから」
「そう」

再び会話が途切れ、風の音があたりを満たす。 綾波の話題を続けるのは難しい。 シンジにとっては綾波は審判者であるという思いが先に立つ。 そうでなくても綾波には人としての意図を感じず、 アスカの視点は新鮮さと違和感があった。 ただ、そのあたりをアスカが話すことはないとシンジは諦めていた。 アスカと綾波の間の「約束」の存在は、 つまりアスカが何か綾波に妥協を強いられたということであり、 彼女が自分から喋ろうと思ったこと以外のことを口にすることはずがなかった。

彼はそっとアスカを覗きみた。二人とも生きて、今ここにいる。
当然だけども、あまりあたりまえでない事実。

彼女がまだ自力で(か綾波の力を借りて)向こうの世界に戻れるかどうか彼は知らない。 尋きたかったが、やはり彼女は答えないだろう。 彼女の持つ強力な切札であり、その札の使い方をシンジが聞いたとしても無意味だった。 言葉で全てが語れるような使い方はしないだろう。

彼自身、まだ入口にとっかかったばかりの多くのこと、 言葉ではまだ語れそうにない多くのこと。 再び心が閉じ込められた現世界で伝えられるとは思えない多くのことがある。
逆に、伝えられなくても、 例えばまだアスカが彼の目の前にいるということ自体が 複数の意味をもって語りかけてくる。 そして、少し離れた腕二つ分という距離が語ることも。 過去のことは過去のこととして忘れてしまえるほど彼は人間ができておらず、 それは彼女もそうだろうと彼は思う。 だからこそ、この距離は彼にも自然と理解できた。

「シンジ」
「なに?」
「あたしは、あんたが嫌いよ」

シンジも淡々と尋き返す。

「殺したいほど?」

彼は眼を逸しながら付け加えた。

「それくらいなら、たいしたことないよ」
「えっらそーに ‥‥。自殺もできなかったくせに」
「じゃあなんでアスカはここにいるんだよ?
‥‥ やめたんだ。そういうの」
「どうして? どうやって?」

アスカが静かに興味を抑えつけるように尋ねる。 その問い方はまるでテストの答え合わせをしているかのようで、 彼女の心の内にも既に答えが、柱があることを予感させた。

「なんとかなるんだ。きっと。たぶん。うまくいかなくても、何度でも」

もちろん取り返しのつかないことは一杯ある。 彼は銀髪の少年の顔を思い浮かべ、胸が痛むのを顔色も変えずに力づくで彼は抑え込んだ。

「‥‥」

幾分かつまらなさそうな表情のまま、彼女は返事をしなかった。


ある事件が個人に与える影響は様々な形をとる。 よほど大きなインパクトを与えた事件であったにしても 個人の行動を一新するまでには足りないのが普通で、 個人の行動の総和あるいは平均という形で集団の行動が決まるならば、 どんな事件であろうと社会の振る舞いに何らかの違いがでることはない。 それが社会の慣性というものである。

ある事件が全ての個人に同じ方向に作用したとすれば、話が違ってくる。
個々の人の行動としては埋もれて見えなくなるほど微かのものであっても、 こんどは逆に集団となると見えてくるようになるだろう。 地上に還った者達が補完世界への反発を抱えていたのなら、 補完世界に留まった者達はもちろん心を一にすることに期待した人達である。

純化がすすむにつれ、統一世界の思考にそういった個性が形作られていくと同時に 既に予告されていた自己矛盾がついに表面化する。
孤独を好まない魂だったから、「彼」もまた孤独を好まない。 心を一にすることに期待していたから、統一の動きは止まらずに 「彼」は唯一の存在となる。
そして、今になって「彼」は自分が孤独な存在であることを知った。

渚カヲルをして「生と死は等価値」と諦観の彼方に追い詰めた、 全てを見通すだけの知性を得てしまった者の不幸。 孤独な 100 億年を生きてすごそうと、死んで過ごそうと、 そこにはなんの違いもなかった。 生き延びることに価値を見出す者のみが生き延びるべきなら、「彼」はどうすべきだろう?

