北海道開拓の構図

 北海道の開拓は、大まかに言うと「囚人使役」、「屯田兵開拓」、「移住民開拓」の3ステップで進められた。屯田兵・移住民の入植をすすめるため、基幹道路の開削・兵屋建設などに、樺戸・空知・釧路集治監の囚人労働が投入されたのである。幌内炭山、跡佐登硫黄山などの開発にも安価な労働力として使用された。
 また、これら以外にも「士族」や「団体」による開拓も行われていた。

 ここでは、このような屯田兵以外による開拓について調べてみたい。

 まだ、調べ始めたばかりであり間違いを含んでいる可能性があるが、さらに調べをすすめ充実させていきたい。

1.時代背景(取りまとめ中)

 1854年に伊豆、下田、とともに箱館が開港。明治維新後、1869年(明治2年)7月に開拓使設置、8月に蝦夷地を北海道と改めた。
 1875年(明治8年)に千島樺太交換条約によって不明確だった樺太の国境が確定した。
 1881年(明治14年)に開拓使官有物払下事件を発端とし、1882年(明治15年)に開拓使は廃止され、北海道は札幌・函館・根室の3県に分割、農商務省北海道事業管理局が設置(1883年)された。しかしこの体制は効率が悪かったため、1885年(明治18年)に伊藤参議は金子大書記官に北海道の実状を調査させた。この結果をもとに、1886年(明治19年)に3県1局は廃止され、北海道庁が新設された。

2.囚人使役

 明治12年に東京集治監、宮城集治監が設置され、佐賀の乱(明治7年)、新風連の乱(明治9年)、秋月の乱、萩の乱、西南の役(明治10年)などの政治犯を収容していたが、これらの施設は定員過剰で脱獄も頻発していた。  このため、明治政府は、政治犯の隔離・定員過剰の緩和・治安維持、北海道の開拓、放免後の北海道定住を狙うものとして、刑期12年以上の重罪犯を収容する集治監を北海道に建設した。

 囚人は、当初、農地開墾を主に(空知集治監では採炭、釧路集治監では硫黄採掘にも)使用されたが、先に書いた金子が囚人使役の必要性について述べた次の復命書(明治18年)から、囚人使役はさらに過酷になっていく。

『彼等ハ因ヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ、其苦役ニ堪エズ斃死スルモ、尋常ノ工夫ガ妻子ヲ遺シテ骨ヲ山野ニ埋ムルノ惨状ト異ナリ、又今日ノ如ク重罪犯人多クシテ徒ラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテ是等必要ノ工事ニ服従セシメ、若シ之ニ堪エス斃レ死シテ其ノ人員ヲ減少スルハ、監獄費支出ノ困難ヲ告クル今日ニ於テ、万已ムヲ得サル政略ナリ。
 又尋常工夫ヲ使役スルト、囚徒ヲ使役スルト、其賃銭ノ比較ヲ挙レバ、北海道ニ於イテ尋常ノ工夫ハ、概シテ一日ノ賃銭四十銭ヨリ下ラス。囚徒ハ僅カニ一日金十八銭ノ賃銭ヲ得ルモノナリ。然ラバ、則チ囚徒ヲ使役スルトキハ、此開築費用中工夫ノ賃銭ニ於テ、過半数以上ノ減額ヲ見ルナラン。是レ実ニ一挙両全ノ策ト云フヘキナリ。現時ノ如ク十年以上ノ大罪人ヲ北海道ノ辺境ニ移シ、房屋飲食衣服等一ヲ之ヲ内地ヨリ輸入シテ、非常ノ金額ヲ費シ、其使役ノ方法ニ至ツテハ軽罪犯ニ異ナラス之ヲ優待シ、悔悟ノ日ヲ待テ之ヲ土着セシメントスルモノハ、重罪犯ヲ懲戒スルノ効ナキノモナラス、又政府ノ得策ニアラサルナリ。宜シク此等ノ囚徒ヲ駆テ、尋常工夫ノ堪ユル能ハサル困難ノ衝ニ当ラシムヘキモノトス。』(北海道三県巡視復命署書から)

