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真円に近づく月の光が死都に降り注ぐ。
だが、それを遮るか様におびただしい数の幽体が夜空を覆い、死都を暗く闇で染めてい
た。彼らの放つ<魔>の波動が死都全体を揺らし、一段と濃くなった<魔>の魔力は死都
を異質な場所へと変えていくようだった。
霊は皆、黒いローブを纏っていた。それは死都の民であった何よりの証だった。
『『魔物は一匹たりとて死都には足を踏み入れては居ない』、か。確かにそうかもしれん。
……だがこれは……!』
霊達は苦しみもがく様な怨嗟の声を漏らしながら、ホーラを、マリンとガントの周囲を
取り囲む。
濃密な<魔>の魔力と禍々しい思念の嵐に、ガントの上に乗ったマリンは恐怖と悲しみ
で言葉を失っていた。
霊達の発する「おおおぉ」と唸る様な音は、嵐の激しい風の音にも似ている。死都全体
に響き渡るその音は、耳から伝わると言うよりも体の中に直に響いている様に感じられた。
恐怖が、体を焦がす熱が、マリンをかき混ぜ、悲惨な現実を前にあふれだした悲しい気
持ちが涙になって頬を伝う。
霊は最早唯の霊ではなかった。
<魔>を放つ霊は悪霊であり、それはまさに魔物以外の何者でもなかった。
「死都の民が……悪霊に、魔物に……なっちゃったの?」
「違う!」
マリンの震えた声を、漆黒の竜は強く否定する。
「アレらは死都の民だ! ……断じて、断じて魔物などではない!」
竜は強く断言した。
だが現実はその言葉を否定していた。霊達はかつての主にむかって次々と体当たりを仕
掛け、無抵抗の黒い竜を苛む様に打ち据えていく。
「ホーラ! 住民の皆を思う気持ちは、わかるよ、でも……、っ!」
霊達の一部が、叫ぶマリンに視線を向けた。そしてじわりとマリン達ににじり寄った。
『……マリン、奴ら俺達も殺る気だ』
「……っ!」
「ウオオオオゥッ!!」
四方を取り囲み迫る霊達に向かって、銀色の狼が大きく吼えた。鋭い野生の眼差しの放
つ気迫に、霊達はたじろぎ、一歩後退する。だが、また直ぐに二人に赤い視線を向けて、
じわりじわりと間隔を狭めていった。
「っ、んぅっ!」
震える体をどうにかしゃんとさせて、マリンは狼の背から飛び降りた。そして自分の状
態を少しでもましにさせるように再び辞書を片手に魔法を唱え始めた。
ただ、宙に描く魔法陣も呪文の響きもいつもとは違っていた。最後には両手を重ね指を
交差させ折りたたみ、祈る様なポーズでマリンは呪文を締めくくった。
「天に輝く清冽の奇跡よ、我を<魔>から守り給え……!」
なれない祈りの言葉に戸惑いながら、マリンは呪文を完成させる。
(<聖>のイリニ系の魔法はどうも相性がよくないのよね……成功してっ!)
