黄砂に響く銃声

 これは、とある模型店の主催になる「中国射撃ツアー」への参加体験記です。このツアーの性格上、登場する人物名は全てイニシャルのみとします。もっとも、名前を出されて迷惑に思う人などいそうにありませんが。
 また、この一文は公式の記録ではなく、もちろん広告でもありません。「知り合いにこのツアーはいいよとどんどん言い触らしてください」との言にそそのかされた、一参加者の紀行文なのです。


3月17日(木) 晴れ

 成田から北京へは、中華航空で上海上空を経由して、四時間半かかる。日本を午後三字に発って、北京には午後6時半に到着する。時差は一時間である。機内で夕食をとり、入国手続きにつかう健康申請書と入国登記書を書く。書いたはいいが、この書類は結局使わなかった。男ばかり十六人が団体で通過しようとしたところ、入国審査官が面倒くさがって、パスポートと団体ビザのチェックしかしなかったのだ。
 託送荷物を待っていると、NECのパソコンとモニターが三セット、コンベアーの上を流れていった。箱がことごとく上下逆さになっている。中国人の個人輸入らしいが、こちらでも使えるのだろうか。

 空港を出たところで、主催者である模型店のY店長、ツアー・コンダクターK氏、現地ガイドのG氏と合流する。私が参加したのはこのツアーの第二便で、彼らは一週間前の第一便とともに来て、こちらに滞在していたのである。
 ここから北京市内へは、貸し切りのバスでむかう。昔は一時間くらいかかったそうだが、今は高速道路で三十分くらいで着く。これはダメになったオリンピックの準備として造られた道路だそうだ。すでに周囲は宵闇の中で、郊外を走っているうちは景色もほとんど見えない。
 市内にはいると、高層建築がふえてくる。二十階建てくらいで、床面積も日本のビルの倍はありそうだ。ただ、ビル同士の間隔が長く、密度は低い。
 道路は交差点ごとに立体交差になっており、ジェットコースターのように上がったり下がったりする。Y店長によると、中国人は信号を守らないので、大きな交差点はみなロータリーか立体交差なのだそうだ。これは本当の話で、街中の歩行者用信号が青でも、安心して渡ってはいけないのである。信号を無視した車がついでに歩行者も無視してつっこんでくる。角を曲がってきた車も、横断中の人を待ってはくれない。完全に自動車優先である。

beijing hotel

 四泊五日のこのツアー中、宿泊先は北京飯店である。北京一の大ホテルで、三百メートルはあろう間口に、六つくらいの建物が並び、その全部が廊下でつながっている。ロビーもたくさんあり、大きな石球が水圧で浮き上がっている噴水や、龍と万里の長城を彫りつけた「巨硯」などが展示してある。硯は売り物で、六十八万元(約八百五十万円)の値札がついている。
 フロントで日本円を人民幣に両替する。以前は外国人向けの外貨兌換券があったのだが、それは今年から廃止された。しかし依然として流通はしており、買い物をすると釣り銭で外貨兌換券がきたりする。数えるのにいやに時間がかかると思ったら、紙幣がよれよれでめくるのが大変なのだ。
 ホテルの部屋は洋式のツインで、面積が私の住居の倍はある。テレビ、冷蔵庫は完備しているし、掃除も行き届いている。ベッド・サイドのスイッチ・パネルが剥がれかかっているのが唯一の難点である。他の人の部屋を訪れたら、バスルームの明かりが妖しげなピンクの電球であった。

