西田公昭講演『マインドコントロールとは何か』

 統一協会のマインドコントロールを研究する社会心理学者・西田公昭さん(静岡県立大学講師)が、1995年8月27日、日本国民救援会第14回岡山県本部大会(岡山国際交流センター会議室)で「マインドコントロールとは何か」と題して記念講演した内容です。なお、テープ起こしと編集は支援する会の責任で行いました。西田さんの同名の著書は紀伊国屋書店から出版されています。

もくじ
マインド・コントロールということば
マインド・コントロールという言葉の誕生
マインド・コントロールの説明
状況のコントロール
集団の閉鎖性−集団浅慮
・・・
「青春を返せ裁判」を
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 はじめまして。西田でございます。今日は暑い中、みなさんたくさん集まってくださいましてありがとうございます。
 わたしがまとめました『マインド・コントロールとは何か』はすでに出版されてしまいましたので、分からない部分とかは本を読んでいただければもっといいのかも知れませんが、同じような部分も含まれると思いますがお許しください。

マインド・コントロールということば

 マインド・コントロールという言葉が流行語のようになってしまいまして、ほとんど知らない人はいなくなってしまいました。一連のオウム報道を見た人は、だいたいこんなことだろうというご想像がお付きになっている訳ですね。もう少し情報通の方は、一九九二年に合同結婚式を挙げた統一協会。そのときに各テレビ局が報道いたしましたので、そのことですでに知っていらっしゃる方もいたかもしれません。この二つの教団を通じてこの言葉は一般の人に広まった訳なんですが、だれも専門的に、具体的にきちっと説明した人がいなかったもんですから、概念というか、言葉の意味が広くなってしまいまして、心の操作とか、精神の操作とか、あるいは自分自身の心の調整とか、さまざまな意味に用いられるようになってしまいまして、迷惑している人たちもたくさんいます。まずはこの点を整理しておきたいと思います。
 少なくとも心理学におきまして、マインド・コントロールという言葉はほとんどの人が使いません。なぜならば、マインド・コントロールを心の操作とか精神の操作とか訳してしまいますと、ほぼ心理学とイコールになってしまいます。幅の広い話になってしまいます。あるいはもう少し限定しても、応用心理学のレベルなんですね。心理学を応用して問題解決の手法を、というような話になると、まだまだ広い話になります。いろんな人が解釈して、本にも書いたりしていて、全く違うものがマインド・コントロールと誤解されてしまうと杞憂しています。
 要するに、自分で自分の心が不安になったり、あるいはスポーツなどをするときに、上がってしまって自分のやりたいことができないとか、そういったときに何とか精神を統一させようとかしますが、こういうときには使わないんです。こういうときには、セルフ・コントロールという言葉があります。わざわざマインド・コントロールという言葉を充てる必要がありません。他人に対して何か施すという心理的な操作、カウンセリングに近いもの、心に悩みがある人が病院や精神的なクリニック、診療所に行って悩みを聞いてもらってくる、というようなことも、ある程度マインド・コントロールに含めて説明されてきました。これも心理療法とかカウンセリングという専門用語がありますので、これも外していただきたい。
 ある集団や個人、社会にとっては困ったことをする集団なんですが、そういう人たちが自分たちの都合のいい目的のために、人の心をこっそりと操って自分たちの目的を達成する、というような手法について呼ぶものです。そういうふうに限定して使っていただきたいと思います。正式には、カルト・マインド・コントロールと言っていたんですが、長いもんですからカルトが取れたんです。
 カルトとは、ある熱狂的信念を持ち合った集団のことを指します。カルトそのものは、悪いものではありません。宗教の世界では、小さなグループが一つのことを信じて、それから発展して大きな宗教になったこともあるので、そのこと自体が問題ではありません。ところが、ある種のカルトには危険な共通性をもつものがあります。専門的にはその集団のことを破壊的カルトと分類しています。カルト・マインド・コントロールをもっと正確に言うと、破壊的カルトのマインド・コントロールということになります。世間で問題にしているのは、この破壊的カルト・のマインド・コントロールだと思って下さい。

マインド・コントロールという言葉の誕生

 破壊的カルトのマインド・コントロールという言葉は、アメリカ合衆国で登場するようになりました。アメリカ合衆国では、1970年代になって、既成宗教と違ったさまざまな小さなカルトがたくさんできました。その背景には、強き自信に満ちあふれていたアメリカが少し没落気味になり、行け行けムードだったアメリカがベトナム戦争を経験するころから価値観が崩壊していきました。家族集団がめざすべき理想の姿が見えなくなったし、理想としての社会も見えなくなりました。凶暴な犯罪も多くなりました。・・・などさまざまに「自由社会」の陰りが見えてきました。そういう時代背景の中にさまざまなカルト集団が現れてきました。