孤独は全ての使徒が本質的に抱える哀しみではある。 ただ、アルミサエルの強がりも、タブリスの独白も「彼」は知らない。 「彼」には過去未来いずれにもそれを分かちあう者がいなかった。
補完計画に於いて碇シンジは鍵であり、綾波レイは核だった。 もし彼らが心の統合に参加していたとすれば違うこともあっただろうに ‥‥
誰も自分の記憶や感情から逃れることはできず、 追い詰められた絶望の果てから生まれた「彼」が最初に知覚したのは、 やはり絶望でしかなかった。

「彼」の知覚は内側を向き、嘆き哀しみに暮れる。 その外側に、さまざまな思いに捕らわれうち震える「彼」をじっと見つめる心があった。 「彼」の行く先が彼女にも分かり、目を瞑る。その痛みが少しでも和らぐように、 彼女は「彼」に我が子のようにそっと触れた。


彼は自分の狭い部屋に戻って、ふと我にかえった。 実に、実に久しぶりな彼女との「普通の」会話だったことに気付く。 心に届くものが何一つない限りなく空虚なものだったにせよ、 それ故に安心していられたアスカとの会話だった。 急に疲労感に襲われ、彼はベッドに倒れ込んだ。 腕に触れた枕に顔をうずめる。

「‥‥ 宿題」

部屋に入る直前に、アスカがぼそっと問いただしたこと。 シンジはこれからどうするか。 それを口にした時のアスカを思い出して彼は身震いした。 興味ないがゆえに興味津々といった瞳。 自分とは関係のないコトについての決断、 それは「碇シンジ」の決断でなく、 「補完世界からの開放を決断した者」の決断に対する興味だった。

自身にしか関係ない、自身のためだけの、決断。
心に決めることの無力さを彼は十分に思い知っている。
第三新東京市に来たこと、
エヴァ初号機に乗ると決めたこと、
第三新東京市を離れると決めたこと、
第三新東京市に残ると決めたこと、
エヴァ初号機に乗るのを止めたこと、
エヴァ初号機に再び乗ると決めたこと、
渚カヲルを殺したこと、
そして補完計画を断ち切った決断。

まがりなりにも彼の自由意志は常に尊重されてきた。 誰もそうしろとは言わなかった。

にもかかわらず ──
今までのどの決心もすべて他人を巻き込むものだった。 そのためもあって巻き込まれた者は後で必ず彼の決断を批判してきた。 ミサトしかり、アスカしかり。最近では綾波も。 それをいかに煩く思おうとも、 それがあったために決意の責任が全て彼にかかってきた訳ではない。 「彼に決断させたこと」によって彼らが不利益を被るならば、 決断させる前にアドバイスするなり命令するなりすればよかったのだから、 少なくとも彼らは「彼に決断させたこと」の責任は取らねばならない。

多くの場合、 シンジには決断しない自由さえあった。第二東京に住んでいた頃のように。

「碇シンジ」の決断には興味がない、そう告げるアスカの瞳は シンジの胸に深く突き刺さった。 今までのシンジの決意が、シンジの思うほどには孤独なものでないということを、 よりはっきりした孤独の中に置いて示した。
むしろ完全な無関心のほうが衝撃は少なかったろう。 決断そのものを意識することがなかっただろうから ‥‥

彼の父親がサードチルドレンとしての彼にしか興味を抱かなかったのとはまた違う。 エヴァにシンクロできるということは、 忌み嫌おうとともかくも彼の生まれながらの才能の一つである。 「補完世界からの開放を決断したこと」は、たまたま彼がその場にいただけの、 彼にはどうしても自分に関わることとは思えないことだった。

「まだ、マシだったのかよっ」

彼はベッドから跳ね上がって吐き捨てた。
それは、彼が過去の構図をぼんやりとだけれども理解した瞬間だった。
ここでなにを選ぶにせよ、誰も干渉しないだろう。そうする理由も権利も義務もない。

不当な重圧と感じたものはなんだったか。 彼のなした決断として誰もが幸福になった訳ではない、その責任の重さはどこから来たか。

彼の視野はまだ彼の周りに届いていない。 シンジがエヴァを動かすだけの人形でなかったのと同様、 彼に関わった人達も彼に命令するだけの機械ではない。 そこには意志があり、意図がある。シンジの想いを誰も理解することがないように、 彼らの想いをシンジが理解できるとは限らないし、 どこまでシンジが理解できるかという判断を下すのは彼らであってシンジではない。

過度の説明不足がさらにシンジを視野狭窄に招こうと、それは誰の責任とも言いがたい。 たとえば作戦成功率 0.008% の論理的な説明を延々と聞かされた後で出撃できるだろうか?