魔法の得意なマリンが魔法を使う時には決して見せない弱気な表情で魔法を発動させる。
その様子に違和感を感じながらも、ガントは魔法の発動を見守った。
マリンが唱えていたのは<魔>の魔力を受け流す為の<聖>属性の、魔法使いの間では
イリニ系と呼ばれる魔法だった。イリニ系の魔法は僧侶の魔法とも呼ばれ、マリンは専門
外だったのだが、これからのマリンに役にたつかもしれないと、旅立つ前にメディが丁寧
に教えてくれたのだった。
だが、マリンはそれを使いこなせないでいた。
イリニ系の<聖>の魔法は少し特殊で、精霊を介さずに祈りの力で奇跡を具現化させる。
その奇跡は様々で、怪我を瞬間的に回復させたり、究極の魔法として、失った体を再生
させたり、死者を蘇らせる事も場合によっては可能だという。もちろん敵対する<魔>に
対する効果も絶大で、<魔>に関するアンチマジック(退魔、破魔)は他の精霊魔法なん
かよりもよっぽど効果が大きい。
そしてその魔法を扱う為には、天使やイリニの教の神と呼ばれる大天使プロディエルを
信仰する祈りの力と、術式への知識と魔力が必要で、中でも信仰心の強さが鍵になってい
た。
呪文で天使達に語りかけ、強く祈りを捧げる→天使達に祈りが届く→それに答えた天使
達が術者の魔力を代償に奇跡の降臨させる、というのがイリニの<聖>の魔法の一般的な
流れだ。
だが、精霊魔法の使い手であるマリンには、精霊が居なくても発動するイリニ教独特の
魔法の発動の形態が理解できないでいた。魔法は、精霊達の力なくしては発動しないとい
う事が頭にあったからだ。
だが、その疑問も先の歴史書のお陰でその理由をなんとなく理解する事ができた。天使
達も本来は精霊だったという事、それが答えだった。
と、<聖>の魔法の発動のメカニズムを理解した所で、<聖>の魔法を使えるようにな
るかといえば、それはまた別の話だ。
マリンの呪文に答えて、<聖>の輝きがマリンを包み、紫竜の爪に蓄えられた魔力が消
費され魔法が発動する。
だが、マリンは自分を包む薄いシールドを見て、はぁとため息をついた。
「やっぱり祈りの力とか、精霊魔法とは方向性が違いすぎるよね……限りなく失敗に近い
発動だよ」
それでも無いよりはましなのかそれともやはり対<魔>の力が強いのか、応急的に唱え
た光のシールド一枚の時よりもマリンの体は少し楽になっていた。
<聖>の属性の魔法でも、精霊を介した本来の形式の魔法ならばマリンも問題なく扱え
る。マリンの所持する<聖>に属する光の精霊のフォロイとは長い付き合いだし、魔法や
物理的な物から身を守る光のシールドを張るのはマリンの得意技だ。
ならば、フォロイの力を借りて<聖>の魔法と同じ効果を表せるように一から呪文を構
成すれば良いのかもしれないが、それは非常に難しい事だった。
<聖>の魔法は、祈りの力と天使の加護があれば短い呪文と比較的簡単な魔方陣で発動
する、覚える側としては比較的楽な魔法だ。だが、それを光の精霊に代行させ、同じ事を
行おうとすると、複雑極まりない、それこそ儀式呪文に相当する複雑さと長ったらしい呪
文が必要になるのだった。
<聖>の魔法は正に奇跡であり、奇跡は普通に起こりえないからこそ奇跡と呼ばれるの
だ。
平たく言えば、マリンは信仰心が足りないのだ。イリニ教の信者でないから当然と言え
ば当然だが、一応魔法が発動しただけでもこれはちょっと奇跡だ。
これらを総合して考えると、<聖>の奇跡を『信じるものならば誰でも気軽に扱える』
様に体系化したイリニは、本当に物凄い魔導師だったという事だ。
そんな事を考えながら、マリンはガントの横に立って取り囲む霊達をぐるっと見回した。
『……大丈夫か? マリン』
「な、なんとか。……でもっ」
軽減されたとは言え、マリンは未だに魔力に酔った状態のままだ。霊達もぐらつくマリ
ンに赤い視線を向けて、あざ笑う様にゆらりゆらりと揺れる。
「っん、でも、なんでこんなに<魔>が濃いのよ……絶対濃すぎる、最近濃くなったとか
それもまたわかんない」
ふらつくマリンに霊達の赤い視線が注がれる。黒いローブを揺らしながら、半透明に揺
れる霊が不意に<魔>の気配を強めた。
『…………来るぞ、マリン!』
「う、うん!」
霊達はマリン達にも体当たりを仕掛けはじめた。影の様に半透明だった霊体は、マリン
達に触れる寸前に黒い塊に変化し、実体となって攻撃してきた。マリンがそれを避けると、
黒い塊になった霊体はそのまま地面にぶつかり、そしてゴスっと地面を深く削る。それを
見てマリンの血の気がすっと引いていく。
「何これっ!? こんなの……食らったら、唯じゃすまないよ!」
『ヤバイな……っていうか、ホーラはこんなのをそのまま受けてるっていうのか!?』
ガントは素早く体当たりする霊をかわしながら、ぎりりと牙を軋ませる。
二人を囲む霊の数も半端ではなく、次第にマリン達は霊に囲まれ追い込まれていった。
「どうしよう、このままじゃ、……っ!?」
不意に迫ってきた圧力に気付いて、マリンは顔を上に向ける。
「死角っ!?」
マリンの頭の直ぐ上には黒い塊になった霊がいた。そしてそれはマリンにむかって真っ
直ぐに落ちてきた。
「うわああっ……、っ!?」
「ガウウッ!!」
銀色の光がマリンの頭上を舞い、深紅のガントレットが素早く振りぬかれた。
ゴッ、と鈍くぶつかる音がして霊が吹っ飛び、また半透明に変化する。マリンの頭を飛
び越える様に狼は向こう側に着地すると、ぐるぐると唸りながら牙を剥いた。
「が、ガント!」
『元が民だろうがこうなったら魔物だ。哀れむ気持ちはあるが……こちらとてやられる訳
にはいかん。降りかかる災難は……振り払うまでだっ!』
ガントは取り囲む霊達を威嚇するように大きく吼え、獣の四肢を奮わせ身構えた。
(体当たりの瞬間奴らは具現化する。その瞬間ならば!)