 その中で、一つの大きな事件がありました。1978年11月18日です。ザピープルズ・テンプル(人民寺院)という集団が南米のガイアナに潜んで、王国のようなものを作り共同生活をしていました。彼らは、黒人とか弱い者を解放しろという理想的な目標を掲げて、それなりに一生懸命、正しいと信じて活動していました。リーダーがジム・ジョーンズという人でした。その時いろいろと疑問が出てきて、教団を視察調査するという議員が出て、調査団が教団に乗り込んだのです。そこでは、いろんなまやかしやウソが暴露されていき、追い込まれた教団は集団自決することになりました。集団自決した数は、九百何十人というおそろしい人数で、小さな子供がたくさん含まれていました。映像で見ると、ホントに悲惨でした。青酸カリを飲んだ訳で、いたる所にバタバタと死んでいるんですね。全員が自分で死んだ訳ではなく、何人かの死にきれなかった人は撃ち殺されているという事態です。これをアメリカの学者たちが非常にびっくりして、これは何か異常だ、という訳で、彼らの病理現象を説明しなければいけないと、多くの研究者が手を出していった訳です。死んでしまった集団を追いかけることはできないので、さまざまなカルト集団の研究に入っていきました。その中で、まず興味を持たれたのは、カルト集団に入ったメンバーが何らかの原因で脱会することがあります。その脱会者の中にさまざまな病的なもの、後遺症を持った人がいました。悪夢にうなされるとか、不安でたまらないとか、突如として体に震えがきてしまうとか、いろんな症状を訴えたんです。当然、そういう事態になりますと、精神医学の人達が対応する訳です。そういう人がたくさん集まって臨床データを集めました。1980年前後、「カルトが新しい病気を作った」とセンセーショナルにアメリカのジャーナリズムを騒がせたことがあります。「カルトに入ると病気になる。とんでもないことだ」。
 それからカルトの問題には、病気とともに、「入信させる過程が普通じゃない。入信したメンバーが虐待を受けている。あんなのは人権侵害の活動だ」として、社会問題性が浮上してきました。そして当時は、入信のプロセス、中での活動が細かく調べられていきました。どうも本人の自由な意思で入ったのではなく、何か外部からの影響力があって、それに引っ張られて強引に入れられてしまったのではないかという仮説が生まれました。それが、マインド・コントロールという言葉が生まれる発端になっています。その研究の中心になっている精神医学の人たちは、この現象を説明するのに、自分たちの土俵の中で過去のデータを探ってくると、洗脳という言葉が出てきます。つまり、カルトの現象を説明するには、洗脳という理論を持ち込めば解明できると信じました。
 その洗脳という言葉は、1950年くらいにアメリカの中では流行した言葉です。それは、中国共産党を中心として、朝鮮半島で戦争が行われたときに、そこで捕まった戦争の捕虜たちを中心として思想が改造させられて、アメリカからしてみれば、愛国的な、自由主義・民主主義万歳と言っていた人たちが、その戦争から帰ってみると共産主義万歳に変わっていたという話でした。「どうも共産主義者たちは、何か非常に強い、人間の信念とか心を打ち砕く特殊なマル秘のテクニックを作るのに成功したようだ」という話で、洗脳という言葉が大はやりになったようです。
 時代とともに、洗脳という言葉は衰退していきました。ところが、カルトという現象が70年代に起こって、再浮上した訳です。「まだ洗脳がやられている」という話になりました。ところが大きな問題がありました。洗脳というのは、理論ベースは精神医学的、生理学的な、人間の神経細胞のつながり、連結、そういったレベルの話で、かなり科学的に理解されていますが、カルトの現象というのは、そういった次元で説明することがあまりできません。身体的虐待というか、基本的には拘束する訳です。戦争の捕虜は、少なくとも檻の中に入れられて、犯罪者としての環境におかれます。日常的な私たちの環境と全く違う、異常な環境な訳です。そこにおいては、普通の人間の日常と全く違う心理です。本人としては、明らかに何かの強制を受けているということが認識できるような状態です。だからその人に、「おまえはどういう状態にいたんだ」と聞く訳ですね。「檻の中に入れられた」…そういうような状態であることがよく分かった訳ですね。
 ところがカルトの問題になりますと、「私は薬を打たれた訳ではないんです」、「どっかに閉じ込められてた訳でもないんです」と。「じゃあ問題なしだね」。法律の問題については、こういうような話になるんですね。岡山の青春を返せ訴訟の記事を読ませていただきましたが、そういう議論を持ち込まれると全く歯が立たない。マインド・コントロールをそういう理解でやられていますと、歯が立たない訳です。「薬を打たれた訳でもなければ、やれその人が檻に入れられた訳でもない。勝手にあなたが好き好んで入ったんじゃないか。その中で勝手にやってたことじゃないか。それなのに何で訴訟だどうだこうだと言えるのか」−おそらくこういうことが岡山の裁判長さんは言いたかったんでしょうね。でもそれは、彼自身が立脚しているポイントというのは、彼独自のもんじゃあないんです。
 実はアメリカの裁判の歴史の中でも、何度もそういう問題があるんです。最も典型的な例を申しますと、1974年にパトリシア・ハーストの事件がありました。パトリシア・ハーストというのはサンフランシスコに住んでいました、いわゆるご令嬢なんですね。ハーストは、当時アメリカの中では最も有名な大富豪の一人で新聞王といいまして、その娘さんであったパトリシアという人がですね、大学生だったんですけれども、あるとき誘拐されましてね。誘拐されて洗脳を受けたというような裁判が当時行われた訳です。