── 彼はほんの子供だったのだ。


引き返せぬ道と知った時、 補完世界内部の自己反発、憎悪を投射した先として彼ら(かあるいは「彼」) は碇シンジを選んだ。 彼は補完の切っ掛けを務めた者、そして終焉を定めた者。
「彼」はもがき苦しみながら碇シンジの所在を見定める。 彼の者が地球の明暗境界線を過ぎ、明るい領域に入ったところで「彼」の真下にくる。 そして一筋の赤い光柱が空から地上に降り立つ。 さながら雷神の鎚のように。それは、ある神の断末魔の叫びでもあった。

彼女は止めなかった。ただ ‥‥


翌朝、たいして眠れなかったシンジがまぶたをこすりつつ甲板に登ると、 アスカが手摺に腰かけていた。彼女はシンジを目にとめると、 一瞬舌打ちするような表情を作る。彼は見なかったことにして話しかけた。

「おはよう」
「おはよ」

彼はアスカから少し離れた場所に陣どった。 空には雲一つない快晴で、 そろそろ眩しくなってきた青空を背景にした暗い帯はこころなしか元気がない。 正面には朝日に照らされて木々が輝く陸地があった。多分、紀伊半島。 シンジはぼんやりとそれを眺めた。

「あのさ、アスカ」
「なに」
「決めたよ」

と、一瞬にして目の前がホワイトアウトする光量と振動、硬い金属音で二人とも放り出された。 悲鳴を上げる暇もあればこそ、 甲板の上を二人して転がり、階段の入口の手摺にようやくにしてしがみつく。 巨大な空母が水面に浮かぶ木の葉のように大きく揺れ、甲板を激しく海水が洗う。 風が渦を巻き、船の後ろに引く軌跡が消えた。
階段に身を滑らせながら攻撃方向を見上げると暗い帯がアスカの目に止まる。

「まさか、あれなの!?」

シンジもちらと目を向ける。それならまだ生きているのはおかしい、 ふと見回してともかくも船が無事な訳を知った。綾波が戻ってきている。 反射的に甲板に戻りかけて揺れる階段につまづく。アスカが彼の腕を引っ張って止めた。 振り向くと彼女の顔は真っ青。訴えかけるような彼の瞳にアスカも瞬時に冷静さを取り戻す。

「で、あんたはどうしようっての?」

彼が鼻白んだ時、第二射が落ちた。


その攻撃は空母を直撃する寸前で赤い壁に遮られた。 自らをも焼き尽くすような渾身の一打は 「彼」から再び分かたれた半身、綾波レイのフィールドによって その力を減じられ、弾かれた。

源を同じくする矛と盾。第一撃は盾が矛を防ぎ切った。

ただ、レイも忘れていた。彼女には地に足をつけた戦いしか経験がなく、 彼女が AT フィールドを経由して受け取った運動量のごく一部が そのまま身体を伝わって激しく船を揺らす。 油断なく上空を見つめながら姿勢を整え、身体を船から浮かす。彼女はふと眉を顰めた。

「?」

第二射が大きく外れる。 脇の海面を叩き、海水をごっそりと抉りとる。 彼女が気付いた時には遅く、すでに不安定だった船を沈めるにはそれだけあれば十分だった。 脇からの水蒸気爆発、大波を受けて空母が横転する。 反射的にとびのいたレイは船体が波間に半分沈みながらもそれ以上の変化がないのを認め、 再び上空を睨んだ。