ガントはあらゆる方向から自在に襲い来る霊達の具現化のタイミングを見て、獣の手を
ふり抜き、その体で跳ね除ける。流れるような身のこなしは、人であった時よりも更に素
早かった。相手が霊体であるが故に完全に葬る事はできないが、それでも霊達を払いのけ
るには十分だった。
(す、凄い)
魔力に酔う頭の中で、素早く舞う狼にマリンは思わず見とれていた。思うように動けな
いマリンを、ガントはしっかりと守っていて、その事実がマリンの奥をきゅっと締めつけ
る。
ガントの正確な攻撃に阻まれて、霊達は次第に二人から離れ、距離を開けていった。
「やめろ! 死都の民に手を出すことは我が許さぬ! 余計な手出しは無用だ!!」
不意に大きな叫びが死都に響く。
『……ッ!!』
ぐるる、と唸りながらガントはホーラに視線を向け、そして息をのんだ。
マリンも死都の主の姿を見て、いやいやと首を振る。
「ホーラ……、そんな」
鱗ではない分厚い皮で覆われただけのホーラの皮膚は、繰り返される打撃に赤い色が滲
み、尾も背も腹も赤い筋が幾つも流れていた。
全身に受けた傷は深く、だがそれでも竜は仁王立ちのまま退こうとはしなかった。
『ホーラ……貴方はまさか、毎夜これを……!』
「……それがなんだというのだ」
金色の半眼を霊達に向けて、ホーラは表情を緩める。
「彼らは我の無力故に死んでいったのだ。我は彼らを護ると誓った。なのにできなかった
のだ。恨まれない理由など無い。民が怨嗟の声を上げ始めたなら、それを受け止めるのも
彼らの主であった我の役目だ」
『声を……上げ始めた?』
淡々と話すホーラに、マリンは揺らぐ視界の中必死に首を振った。
「でも、こんな事続けてたら、いくらホーラでも持たないよ! 死んじゃったら、死都を、
門を……護れなくなっちゃうんだよ!?」
「構うか!」
竜のすさまじい気迫に、マリンはびくりと身を強張らせた。
「死都も、民も、約束も、全て我にとっては全て同列なのだ! 退けぬのだ。この気持ち
……、娘、お前などに解るものか!!」
「解んないよ! でもっ……!! ねぇガント、…………ガント?」
涙を浮かべガントに訴えかける。だが、狼は目を伏せて押し黙っていた。
何かを思案する様なその表情に、マリンは少し不安になる。
「ガント、どうしたの?」
『……マリン、ここは俺達の出る幕じゃない。退くぞ』
「え……どうして!?」
『霊達はもう俺達を見ていない。ホーラだけを見ている。今のうちに結界の部屋に戻るぞ。
このままでは、お前がどんどん弱っていくだけだ』
「そんな、傷つくホーラを、そのまま……見捨てるなんてっ……」
『……今の俺達に何が出来る』
「……!!」
直接頭に響く狼の声に、マリンはビクリと体を震わせる。
「そうだ、帰れ。我は竜だ。そう簡単に死なん。お前達は朝まで何も考えず休んでいれば
良いのだ」
竜は優しい瞳でマリン達を見つめ、背を向けた。
そんな竜に狼もくるりと背をむけ、元来た方向へと歩き出した。
「が、ガント!?」
マリンは慌ててガントを追いかけた。だが魔力酔いもかなり酷くなってきたのか、よろ
けて膝をついてしまう。
『……マリン、乗れ』
「……っ!」
振り返りもしないガントに戸惑いながら、マリンはその背に乗った。
走り出すガントの背に揺られながら、マリンは霊の叫びを聞いていた。悲しく叫ぶ様な
声は耳を塞いでも聞こえてくる。
「ガント……私解らない……!」
『……』
主を慕っていた民達は、何を思い主を責めるのか、一体彼らになにがあったのか。