 簡単に申しますと、そのパトリシア・ハーストは誘拐されて、その犯人グループと大富豪との間で交渉が成立して、人質から解放されたんです。でも、解放されたにもかかわらず、当時19才のパトリシアは、お父さんお母さんの元に私は戻らないと言って、その犯人グループといっしょに行動するようになったんですね。実は銀行強盗までやらかして、犯罪に手を染めてしまった。その後逮捕されて、裁判になった。
 その裁判の話なんですが、大富豪の方にしましては、何とか娘を救いたい。一生懸命いろんな手をつくした訳です。まず何とか成功したのは、いわゆるリプログラミングというんですが、今の言葉で言えば救出カウンセリング、あるいは脱会カウンセリング。そのカルトから人格的にはもう一度元のパトリシア・ハーストに戻すことに成功したんです。つまりマインド・コントロールを解くことに成功したんです。それで裁判に臨んでいった訳なんですけれども、そんなマインド・コントロールというものが当時のアメリカの裁判所に受け入れられなかった訳です。いろんな説明をしました。一つの代表的なのが洗脳です。それから催眠という方法で説明しようとした人がいました。実際は、どちらも科学的でないと言われて、その裁判は負けたんです。
 それが代表的なマインド・コントロールに関する裁判なんですが、それ以後もさまざま、例えば統一協会を代表するようなカルト・グループの裁判はたくさん行われている訳ですが、どこでもあまり好ましくない状況であったようですね。80年代を通じますと、どうやら基本に洗脳の理論を持ち込んでいるんです。ですから、洗脳という理論を持ち込むと、前提として必要になってくる「身体的拘束があったか」、「薬物なんかの直接的攻撃があったかどうか」、そういったことが問題になる訳です。そうすると、「ない」という答えをせざるを得ない。したがって、被告の方は無罪放免。つまり、カルト集団に入った方の自由意志であったという判定になってしまった訳です。
 それで1980年代後半になってきて、アメリカの方では少し事情が変わってまいりました。つまり、この問題は洗脳として説明するのは間違いだというのに気が付きだしたんですね。で、精神医学の人々よりも、私たちのような社会心理学をやっている人々の理論というのが登場してきたんです。つまり、それぞれの研究者が自分の立場といいますか、どうしても自分が学問的に知っているところから説明しようとする訳ですから、精神医学の人たちは精神医学の理論を捨てる訳にはなかなかいかない訳です。でも、どうしても自分たちの理論だけでは説明できなくなってきている事実がある訳です。で、精神医学の人も、社会学とかあるいは社会心理学とかいうような人たちと協力し合って、チームを組んで研究をするとかいうようなことがどんどん行われるようになってきています。
 それで80年代後半になって、いくつか新しい言葉が登場します。例えばある人々は、破壊的説得という言葉を使いました。そのような言葉は定着しなかったんですけれども、いろんな人が新しい言葉を作り出して、とにかく洗脳とは違う理論で説明しようとする動きになってきました。で、80年代後半から90年代にかけて、そういうように、アメリカの中で精神医学的理論から、心理学・社会心理学的理論へと変わってきたのです。それが大まかな歴史的な流れです。

マインド・コントロールの説明

 それじゃあ、社会心理学者が中心になって考えているこのマインド・コントロールに対する説明、考え方を少しお話ししたいと思います。
 まず大前提から入ります。人間を捉える大前提というのは、日本の法律なんかとは相いれない部分を持ってしまっている−というところから入らなければなりません。つまり、特に法律なんかは「人間は理性的で、自由意志というものを持っていて、何でも理性的に行動するんだ」というふうな前提をとられているようですが、私たちの立場では、全然そういう立場はないんですね。それから、心理学というといろんな心理学があるもんですから、心理学一般の中でも、例えばみなさんよく耳にする精神分析であるとかカウンセリングとかを行う心理学者、そういう人とも立場がかなり異なる点があります。
 それは何かと言いますと、人間の心というものを捉えるときに、あまり人間というのを独立した存在と捉えていないんですよ。いつも人間というのは、その場その場に臨んでいる状況というものがあるんだということを前提にしています。この点が大きく違います。
 もう1つの人間感といいますと、さきほどの法律的な形では理性的な人間というか、知的で何でも意思決定できちんと判断ができるというのが普通だというふうな前提に立っているのに対して、全く正反対ということを言わなきゃならないんですね。
 例えば、女性の方なんかは「気持ちに正直に生きたい」なんてことをよく言いますでしょう。「気持ち」というのを心理学で説明しちゃうと、感情の部分だと思うんですね。「気持ちに正直に」というのは、感情のままに、感情を大切にして生きたいという訳ですが、感情のままに生きていきましたら恐ろしいことになりますよね。「カーッと怒っちゃったから殺しちゃった」なんていうと犯罪になりますしね。僕なんかは、そんなに大切にするのも、時と場合によるんじゃないかなあと思うんです。
 男はわりと理性的に言うくせがあるとかよく言われますけど、人間というのは、理性的な部分もあれば感情的な部分もある。私たちは、だからその両方とも人間なんだという理解なんですね。どっちも本当の自分であって、私たちは社会常識上やっちゃいけないことって、理性的に押さえて行動している。つまり感情が行動を支配するときもあれば、理性というか、私たちは認知という言葉をよく使いますけれども、そういう理性的な部分が感情や行動をコントロールするというか、押さえて、支配する場合もある訳ですよね。人間というのは、感情の成分と、認知の成分(理性的、知性的な成分)、そして行動する(手足を動かすような)成分と、その三つの成分というのが、うまくバランスをとり合って生きている−というのが心理学の大きな考え方なんです。
