2018年7月10日:<記号>についてのちょっとした考察。。。

    吉田民人は<記号>の概念を一般化して、生命体が刺激に対して反応する時、その刺激が記号であり、反応が意味である、とした。どのような刺激のどのような側面に対して、どう反応するのかは、それぞれの生命体によって異なる。それは、その生命体が子孫を残すとか生き残るとかするために進化あるいは学習した刺激−反応の対である。生命体は同じ刺激に対していつも同じ反応をする訳ではない。その刺激を取り巻く状況やその個体の来歴によって反応のあり方もまた変化する。しかし、種だとか年齢だとか、様々な付加条件の元で反応のパターンがおよそいくつかに決まっている。刺激から反応に至る道筋は生物体の体内体外での非常に複雑なネットワークを成していて、全てを分析し尽くすことは不可能であるが、観察を積み重ねれば、大まかな道筋を整理することはできるだろう。

    反応に至るまでの道筋の全体やその結節点は刺激に対する動物内部の反応と考えれば<内部の意味>とでも定義できるだろうが、常識的に考えて、それが露わに見えることはない。しかし、反応の中には動物の共同体の中で洗練されていくものがある。敵を発見したときの仲間に知らせる役割をする叫びとか、そういったものである。そういう社会性に規定されて進化あるいは学習された反応は、その反応結果自身が他の個体によって刺激=記号として受け取られる。これが狭い意味での記号の定義だろう。その記号は直接的な刺激ではなく、他の個体が刺激を受けたことを知らせるものである。こうして、それまで<敵>という刺激=記号から直接<逃げる>という反応=意味が生じていたのに、<敵>から<叫び>を介して<逃げる>という社会性に適応したプロセスが出来上がる。このプロセスを<敵>から<内部の意味>を介して<逃げる>という従来のプロセスと比較すると、<叫び>という記号らしい記号が、今まで認識されなかった<内部の意味>に対する記号として機能することが判る。勿論そのように機能するのは、敢えて人間だけとは言わないにしても、ある程度脳の発達した動物についてのみであろう。

    この<叫び>記号の意味は何か、というと、吉田流には<逃げる>という行動であるが、意味の定義としてもう一つの選択は、もともと<逃げる>という行動を起動させるための神経活動、つまり<内部の意味>とすることである。これは明らかに、他者(叫びを発する者)の<意志>を思い描く、という能力を持つ動物にしかできないことである。この場合、<叫び>を発する者が<逃げなくてはならない>と<思っている>ことを意味している。その者の恒常性を維持しつつも、その者の意志という非定常現象を想定すること。

    <叫び>に類似したものは多くある。闘う時の<威嚇>とか、交尾に至る複雑な<儀式>とか、動物がお互いに相互作用するときには必ずと言ってよい程このような<記号>が使われている。それらを受け取る側は直接的に受け取っているのか、例えば威嚇のポーズに直接威嚇されているのか?それともそれが比喩的演技的なものであることを知りつつ認識しているのか?つまり相手の意図として、受け取っているのか?これはよく判らないというか、そのどちらでもある。というのも、これらの選択肢はあくまでも人間が観察して分類しようとするから生じるのであって、解釈の側の問題にすぎない。動物の自己意識や他者意識などはあると言えばあるし無いと言えば無い。あるとしてもそれは人間の持つ意識とは別のものであるから、それをどちらに分類するかに拠る。

    <敵>→<内部情報処理>→<逃げる>というプロセスにおいても<敵>→<内部処理>→<叫び>→<他者の内部情報処理>→<他者が逃げる>というプロセスにおいても、吉田流記号論で言えば、<敵>の意味が<叫び>でもあり<逃げる>でもあり、同時に<叫び>もまた記号であり、その意味は<逃げる>である。しかし、ここで、<叫び>の意味として<内部情報処理>、つまり叫んだ者の<心の状態=意志>を想定する、という時間順序を無視した見方もあり、これは<叫び>という記号を単に認知しているのではなく<認識>している、ということである。認識というのは<叫び>を聞いた者にしか判らない現象である。実際、認識をすることなく(無我夢中で)逃げていることがある。物理的には逃げる方が先であり、認識が後であるから、実際には<叫び>の認知から、一方は<逃げる>という行動へ、他方は<他者の意志推定>という認識へという、2つの情報処理が並列して行われている。人間はこれら2つの<意味>生成の時間順序を並べ替えて因果関係を後付けする。何の為に?

    そもそも記号現象そのものが、刺激全般の中に特別な境界を設けて、その内部にある刺激を記号として、それに特定の反応=行動を結びつける、という生物の差異化行動そのものである。類型化というのも同じ差異化行動ではあるが、その対象が刺激そのものではなく、既に規定されている記号空間である、という点で階層が一段上の現象であり、多分人間を特徴付ける現象だろう。

    生物自身の行為は他の生物にとっての刺激となり得る、という事実は、おそらく記号現象にとって極めて重要である。記号刺激と反応行動が生物の間で繰り返されて反復され増幅され、適応・進化・発展していく。ある意味でそれは、例えば繁殖行動における儀式のように、生存上無駄な繰り返しのようにも見えるし、逆に、例えば争いの回避のように、エネルギー浪費を節約しているようにも見える。

    更に、記号そのものを対象化して事物として扱える、というのは多分人間の特権だろう。本来生物に反応行動を促す記号が、人間にとっては扱う対象ともなる。熟練した作業、スポーツ競技、舞踊や音楽や絵画、数学や物理学や語学や社会学等々、というありとあらゆる<文化>活動は記号であるが、それを事物として扱える(並び替えたり、消したり、作ったりできる)からこそ、人間は記号化をマニュアル化し、繰り返して練習し、ついには自らの行動を記号と化すことができる。つまり、文化の伝承や発展が可能となる。この<記号を事物のように扱える>という能力はどこから来るのか?記号に反応する、という自然な行動だけでなく、記号自身を対象化する、ということ。それは、他者が発する記号からその他者の<心>を見る、という能力、つまり記号を<認識する>能力とどう関係しているのか?一方で記号は自らの身体の反応を促し、他方で記号はそれを発する者の意志を指し示す、というこの分裂こそ、記号を対象化する契機ではないだろうか?

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