 Y店長が、機内食だけでは足りないだろうから「私はたまたま夜に食事に出ようと思っているのでついて来たい人はどうぞ」という。ただしこれはオプショナル・ツアーではないので、はらこわしても知らんよ、とのことだ。結局、私を含めてほとんどのメンバーが姿を現した。
 北京飯店は天安門前の東長安街の通りに面し、中国の銀座通りと言われる王府井大街(ワンフーチンターチュ)との交差点に立地している。ホテルを出てその角を曲がると、人民日報などが貼られた掲示板があり、その向かい側には見覚えのある黄色いmのマークが煌々と輝いている。マクドナルドである。アルファベットの他に、漢字で「麦当労」と書いてある。これはマイダンローと発音する。Y店長によれば、中国人は、マクドナルドは日本の会社だと思っているそうだが、真偽のほどは定かではない。
 もう夜の八時を過ぎているため、王府井大街の店もあらかた閉まっている。屋台に海賊版アニメキャラクターを描いた清涼飲料屋や、OMEGAを扱う時計屋と軒を連ねる「OGEMA」の時計屋など、あやしげなのがいろいろある。デパート前広場に建つ『秤を使わずに飴を正確に計る技を持った英雄的店員』の銅像を見ながら、二両編成のトロリー・バスの行き交う通りを歩くと、やがて東安門大街にでる。
 ここにはずらりと食い物屋の屋台がひしめいている。麺類や饅頭類、焼き肉そのほかさまざまな種類がある。屋台は歩道の上にあり、車道側に店を開いている。所々、車道のまん中にたらいが並べてあり、これがごみ箱代わりである。残飯なども混じっていて少々臭う。人々は車道を歩いて屋台を物色することになるが、だからといって歩行者天国ではなく、車は車で遠慮なく通る。ごみたらいが人と車を分離しているようなものだ。
 屋台の値段はだいたい一元か二元なので、日本円にして百円もあればちょっとした食事ができる。
 四川坦々麺の屋台があったので食べてみる。小さめの碗に一杯で二元である。これは日本のラーメン半分くらいの量で二十五円くらいになる。日本で坦々麺というと肉味噌がかけてあるが、こちらは唐辛子と胡椒のきいたスープとこしのないなめらかな麺に、青菜を添えてある。うまいが辛い。
 八百屋も店を出していて、妙に寸詰まりのパイナップルや、縞模様のない楕円形の西瓜、日本と同じようで微妙に味が違う蜜柑、そのほか野菜類を豊富に並べている。ここの店員は片言ながら日本語を話し、我々を捕まえて離さない。
 この通りには「香港美食城」なる大きなレストランがあり、皆でそこのウィンドウを覗く。「大きなうなととがいる」と水槽をさしてはしゃぎ、北京ダックを食べている白人を見て「外人だ外人だ」と騒ぐ。パリのアメリカ人ならぬ北京の日本人は、田舎者丸出しである。


3月18日(金) やはり晴れ

 さて、今日は本来の目的である射撃の日である。六時十五分に主催者側が申し込んだモーニング・コールが入り、強引に起こされる。
 部屋のテレビをつけてみると、この時間には体操番組しかやっていない。朝の中国人はみな太極拳をするものだと思っていたら、八ビートのモダンな曲にのって、レオタードのお姉さんが三人、溌剌と体を動かしている。内容はまあNHKと大同小異だ。ただ、そのお姉さん方の横で、蛭子能収体型のおじさんがぎこちなく体操しているのが妙である。ロング・ショットではきちんと映されるので正規の出演者のはずだが、アップになるとお姉さんだけ映っておじさんはフレームの外に追いやられてしまう。かわいそうな気がする。
 体操が終わって英語教室が始まった頃、朝食のために部屋を出る。今はちょうど「全国人民代表大会」の期間中で、写真入りの赤いバッジを付けた人たちがロビーを歩いている。彼らこそ全中国の人民の代表で、日本で言えば国会議員にあたる要人である。そのため、いつもはこのツアーの参加者は迷彩服などでドレスアップしてロビーに集合するのだが、今回はあまり派手な格好をするなとの、ホテル側のお達しである。
 中華バイキングの朝食の後、昨日と同じバスで射撃場へと向かう。バスの中では、ずっと解放歌のテープをかけている。これで洗脳しておいて、あとでツアー参加者が模型店を訪れたときに同じテープをかけると「また中国に行きたいですね」となると言う。中国語なのでほとんど意味は判らない。いきなり聞き覚えのあるメロディーが出てきたと思ったら、中国語版「インターナショナル」であった。「インターナショナーァル」の部分だけは日本と同じく英語である。

trench

 保利国際射撃場は北京の東の郊外、保利という村の田園風景の中にあり、ホテルからバスで小一時間かかる。北京市も中心部は高層アパートなどが建ち並び、それなりに大都会の趣があるが、ちょっと郊外に出るととたんに田舎じみてくる。どの建物も煉瓦づくりで、大抵は平屋か二階建てである。煉瓦塀の通路の部分は丸型の門になっていて、いかにも中国風である。建物も道路も、木々までもが黄砂にまみれて、どうにも埃っぽい。
 射撃場には、工事中の白く大きな体育館風の建物がある。これもオリンピック対応だったのかもしれない。周囲の農家と外観が違うので、鉄筋コンクリートかと思ったが、裏側のまだ未完成の部分には煉瓦が露出していた。
 射撃場では付近の民兵が世話をしてくれる。銃弾の受け渡しや、装填などを手伝ってくれるのだ。なにかしらトラブルが起きたときの対処も、やはり普段から扱いなれている彼らに任せた方が安心である。ただ、拳銃などはマガジンを入れてスライドを引き、撃鉄が起きた状態でセフティをかけずに手渡してくれるので、少々危ない。
 射場は屋外で、塹壕のような溝の前にライフル類、地上のテーブルの上に拳銃が置いてある。百メートルほど先の土手の手前にライフル用の的、十メートルほどの所に拳銃用の的が準備してある。同心円を描いた人的(じんてき:人影を書いた紙のまと)のほか、酒の土瓶や風船などである。