 三成分をもっている人間というものに、もう一つ大きな要因を持ち込もうじゃないかというのが、社会心理学です。もう一つの大きな要因というのは、状況というものなんです。人間の行動というものは、個人の内面的にあるものと、そしてその人の周辺にある状況というものとの関数関係=掛け算によって、行動というものは決まっているんです。これは当たり前の公式なんですけれども、多くの今までの学問もそうですけれども、みなさんの一般の人々のものの見方というのは、ついつい状況を軽視する傾向にあるということが言える訳です。さきほどの法律の話でも、理性的な人間ていうのを前提としているというのは、個人に重きを置いている訳です。人間は状況によって流される動物である、ということをあまり前提に入れていないという気がします。
 例えば、心理学なんかでも、カウンセリングをやっている人たちとか、どちらかというと個人というものに重きを置いちゃって、状況によって動かされているなんていうのはあまり研究されて来なかったんです。
 それに対して、社会心理学というのは、まずは状況から分析しようじゃないか、いうふうな形でものごとの解明に臨んでいくというアプローチがあります。
 この状況というものがいかに軽視されているのかということを示す例としまして一つ二つ言ってみますと、歴史的に有名な魔女狩りみたいなのがそうなんですね。天変地異が起こって、ペストが流行ったとかですね、中世の西洋とかには大変なことが起こった訳ですね。それは、当時の宗教的な異端者といわれるような、そういった人が呪いをかけたからだという原因にさせられて、そいつらを殺してしまえなんていうような、まあ生けにえに捧げた訳ですね。
 これが歴史的には分かりやすい例だと思うんですが、別に昔の話じゃあなく、皆さんしょっちゅうやっているんですね、実は。
 例えば、昨年になるんでしょうか。西尾市の大河内君のいじめの事件で自殺したという話で、大勢の人々の注目を集めました。そしてマスコミの方々も様々書きました。僕も、いじめ何とかマニュアルとか、様々な本があるのを知っているんですが、どうもそういう視点の中で、いちばん無難な線をよく言うのが精神論です。「近ごろの若者は」とか「…人間は」とか「子供たちは思いやりがない」とか様々こういうことを言うんですね。その表現にすぐ表れているんです。その人の人格とか子供の性格とか、そこにばっかり原因を求めています。どうも、そっちの方ばっかりで説明できる現象なのかなあと僕なんかいつも思ってしまうんですね。つまり、誰だって場合によってはいじめという行動に行かないだろうかという視点に立つことができないんだろうかと思うんですね。当たり前のようなんですけれども、なかなかこういう論議というのがあまり生まれてきていないなあという感じがしています。
 それから、こういったことをさらに研究して、そういった人間の視点では、どうも個人を強く出す傾向があるということを研究した人たちがいます。こういう中で分かってきたことというのは、別に自分に都合のいいように考えようという気持ちがなくっても、自分の目から見ちゃうと、どうもそういうものしか見えない。そういうものというのは…、状況というものは目に見えるものじゃなくって、環境の中に人がいる訳ですよね。そして、そこでうろうろしている人間という主体的、理性的というか感情的に動いている人間に注目してしまうという癖がどうやらあるようだということが分かってきたんですね。
 実は私たちがいろんな場所に行ってその場の中で集めてくる情報ていうものには客観性をいくら持とうとしても限界があるんだということなんですね。要するに片寄ってしまうのが当たり前ていうかしょうがない部分がある。
 また、自分自身が行動してて、自分自身がなぜこんなことやってるのかというときの理由づけをする場合と、人がやっている行動を理由付けする場合とその情報の集め方にどうも違いがあるということなんですね。そのいちばん典型的な例がこうなんですね。
 例えば、ご夫婦がありまして、だんなさんが帰ろうと思ったら、帰らずに仲間といっしょに酒を飲みに行った。それで、一軒、二軒、三軒、四軒とハシゴをしていてベロベロになって、12時過ぎて帰ってきた。お母さんは心配して待っていた訳です、お食事の用意をして。12時過ぎに帰ってきた。どうします?。まあ怒りますよねえ、カンカンになって。「あなた何時だと思ってんのよ。私がどういうつもりであんたを待っていたのか分かってんの」と、ガンガン言うと思うんですよね。そのときにお母さん、この現象をどう説明するか。なぜうちの旦那は酒を飲みに行ったか。多分そのときは多くの場合「あの人はいつもだらし無いから」、「酒を飲むのが好きだから」、その人の性格とか好き嫌いという個人的動機があって飲みに行ったんだと説明する場合が多いんです。ところが帰ってきてベロベロの旦那さんは、必ず言い訳をするときにこういうふうに言うんですね。「しょうがなかったんだ。俺のせいじゃあないよ。帰ろうと思ったときに上司に誘われて。これも付き合いのうちだ。これに行かなきゃ困るんだ」、こういうふうに言って、自分の性じゃあなくて周りに引っ張られてしまったという言い訳をするわけです。