 よく読んでいただきたいところである。懲戒のため囚人には一般の工夫が堪えることができないような重労働を課すべきであり、それがもとで囚人が死んでも監獄費の減額となり、また安い労働力が得られ、一挙両得だというのである。このような方針のもと、囚人の労働力が道路開削などのこれまで以上に過酷な作業に投入されていった。

 明治19〜22年、上川道路(岩見沢−旭川)を樺戸集治監が開削、さらに樺戸集治監と空知集治監の両監で完成させた(空知川〜永山を樺戸、空知川〜市来知(三笠)を空知が担当)。密林を伐採して完成させたのである。これが現在の国道12号線である。囚人達が作ったこの道路を通って屯田兵が旭川などに入っていった。

 また、月形から峰延までの樺戸街道(峰延道路)は樺戸集治監が担当した。ここは。20km程度にもかかわらず、沼沢地で軟弱地盤のため、まず丸太を敷きその上に土を盛りさらに砂利を入れるという難工事だった。

 北見道路(旭川ー網走)の開削は、野上(遠軽)〜北見峠で囚人約180人(あるいは240人)が死亡する最も悲惨なものであった(これは網走外役所のところで書くこととする)。今の国道39号線である。

 なお、明治30年の大赦によって、樺戸本監839名、空知分監752名、釧路分監180名、網走分監371名、十勝分監331名が放免となった。また、大正2年にも恩赦による放免が行われている。

3.集治監

 もう少し各集治監について調べてみることにする。

(1)樺戸集治監

 樺戸集治監は、1881年(明治14年)8月、石狩川右岸シペツプト(現月形町)に7千4百坪の全国一の規模で設置された。工事の請負業者は大倉組商会(現大成建設)で、建設予算は10万円である。初代典獄(刑務所長)は月形潔。収容人数は、最高2365人(明治22年)、通常1300人程度が収容されていた。後に樺戸監獄署、北海道集治監樺戸本監、樺戸監獄と名称が変更され、1919年(大正8年)1月に廃止された。

 収容者は、年によっても変動するが、半数以上が懲役終身、無期徒刑の重罪犯である。罪名は強盗、強盗傷人、謀殺、放火、窃盗などが多いが、自由民権運動に係る政治犯として送られてきた人達もいた。群馬事件の宮部嬢、深井卓爾、名古屋事件の奥宮健之、加波山事件の草野佐久間、五十嵐川元吉、秩父事件の菊池貫平、堀口栄二郎、宮川寅五郎外7名、静岡事件の清水高忠である。

 集治監が設置されていた38年間に1046人の囚人が死亡。明治15年が最も多く119人、明治17年には69人、明治18年には59人が死亡している。驚くべき数字である。「樺戸監獄」(熊谷正吉氏著、北海道新聞社)によると、死因は、心臓麻痺804人、病70人、衰弱60人、斬殺41、作業中事故33人、外となっている。死亡は冬に多く、重労働と粗食による衰弱や寒さが原因である。病気になった囚人のための設備も非常に粗末なものしかなかったようである。
 死亡した1046人のうち1022人は肉親に引き取られることもなく今も近くの霊園に眠っているという。

 囚人の外役の際には、逃走を防止するために、できるだけ気の合わない者同士、刑期の長い者と短い者を、3〜4mの鉄の鎖でつないで2人一組とし、 作業させた。しかし、多い年には(明治22年)39名もの逃亡者をだしている。逮捕時に抵抗した者はその場で斬殺されたが、捕まった囚人には片足又は両足に600匁から1貫の鉄丸が付けられた。

 また、看守についても服務規定は厳しく、遅刻、飲食店での暴飲、火気不取締などでも減給になった。上司の命令には絶対服従である。看守刀の扱いにも規則があり抜刀は上司への報告が必要であった。