shooting range

 ならんでいる銃は、拳銃が54式拳銃(トカレフの中国製コピー)とブローニング・ハイパワー、そしてストック付きモーゼル・ミリタリー。ライフル関係では、56式半自動歩槍(中国製AK47)、スコープの載った85式狙撃銃(ドラグノフ狙撃銃)、そのほか銃剣付きシモノフ・SKSカービンに消音サブマシンガン、はては二脚のついたドラムマガジンの81式軽機関銃やら、車輪と防盾(ぼうじゅん:弾よけの鉄板)がついたベルト給弾の重機関銃まである。骨董品が多いが、これが全部撃てるのだ。
 Y店長による安全指導のあと、いよいよ射撃開始となる。屋外にも関わらず、射場にものすごい銃声が反響する。耳栓などの保護がないと、とても耳がもたない。
 私は空気銃の所持許可は持っているものの、火薬を使う銃は今回がはじめてである。まずトカレフから撃ちはじめる。土瓶を狙ってもまるで当たらない。この銃は特に反動が強いのだそうだ。アメリカで四四マグナムを撃ってきた人が、これを撃って「なんで三〇口径がこんなに強力なんだ」と驚いたそうだ。その四四マグナムは弱装弾を渡されたのだろう、とY店長は言う。
 次にAK47にかかる。初めは単発、次にフル・オートで発射する。さすがにフル・オートでは銃口が跳ね上がってしまう。機械油がはねて、保護眼鏡に飛んでくる。
 店長が人的をくれたので、百メートル先に置いて軽機関銃の七十五連発で掃射する。後で回収したところ、等身大の人影に十一個の穴があいていた。多いとみるか、少ないとみるか。
light machine gunheavy machine gun  重機関銃で連射すると、土手の黄砂が舞い上がって着弾が見えなくなる。まるで土木工事である。民間でこの種の銃が撃てるのは、このツアーぐらいしかない。

 弾代は全員一律に三万五千円を徴収して、各種弾薬を取り混ぜて五百発支給される。もっと撃ちたい人は追加で買うのだ。五百発というと多いようだが、昼食を挟んで一日で撃ち尽くした。射場は薬莢が散乱し、踏まずに歩くことは不可能である。あとで民兵が箒でざらざらと掃き集めていた。

 昨年の秋、中国公安部の通達によって、中国内の観光用射撃場は閉鎖された。ガイドのG氏によると、それらの観光射撃場を利用して日本あたりの旅行社が暴利をむさぼったり、中国人観光客が銃や弾薬を盗んだり、あるいはその場で自殺したりと、トラブルが続いた末の禁止令なのだそうだ。
 にも関わらず、なぜこのツアーでは鉄砲が撃てるのか。じつはこの射撃場のある村の小学校に寄付金を贈っているため、特別に許可が下りているのだそうだ。学校の予算が年間二万元のところ、寄付金が一万元以上になるので、一年の三分の一は我々がまかなっている勘定になるらしい。
 ということで、射撃後にその小学校を表敬訪問する。