 同じ現象でも、全く見方が変わると、こういうふうな話で展開してしまいます。情報というか、起こっている現象、出来事を説明するのに集めてくる材料ですね、その材料の集め方というのが、本人と見ている人、立場が違うと同じにならない、からケンカになる一つの原因として、これがこの辺の状況を軽視するという一つの例となると思います。
 若い学生には、こういう話をするんですね。遠距離恋愛ということばがあると思うんですね。日本も狭くなりまして、飛行機とか新幹線で行きますから、あちこちに住んでいる人と若い人たちは恋愛すると思うんです。ところが、遠距離恋愛すると何が起こるだろうかという研究があるんですね。そしてこういう結論が出てます。国境ぐらい離れていますと、これはうまくいくだろう。ところが県境ぐらいは危ないといわれます。結論として、県境は危ないんです。
 例えば、岡山−大阪ぐらいの恋愛というのはつぶれやすい。ところが岡山−アメリカならば成立しやすい。 なぜかと言いますと、人間は、「なぜ会いたい人に会えないのか」「好きな人と一緒にいられないのか」と思うときはつらいですね。その気持ちの原因を探すんです。なぜ会えないのか探すんです。そのときの障害となっているものが、国ぐらい離れていれば、しょうがないと思えるんですよ。「もうしょうがないじゃないか。あの人のせいではない」とこうなんです。ポイントは、その人物のせいではなく、その物理的状況が私たちを会えなくしているんだからしょうがないと納得できる。
 ところが、大阪ぐらいになりますとね、始めはね、「お互いに同じような気持ちでいようね」なんて言っておきながら、だんだんと電話する回数が減ってきたり、あるいは会いに行っても会えなかったり、向こうから帰って来なかったりですね。そういうときというのは、会いたいなと思っても会えないということが起こり、なぜ会えないのかを推理すると、どうも相手の努力不足だということになってくるんですよ。「ちょっと電話してくれればいいのに。なぜ電話してくれないんだろう」「なぜ1時間ぐらいなのに私が会いたいと言っても帰って来てくれないんだろう」という気持ちから、そのときには状況を考えずに、その個人の方に原因を持って行ってしまう、「私に対する気持ちが冷めたに違いないだろう」と。それでうまく行かなくなってしまうケースがよくあるんです。
 というふうに、つまらない、本当は何もないそういった思い込みが、現実に別離、破談にするという現象を引き起こしてしまった例なんですけれども、その人の「来る、行かない」という行動が、その個人に原因を考えるか、あるいは状況に考えるかということによって大差が生じてしまう。実は、状況というものが重要な役割を果たしていたんですが、それを過小評価していた訳です。
 ですから、マインド・コントロールというのは、この社会心理学の基本にある考え方を逆手に利用していけばできるということになります。状況をうまく利用して、ある特定の状況を用意する訳です。それによってある行動を導き出すわけです。
 ただ、誤解しないでいただきたいのは、この行動パターンというのは、100人が100人同じ行動を引き起こすことはできません。それはなぜかと言うと、個人には個人差があります。したがって、100%予測することはできないわけですね。ただ、個人と状況を完全に把握することができれば、行動を予測することができるということになります。しかし、人間そんなに簡単じゃないですから、外から完璧に理解することは非常に難しい。でも、徐々に徐々に、うまくやっていけば、この2つ(個人と状況)をうまくつかむことに成功していきます。
 統一協会なんかの場合は、はじめは状況を支配しながら、少しずつ個人の方を理解して、個人に合うようにコントロールしていきます。それによって行動を限定していって都合のいい反応へと導いていくという手法を使う訳です。
 個人がいかに状況に左右されて生きているかという一つの例を挙げます。
 みなさん宝くじをお買いになったことがございますか。宝くじをどこで買います?買われる人は、どこでも買います?それとも、どっか特定の場所に行かれますか?実は、新宿のお店で見つけたんですけれども、『宝くじ』と書いていましてね、『ここは一等一億何千万円当たった所です』と書いてあるわけですよ。これ何の意味があるんですか、そこで買うことに。
 この辺の非科学的なことは分かっているはずなんですよ。つまり、当選の確率というのは、どこで何を買おうと全く同じ分母で1とか2とかなる訳でしょ。それどころか、統計学的に考えるとき、それがもしあるところで当たれば、そこでもう1回当たるという偶然の確立としては、低くないですか。何度も同じところから出たら「イカサマ」とみんな言うんじゃないですか、逆に。でも、「なにかここはいいんじゃあないか…」。おかしなもんです。このコントロールされているのに、自分では統制できていると大きな錯覚している例ですね。
 スポーツ選手がね、右の靴ひもから締めれば調子がいいとか。こういうのはまだ心理的な作用があるわけですよ。宝くじに至っては、自分で何かする訳でも何でもない。買うという行為だけで、後は人任せなんですよ。それでも人は、ある特定の場所で買う人が多い。私たち人間というのは、何かかわいいけれど、愚かなものなんですよね。何やってんだと思うときがある訳ですね。そういう現象がいろいろあると思います。

状況のコントロール

 状況をいかにコントロールするのかというところをいくつか説明しておきたいと思います。
 皆さんには「私ははまらないぞ」と思っていらっしゃる方がいかに多いかということを僕は感じています。「そんなことないよ」と言いたい部分があります。