上空の帯はすでにかなり薄くなっていた。 レイは表情をやわらげ、身体を船の真上さらに浮かび上がった。 横転した空母の脇に小さいボートが多数浮かび始める。

レイは自分と船の間にフィールドを展開し、目を閉じた。そして第三射。


彼は夢をみた。
白い、何もない、誰もいない空間だった。右も、左も、上も、下もない。 ただただ無限に広がる何もない空間に彼は居た。

この空間の広さに少しばかり心が重い。他にすることもないのでじっとそれに耐えた。 何もないから時間の経過も分からない。 気付いてからまだ 1 分なのか、それとももう 1 時間くらいたったのか。あるいはもっと? ふと綾波の顔が思い浮かんだ。 と、彼女が宙に浮かんだ姿で現われた。

「宙に浮かんだ?」

彼は疑問に思って足もとを見下ろすと、彼はいつのまにか地面の上に立っていた。 白い地面で一見、ものすごく気付きにくい。 周りと同じに見えてつい下も空間が続いていたものと思ったのか。 納得してもう一度見上げる。相変わらず綾波は宙に浮かんでいた。

「おおい」

彼が近付いて行って声を掛けると、すうっトン、と彼女は彼と同じ地面に降り立った。 二人の目があう。

「あなた、誰?」

彼のことを良く知ってる筈なのに彼女がいぶかしげに尋ねる。 腹立たしげに答えようとして

「え、あれ?」

彼は自分が誰だか思い出せず、少し戸惑った。

「ほら、僕は僕だよ。いいじゃないか、それで」
「‥‥」

そして三人目が姿をあらわす。 長身で、濃いサングラスをかけ、髯を生やしている。 彼はこの人のことも何故か知っていた。碇ゲンドウ。

「なぜここにいる」

ゲンドウは彼に向かっていきなり失礼なことを問い質した。

「ここは僕の世界だっ!」

彼は叫んだ。するとさらに二人、人があわられた。 二人のうち背の高い、白衣を来ている女性は知っていた。碇ユイ。少し、懐かしさを感じる。 彼女が肩に手を置いている、やや背の低い碧眼の少女は知っているような気がしたけれど、 彼は名を覚えていなかった。
その少女が彼を睨み、そして厳然と言い放った。

「誰の世界ですってぇ? あんたバカぁ? ここは私の世界に決まってんじゃない!」

彼は突然、この世界が彼のものでないような気がしてきた。 不安になるはずなのに、何故か安心感が湧き上がってくる。 彼は首を傾げた。

「あれ ‥‥?」

綾波が微笑みながら彼の手を取って尋ねた。

「私と来る?」

この世界は僕のものじゃない。 彼はそうするのが自然なように、彼女の手を握り返そうとして気が変わり、手を放す。

「違う! 綾波はここにいなきゃ駄目だ、そして僕も」
「ここはあなたの世界じゃ無い。それでも?」
「‥‥ そうだ、と思う。あ、思い出した ‥‥」

彼は唯一人、名を知らなかった少女に向き直った。

「アスカ ‥‥!」

周りにとけこまず、独りどうしようもなく孤独感を深めていた少女の名を、彼は思い出した。 彼女が戻って行った道筋と共に。
再び綾波レイが尋ねる。今度は少し微笑みを浮かべて。

「あなた、誰?」
「僕は、『僕』だ。
でも名を思い出す前に礼を言っておくよ。 このためにそばにいてくれたんだね ‥‥ ありがとう」


シンジが目を覚ますと、寂しい広い白い空間の中にあった。

「知らない天井だ ‥‥」
「なに寝ボケたこと言ってんのよ ‥‥」

半身を起こして振り向くと壁際の椅子に不機嫌そうに、 声には少しほっとした様子のアスカが腰かけていた。 少し離れていて、横になっているシンジからは死角になっていたらしい。 その部屋はなんとなく病室を想像させる、 というよりは多分、どこかの病院だろうとシンジは思った。
少し頭が重い。彼が頭に手をやると、包帯が巻かれている。 アスカもその様子をじっと見つめている。シンジは少し気まずくなって尋ねた。

「ここ、どこ?」
「和歌山の病院。ネルフがまるごと接収したから、ネルフの病院と思っていいわ」
「そうなんだ ‥‥ アスカは大丈夫だったの?」
「おかげさまでね」
「?」
「覚えて、ないか」