霊達の攻撃を受け続けるホーラを思うと、その切なさにマリンの視界が涙で滲んでいく。
「死都が滅んでから、ずっと苛まれ続けてたっていうの? そんな事って……!!」
『マリン』
「!」
厳しい声でガントはマリンの言葉を遮った。
『今は何も出来ない。だが、まだ考える時間はある。……わかるか?』
低く、淡々とした狼の声。その声から感じられるのは怒りなどではなく、優しく諭す様
ないつものガントの声だった。
『ホーラの気持ちは理解できる。だがあのままで良い筈がない。俺だってあのままでいい
なんて思わない』
「ガント……」
落ち着いたガントの声は、マリンを落ち着かせるには十分な力を持っていた。
「私、一瞬ガントがホーラを見捨てちゃうんじゃって……ちょっとだけ思っちゃった。ご
めんなさい」
『馬鹿者』
ぴしゃりとたしなめられ、マリンはきゅっと目をつぶる。
『お前は極度に感情がぶれると冷静さを失う所がある。落ち着いて考えろ。俺達が死都を
去るのは満月の夜の後、つまりは明々後日の朝だ』
「明日、明後日、少なくとも、明後日までに何か考えれば……って事?」
『そうだ。あの女のゴーストは俺達に、お前に何か出来るはずだから訴えてきたんだろう
? お前がさっきそう言っただろう。まだ時間はある、なら今はそれを考える時だ』
「…………はい!」
曇った気持ちが少し晴れた気がして、マリンは走る狼にしがみ付いた。
(やっぱり、ガントは私の師匠だ)
マリンが戦いで迷った時、いつもヒントをくれるのはガントだ。そんなガントが誇らし
いし、素直に尊敬している。
そしてまだまだ自分は未熟だと、マリンは少し赤面するのだった。
石室の前にたどり着き、マリンはゆっくりとガントから降りた。
石の扉の隙間をくぐり、ふはぁと大きく息を吐く。結界の中に帰ってきてようやく呼吸
が出来た気分だ。
石室の雑多に詰まれた本を見回し、うんと大きく頷く。まだ知らない事実が、ここの本
の中にあるかも知れない。死都それ自体にもきっとヒントがあるだろう。
ずっと一人で死都を護り続けていた孤独なドラゴン。
昔々に、世界を救った勇者の仲間だったドラゴン。
一人痛みに耐え、それでも民を思い続けるドラゴン。
そんなホーラをマリンはどうしても放っておけなかった。
「何か……手がかりが見つかるかも知れない。本をあさるわっ! ……でも、今日はもう
だめ、限界」
がくんとその場に崩れるマリンを、ガントは慌てて支える。
『この状況では休みづらいかもしれんが……、って、こら、ココで寝るなッ!』
「うぅ、無理してなれない魔法を使うもんじゃないね、<魔>の魔力も凄かったし。反動
きっつ……い」
マリンを護っていた<聖>と光の二枚のシールドがパンと弾け、マリンはそのまま突っ
伏した。
そして狼に寄りかかったまま、すやすやと寝息をたて始めた。
『……全く』
狼は少し困った顔をしながら、マリンを起こさないようにそっと身を伏せると、そのま
ま書庫の真ん中で丸くなった。
『死んだら護れなくなる、それでも退けない……』
死都の中心で死んだ民の思いを受け止めるホーラを思い出し、狼は目を細めがふぅと息
を吐いた。
『…………』
部屋はまだ<魔>の振動で僅かに揺れており、民の怨嗟の声も、悲しい竜の叫びも遠く
聞こえてくる。
その揺れも声も、日が昇るまで絶える事はなかった。
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