 例えば、1つの例として、あるおもちゃ屋さんの戦略なんですね。皆さん、おもちゃが何月にいちばん売れて何月にいちばん売れないかご存じですか。答えは、いちばん売れるのが12月です。クリスマスがあり、そしてお正月の準備がある。しかもボーナスが入る。こういう条件が12月です。いちばん冷え込むのは2月くらいなんです。そうすると、何とかして冷え込みを押さえたいですね。2月に売りたいんです。どうするか。ここで大仕掛けなマインド・コントロールを使うんです。まず、12月の頭ぐらいに、ボーナスをめがけてコマーシャルを打ちます。さまざまな形で。小さいところだったらチラシを配るかもしれないし、マスコミのセールス広告を使うかも知れません。売りたい商品めざして広告を打つわけです。
 そして、おもちゃですかターゲットは子供ですね。そういう中で子供は、「あー、これがほしいな」という気持ちができてきます。そして、お父さん、お母さんたちとの間で、ある一つの約束が交わされるんですね。例えば、お父さん、お母さんたちは、子供のかわいい喜ぶ姿が見たいために、「〇〇ちゃん、今年のクリスマスは何がほしい?」と聞くと思うんです。あるいは「サンタクロースさんから何をもらいたいかな?」なんて聞くかも知れません。そうすると、「うーんとねー、これが欲しいんだよ」と、お子さんは言います。「そうかそうか。よし、買ってやるぞ」と言って、親としての自信というか誇りというか、子供の喜ぶ顔を思い浮かべちゃったりしてね。
 で、ボーナスが入って、おもちゃ屋さんに出かけます。そこで何が起こるか。探しても探してもその商品がありません。「すいません、お客さん。もう売り切れちゃいました」と言われるんです。これ、困るでしょう。子供の喜ぶ顔がここまで盛り上がってきているのに、買って帰れないんですよ、「もう在庫がない」と言われますと。どうしましょう。たぶん、こうするでしょう。子供の顔が浮かび、何とかごきげんをとらなきゃいけないですから、それと同等の、あるいはもっと高いものを買って、「これ高かったんだから、おまえ我慢しろよ。買えなかったんだから」と言いながら。とにかく、他の商品を買ってその場を切り抜けようとするはずです。 なかにはだだをこねる子供もいるかも知れません。「いやだいやだ、あれでなきゃいやだ」と。そのときに、優しいお父さん、お母さんでしたら「そのうち買ってやるから…」と言い訳をする、あるいは無理やり納得させる。 そして1月、そして2月がやってまいります。そのころになってお店の方は、在庫をバッと抱えることにします。例の商品を手に入れちゃうんです。そのころに広告をボンと出します。「在庫あり」ということが伝わります。そうすると、約束が守れなかったお父さん、お母さんは、知らず知らずのうちに、おもちゃ屋にもう一回足を運ぶしかありません。で、子供が欲しかった商品をここで結局買ってしまうことになります。いちばん得をするのはだれかというと、やっぱりおもちゃ屋さんと、子どもさんなんでしょうね。まあ、そういうような戦略です。
 こういうのがあって、果たして、「自分はそんなものに、はまったことがないぞ」と言えるでしょうか。非常に巧妙なんですね。そのときにはたぶん、自分で考えて自分で応えたと思うんです。強制された覚えはだれもないはずです。しかし、どう考えてみても、罠にはまっています、これは。どうすればよかったのか。これは難しい問題ですよね。少なくとも、2度目の約束はしない方がよかったということになります。
 今言ったようなものは、わたしたちの専門用語ではコミットメントという言葉を使うときがあるんですが、要するに、自分の言ったこと、自分の言動に対して責任をもってしまうという心理を使っているわけです。つまり、だれにも、自分の知り合いや身内や(この場合、お子さんなんですけれども)、そういうものに対して、嘘つきとは思われたくない、責任ある立派な人間でいたいという気持ちが働きます。あるいは、自分自身が自分を見た場合に、言っていることとやっていることがデタラメじゃあないかというような人間であることに、非常にいやな気持ちがします。つまり、一貫した態度を人間というのは保ちたいという気持ちがある訳です。
 こういったことというのは、マインド・コントロールといっても、買ってしまったら終わりですから、それほどたちが悪いといって、人権問題だと言って騒ぐほどではないかも知れません。
 しかし、こういった微妙な、ちょっとした影響力、このちょっとした影響力が集積して、全体をあるターゲット、選ばれた人物に対して、ガーッと費やしていきます。そうすると、少しずつ少しずつ違う方向に導いて行って、全然違う道を歩ませてしまうことが、実はできるんです。ただ、一気にやることはできません。マインド・コントロールとか、カルトのやっているテクニックは、こういった微妙な手法を繰り返し繰り返しやっていく。だから気が付かないんです。つまり、ある正しいルートが1本あったとして、これからもう1つのルートが極端に分かれていれば、間違っているとわかりやすいかも知れませんけれども、これが非常に微妙にスーッとわかれていくとですね、別れ初めのこの辺なんて気が付かないんですよ。全く違うここまで来たときに気が付くかどうかなんですけれども、ここでも気が付かせないテクニックというのがありまして、基本的には、少しずつ少しずつ変えていくということが重要な意味をもちます。社会心理学で使われているのは、一つ一つの位置をだんだん、だんだん変えていく訳なんですね。一気に持ち込もうとはしません。一気に持ち込もうとすると、まずバレます。つまり、強制されているという意識ができます。