彼女の言葉に首を傾げたところでノックとともにマコトが顔を出した。

「どうだい?」

アスカが代わりに答える。

「大丈夫そうだけど、さすがに明日は無理なんじゃない?」
「そうか ‥‥ 一応、診てもらってっと」

彼女はシンジを一瞥し、頭を捻るマコトに、

「日向さん。まだドイツには帰れないわ。
こっちで身を隠すとこ、用意してくれる?
監視付きでいいから、シンジと一緒に」
「分かった。そうするよ。じゃあ岐阜に戻るのは明後日だから、そのつもりで」
「あ ‥‥」

シンジが声をあげる間もなく、マコトが病室から足早に出て行く。 ドアが閉まるのを見届けてアスカが彼を見つめた。

「で、何?」
「‥‥ いいよ、もう ‥‥」
「なによそれ?」

彼女が口をとがらす。シンジは苦笑の下に微笑みを隠した。 アスカが天才だ、と言われていてもシンジが実感したことは実は一度もない。
シンクロ率の数字は彼が追い抜いてしまったし、 エヴァの操縦に関しては彼が素人すぎて比較する意味がないし、 学校の勉強も漢字が足を引っ張っているにしても その才気を見たことはほとんどない。 どちらかといえば、天才だと自負することによる自信過剰の方が目についた。 そして、そのために彼女が無視してきたことがむしろ気になる。

だから、軽い驚きをもって彼女の提案を受け入れる。 ごく、僅かの差と思うことが容易なことでは縮まりそうになかった。 過度の単純化でなく、 彼が考えるかぎりをつくしたことをごく単純なこととして捉える時の決断の早さ。

かつて彼にそういう視点はなかった。彼の価値観の中になかったからである。 そういう価値観があって初めて得られる観察力というものもあり、 それはまさに惣流アスカの視点である。 彼女が感じてきた「理不尽さ」が彼に理解できないのも無理はなかった。 今シンジが悟ったこととして、 他人の価値観に基づいて物事を眺めることの真の難しさ、 他人を理解することの意味。

「解ろうとしたんだよ!」
という叫びのいかに傲慢なことか。 ただ、自分の無力さを嘆くこと自体は罪でない。 それは克服への動機となる。 そして時間が流れること、ただそれだけのことに意味がある。 目を啓いてさえいれば ──

「あの、アスカ」
「なによ」
「ありがとう。ずっとそこに居てくれてたんだよね」
「‥‥。借りは返したわよ」

身に覚えのないシンジはいぶかしげにもう一度首を傾げた。 ビルの屋上の件と思い当たる。

「そういえば、綾波は?」
「ぴんぴんしてるわよ。あんたが一番重傷」
「良かった ‥‥」
「向こうでやること、ぜんぶ終ったってさ」
「そうなんだ ‥‥ じゃあ、もうずっとこっちに?」
「そ」

暫く考えこんでからシンジは顔を上げた。

「あのさ、アスカ、好きだって言ったら信じてくれる?」
「誰を?」
「アスカを」
「え ‥‥? あの、シンジ、あたしは ‥‥」

不思議なほどうろたえる彼女にシンジは暗い喜びを感じた。 アスカの殻をつきぬけた、らしい。
ただ、ここ数日の強烈なストレスに彼も神経が麻痺している。 とてもアスカに言える言葉ではなかった。

「信じてくれるかどうかだけ訊いてる」
「‥‥ うん、信じる」
「ありがとう」
「あたしも言うけど。 今のあんたは嫌いじゃないわ。 ただ、あんたは ‥‥ あたしの嫌なとこばっか思い出させんの」
「うん。それはまだいいから。でも、ありがとう。信じてくれて」

二人が見つめあう。アスカの脇のドアが開く。 レイが入ってきた。

「あ、綾波!」

アスカは表情を消して、シンジは喜びの表情でレイを迎える。

── こうして、世界は再び stable stage に入る。
あの時、第三射が目を閉じたレイを直撃する直前でフィールドもなしに何故か急激に折れ曲がり、 こんどは上空の帯が尽きるまで赤い雪が降った翌日のことである。


作者あとがき

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