 逃亡を防ごうとする看守も、生き延びようとして脱獄を企てる囚人も必死だったのである。
 明治42年5月の脱獄・花山看守殺し事件は悲惨なものである。
 2名の囚人が脱走、たまたま非番の花山看守と遭遇し、装備を持たないまま捕らえようと試みた看守は逆に殺され、顔をめちゃくちゃにつぶされ両眼と喉笛イタヤの枝を打ち込まれるというひどい姿で発見された。逃走の5日後、2名は見つかり殺された花山看守の同僚らに刀でずたずたに切り刻まれた。遺体はもはや形をなさないまでになっていたためスコップで肉塊をすくって戸板にのせ全囚人の見せしめにしたという。

 樺戸集治監本庁舎は、現在、北海道行刑資料館として公開されている。ただし、これは、典獄室や庶務係などがあったところで、囚人がいたところではない。大正9年から昭和47年までは月形町役場として使用されていた。

(2)空知集治監

 空知集治監は、樺戸集治監についで1882年(明治15年)6月に三笠に設置された。1890年(明治23年)には3248人を収容した。
 加波山事件の河野広体外、板垣退助を刺した相原尚聚など、自由民権運動に関連する政治犯が北海道の3つの集治監のうちで最も多く収容されていた。

 この集治監では、1000人程度が「幌内炭坑」で2交代12時間労働の採炭労働に使われた。明治16年には、51名死亡、7名が逃走により斬殺、明治17年には、重軽傷157名、57名死亡、6名が逃走により斬殺された。

 炭坑内でガスの恐れがでると囚人を穴に吊し、ガスの有無を調べたという。当然のことながら、実験に使われた囚人は、ガスがでていた場合は死亡するか痴呆状態になった。ガス爆発(明治17年から5年間で10回)、落盤事故も多かった。
 囚人の炭坑での使役については、次第に批判が高まり、明治27年末に中止になった。

 この集治監は何度か名称を変更し、1901年に廃止になったが、それまでに計1067人の囚人が命を落とした。

(3)釧路集治監

 釧路集治監は、1885年(明治18年)に標茶に設置された。初代典獄は大井上輝前。1885年に772人、1890年(明治23年)には1409人を収容した。政治犯では、大津事件の津田三蔵(断食により獄内自殺)などが収容された。

 ここの囚人は、川湯(アトサヌプリ)硫黄山での採鉱・精錬、釧路鉄道建設、太田屯田兵屋の建設などに投入された。硫黄は火薬などの原料として輸出された。
 硫黄山では囚人のみならず看守まで倒れるほどの悪環境のなかで採掘され、亜硫酸ガスの影響で失明するものも発生した。栄養不足で脚気・水腫が発生した。明治20年の6カ月間には、外役所の囚人300名のうち、145名が罹病、42名が死亡するなどあまりに消耗が激しいため、11月に囚人の硫黄採掘作業は中止された。

 この集治監は何度か名称を変更し、1901年(明治34年)に廃止された。

(4)釧路監獄署網走外役所

 1890年(明治23年)設置、1891年北海道集治監網走分監に改称、1897年(明治30年)廃止、1898年(明治31年)北海道集治監分監出張所として再設置、現網走刑務所。

 この外役所は、旭川〜北見間の道路のうち、北見道路(北見峠〜網走)156kmの開削のため設置されたもので、この工事には約1200人が投入され、4ヶ月で強行完成させた。このため、このうち約180人(あるいは240人)が過労・栄養不足と病気で死亡した(発病者は914名)。道路約860mにつき1人の命が失われた計算になる。遺体は道ばたに埋められ、現在ではその場所もよく分からない。その後、昭和32年6体、昭和33年46体、昭和48年6体が発見され、供養されたという。北見峠には中央道路開削 殉難囚人慰霊碑がたてられている。

4.士族・団体等による開拓(取りまとめ中)

5.タコ部屋労働

 1894年(明治27年)に囚人使役が廃止されたため、それ以降はこれに換わってタコ部屋労働者が使用された。これは本州のポン引きに誘われ連れてこられた人達などで、タコ部屋に拘禁され無報酬で15時間労働をさせられたのである。
 脱走した場合には見せしめのため、生き埋め、火あぶりなどリンチが加えられた。石北線常紋トンネルでは、3年間で百数十人のタコが死亡。後に人柱として埋められた人骨も発見されたという。


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