 いい例が、オウム真理教の何とかイニシエーションとか、何とか事件とか、最近出ていますよねえ。その中で代表的なのが、薬物投与です。「薬を使った」、「暗室に閉じ込めた」なんてのを、全然まだ信じてない人に持ち込んでしまいますと、「なぜそんなことをされなきゃいけないんだ」とだれでも思う訳ですよ。あるいは、お布施もそうですよ。一億円、いきなり寄付しなさいと言われれば、だれだっていやなんですよね、当然。全財産なんて、とんでもない話です。でも、一円のお布施をするとなれば、話は別です。「1円ぐらいやるよ」ということになるかも知れません。でも、1円出した人は、あしたも1円、あさっても1円、毎日1円だけお布施をしているうちに、「今日から2円に値上げしてよろしいですか」と言われたときに、断るでしょうか。これは、どこかの国の政策とよく似ていますよね、消費税の始まりと。税金といっしょだなあと思ったんですけれども、いきなりバーンと上がっちゃいますとね、みんな「ワーッ」と言うけども、少しずつなら、何とか許しちゃうんじゃないかと思います。そういう意味では国も、ものすごいマインド・コントロールをしているかも知れませんねえ。そういうふうに、1円、2円、3円と上げていけば、お布施というのはだんだんと限りなく、すごい値段へと近づいて行きやすくなりますね。
 こういったもの、微妙な状況の力というものがたくさんありまして、先ほど説明しましたコミットメントという、おもちゃ屋が使った戦略に限らず、さまざまなものがあるんですよ。実際の例をもう一つだけ出しますと…。最近私はハワイに言ってきました(中略)。
 今お話しした中には、「今しかないよ」というふうに時間を限定してしまったりですね、恐怖心を与えてしまったりですね、このテクニックというのは、そのまま統一協会のテクニックなんですよ。相手をほめるというのもありました。統一協会も、それから例のオウム真理教も、「今しかない」というのをすごく強調します、「今もう信者になっておかないと大変なことになる」。エホバの証人もそうですね、「今なっておかないと救われない」と。だから考えている余裕がない。そして、気楽にですね、「別にたいしたお金がかかる訳じゃないし、やめることは簡単だから、入るだけ入っておきましょうよ」と、こういう感じで軽く誘うわけですね。で、いつでもやめられると皆さん思って、「まあいいかぁ」と。
 統一協会なんかの場合は、そういう場合の細かいマニュアルが決まっていまして、「こういう反応がされたらこういうふうに言え」と、見事に作り上げられています。例えば、「僕はそんなのいいよ。別に今入らなくたって、もうちょっと考えてからにするよ」と言う若者に対して、「あなたはいつもそう言って、チャンスを逃がしてきたんじゃないの」と言われます。「いつも考えるばっかりで、そうしていつもあなたはチャンスを逃がしてきた。思い切って飛び込んでみましょうよ。今度はそうすると開けるかもしれない」なんて言われると、「そうかなぁ」なんていう気持ちに、非常に巧妙に作られていきます。そういった形で人間を引っ張って行くというのが、実はマインド・コントロールの力なんです。ここで、状況をうまくコントロールして、少しずつタガを外していくわけですが、それをとことんまで行って、最後はサリンをまくとか、集団で自殺するとかいうところまで行くもんだろうか?という疑問の点にもちょっと答えなければいけません。
 基本的には、やはり行くようなんですね。それを説明する論理というのは、基本的には一つひとつのその小さな変化というのが重要だと考えます。一気に行かないということです。なぜならば、「初心忘るべからず」ということわざがありますけれども、人間というのは初心を忘れやすいということが基本的にはあります。わたしたちは昨日のことを振り返りながら明日を考えるかもしれないけれども、三年前、五年前どうしていたか、なかなか気が付かない。
 それがオウム真理教なんかの場合、端的に当てはまる例です。最初の出家者としてのときには、個人が解脱しようという単純な思いだったかも知れません。いつの間にか、人々全部を救うような、殺すような、訳の分かんないことを言っているわけです。そこには何が起こっているのか。一つの真理は、徐々にそういうふうに変化すること。

集団の閉鎖性−集団浅慮

 もう一つ重要なのは、集団の閉鎖性にあります。
 ある問題にどう対処していくのかを考えてですね、グループで相談したりすることがあります。幹部クラスが、あるいはオウムの場合なんかだったら麻原さんのトップの力が大きいわけですけれども、でも一応その中に幹部の集団がいるわけです。上裕氏とかですね。そういう中での意思決定というのは、非常に閉鎖的な、しかも仲のよい分かり合ったと思われている集団こそが危険であるということが、心理学の研究で明らかにされています。
 思い出していただきたいのは、それはもちろん日本の戦時下の話でもあるし、あるいはもっと新しいとこでは、アメリカ合衆国の大統領およびその補佐官たちの政策決定のところでも、同じような現象があるんです。そのアメリカの補佐官たちの研究で一番よく言われているのは、1960年前後の、あの有名なJ・F・ケネディーの政権といいます。ケネディー政権というのは、日本ではセンセーショナルになって、撃たれて死んだことから始まって、かわいそうという話も出てくるかもしれないですけれど、まあ歴史上、あまりいい政治をやったかどうか、怪しいところが多いですね。その代表的なものが、ベトナム戦争への参戦なわけです。その中で彼らは大きなミスをしたと言われているのは、すぐ戦争は終わると思っていた。アメリカ軍がバーンと行けば、すぐ終わると。ところが、現実には泥沼になった。そういう結果論がありまして、なぜこんなことになったのかということをいろんな研究者が書いていますね。
 中でも、それを非常にうまく書いているのが、ハルバー・スタムという人(ピューリッツァ賞を受賞したジャーナリストですが)、その人が「ベスト・アンド・ライテスト」という本を書いています。ベスト・アンド・ライテストとは、最も才能があり、賢くてすばらしい人々という意味でしょうねえ。そういう有能な補佐官たちがたくさん集まっていて、つまり、サンフレッチェじゃあないですが、三本の矢は折れないという発想の下に政策決定をしたわけです。ところが、すばらしい才能を持ったもの同士であったにもかかわらず、とんでもない愚かな、どう考えてみても失敗するような意思決定を行ってしまう。
 これは、ひじょうにオウム真理教の特徴とよく似ているんですね。私たちはこのことを、集団浅慮ということばを使っています。英語ではGroupthinkということばを使って表しています。集団で討議することによって、逆に、三本の矢は折れないどころか、馬鹿な意思決定をしてしまうことがある。それが、ある集団の特徴を持ったときに起こる可能性があると説明しています。
 その集団の代表的な要素というのが、まず、閉鎖的な集団だということ。それから、トップの命令には非常に回りが弱いということだったりします。つまり、きたんなく意見を交わせるような状況じゃあないという場合が多いんです。たとえば、麻原さんのような人が、全権を握ったリーダーが、「こうした方がいいんじゃないか」と言うとします。そのときは「うそっ」と思っても、回りのだれもが「うそっ。まずいんじゃあないか?」と思っても、そう思うのは自分だけじゃないかと思ってしまうんですね。「こんな決定、間違いじゃないか」とみんな心の中で思ったとして、だれもが口にしなかった時に何が起こるかというと、「だれも口にしないぞ。ということは、分かっていないのは俺だけかなあ」て思ったとします。「そうかあ。そうなんだ、やっぱり。リーダーが言っていることは正しいんだ」というふうに思ってしまいます。まるで裸の王様の場面と同じです。「あんな立派な服を着ている人はいない」と言い出したりする人がいます。ホントはだれも見えないんです。でも、そういう追随する人がいます。だから、愚かな意見であったとしても、リーダーの意見に対しては「すばらしい考えでございます」いうふうな追随さえ出てしまいます。それが、ああいう悲惨な道へとなるんですね。
 週刊誌ネタで申し訳ないんですけれど、麻原さんには驚くことが話題になりましたねえ。「宮沢リエは前世でわたしの妻であった」とか言います。で、トップの連中は「やっぱり」という顔をして聞いています。御前会議で、そんなアホな話がなぜ通用するのかというと、まさにこの理論なんです。
 みんなが「アホな」と思いながらも、言うと制裁を受けちゃいます。そして、結局はこういう、どんどんどんどん、たがの外れたバカな、アホな活動へと走って行く。そこには、サリンを撒くだろうし、場合によっては集団で自決することも起こります。あるいは、わたしの前世は何であったんだと平気でのたまうというような話にもなる訳ですね。というふうな形で、人間というのをどんどんどんどん、訳の分からない幻想の世界へと連れ込んで行く訳ですね。
 大東亜戦争のとき、「日本が勝つ」というのも一つの幻想ですが、この幻想が作られていったプロセスというのも非常に似ているかも知れません。
 そこの辺を理解していけば、僕らから見ると、別にオウムの現象というのは、それほど不思議な現象とは思えません。
 最初の話に戻しますと、いじめの現象というのも、この集団浅慮でかなり説明できる部分があるということにお気づきだと思います。最初、大河内君をいじめていたメンバーが、いきなり彼が自殺をしたいというきっかけになるほどつらいと思うことをやっていたでしょうか。ちょっとしたことで始まっている訳です。でも、グループの中であるメンバーが、コツンと頭を殴ったか何かで始まったことが、それが承認されますとみんながコツンとやってしまって、それが当たり前になって、それよりももっと激しいことをしないとそのグループで目立たない訳ですよ。で、どんどんエスカレートしていくということですね。それがまた認められていく。それがいつの間にか、川に首を突っ込んで、人が苦しんでいるのを見ても、それが当たり前と思っちゃうし、かわいそうかもしれないけどしょうがないなというふうに、どんどん気持ちが変わってしまいます。そういうふうに、人間というのは状況の中でいくらでも自分のやっていることを正当化して、悪いことだってやってしまうっていう恐ろしい部分があると思います。
 おそらく、戦争を思い出せば、僕なんか経験がないんで実体験として伝えることができませんが、同じ原理というのがいつも人間にはあって、クロアチアを見れば分かるように、人間って別にそんなに立派でもないし、だから、理性的というのはかなり意識的に頑張らないとできないのであって、ついつい都合のいい理論を組み立ててはひどいことをして、こういう皆さんが問題にしているような人権侵害をしょっちゅうやっちゃうもんなんです。すごく、そういう意味では注意して見ておかないと、気が付いたときには遅かったということが起こるんじゃないかと思うんです。
 ということで、終わらせていただきたいと思います。

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