school children

 学校に着いたとき、ちょうど校庭で一年生くらいの生徒が体操をしていた。半数に少し足りないくらいの生徒が、首に赤いマフラーを巻いている。彼らは「少年先鋒隊」であって、Y店長いわく「ヒトラー・ユーゲントやね」
 子供に罪はないのだ。
 校舎は煉瓦づくりの平屋で、六棟ほどが並んでいる。廊下はなく、教室間の移動には、いったん表に出ることになる。校舎の端には大きな黒板が取り付けてあり、成績優秀者の名前などが五色のチョークで書かれている。学校の横には付属の工芸品工場があって、予算の不足をおぎなっているそうだ。
 授業中の教室に訪問、日本に行ってみたいか、などと生徒と質問のやりとりをする。三百十人の生徒はみな付近の農家の子供である。大学まで進みたい人は、との問いには全員が手を挙げる。先生の前でもあり、優等生的回答ばかりである。
 音楽室を訪れたときは、生徒たちが「少年先鋒隊の歌」を歌ってくれた。ここには我々の寄付金で買ったという電子オルガンが置かれている。教室内には「立志成才」といった標語が壁に書かれていたり「両腕がないのに勉強熱心な英雄的少女」その他のポスターが貼られていたりする。
 音楽室の隣には図書室があるが、ほんの二坪ばかりの小部屋に、申し訳程度の数の本が並んでいるだけだった。これは何とかしてやりたいと思う。
 職員室でお茶を呼ばれる。濃紺の人民服を着た校長先生が手ずからお茶をいれてくれる。しまいにはコップが足りなくなって、空き瓶にお茶をついでくれた。記念にと、付属工場で造った七宝の鯉をくれる。九つの部分に分かれた胴体が、関節でつながれて、左右に動くようになっている。
 職員室には、マルクス、レーニン、毛沢東の肖像がかけられている。世界地図は日本と同じく太平洋中心で北が上のものが貼られている。台湾や南沙群島は当然のように自国領になっている。朝鮮半島は一色で塗られ、単に「朝鮮」と書かれている。
 日本のように教育が受験のための知識の詰め込みに堕してしまうのもなんだが、このように国家による思想統制の場になるのも問題だろう。現在の実態がどうなのか判断できるほど見学したわけではないが、教室の様子を見る限り、過去における衆愚政策の影がちらつく。

stall  バスで北京市街にもどる。夕食には間があるので、途中の住宅街で一時停車、雑貨の露店やスーパー・マーケットなどを見て歩く。物はじつに豊富である。
 スーパーではもちろん米も売っている。短粒種に長粒種、短粒で色が黒い「黒米」と各種揃っているのが日本とは異なる。だいたい二キログラムで七、八元だから、キロ当たり日本円で五十円くらいである。
 ここで中国製インスタント・ラーメンを見つけた。カップ入りと袋入りの二種あるが、袋の「珍品、康師傅、紅焼牛肉麺」と、同じく「海鮮麺」を買ってみる。日本に帰ってから食べてみたが、御世辞にもうまくはなかった。ラーメンは日本に限るのだ。
 もう一つ、アーモンド・チョコレートもあったので、バスの中で食うべく買う。これはかじると中から予期したのと違う物が出てきた。アーモンドではなく、ピーナッツをキャラメルで固めた物だ。袋を見ると「脆仁朱古力」と書いてあって「杏仁」ではない。つまり私が間違えたのである。まあこれはこういう物だと思えばそれなりに美味しい。
 ここの露店で売っていた中華鍋が、「敵戦車」として明日のロケット弾の標的となる。

 夕食は毎回、中華のフルコースである。しかし、インディカ米が出てきたのは今回の「酔翁亭」だけであった。すでに十日近くこちらに滞在しているY店長は、その粒の長い米に持参のお茶漬け海苔とジャスミン茶をかけて食べる。なかなかいけるそうだ。
 傍らのステージに、琵琶と二胡(胡弓)楊琴(ばちで叩く琴)のトリオが出てきて演奏をはじめる。店長が箸袋に怪しげな中国語で「我々は日本共産党使節団である。『国際化』を要求する」とでまかせを書いて持っていく。ステージの三人は苦笑しながらも、ちゃんとインターナショナルを演奏した。プロである。
 ここには「卞拉OK」(本当は「卞」の文字ではなく、上と下が横棒のところで合体した文字)もあるが、私はカラオケはきらいだ。生演奏の方がよい。

 食事の後は全員で雑技団を見に行く。知らない人はあまりいないと思うが、脚や頭でテーブルや壷などを回転させたり、積み重ねた輪の中を飛び抜けたりといった体術を見せる、一種のサーカスである。染の助、染太郎で有名な太神楽の中国版と思えばよろしい。
 雑技団は市内に専用の劇場を構えており、続々とおのぼりさんが集まってくる。劇場のつくりは一昔前の日本の映画館にそっくりである。ロビーは半分おみやげ売場で、掛け軸や印材(上演中に彫り上げてくれる)、チャイナ・ドレスなどがところせましとひしめいている。
 雑技団の演技は、テレビでは何度か見たので高をくくっていたが、実際に目にするとなかなか大したものである。ことに最後に演じられた犬舞(?)はみごとであった。ちょうど獅子舞とおなじ要領で、二人がかりで犬の着ぐるみを操り、『様々な芸をする犬』を人間が演じるのである。後ろ足で首を掻いたり、呼吸しているように見せるために腹の部分を上下させたり、芸が細かい。北京動物園の動物は、みなこうやって人が入ってるんじゃないかと、冗談が飛ぶほどである。
 きらびやかな原色の衣装ときつい照明には目が疲れる。地方から出てきた少年少女などは、これを見て憧れたりするのだろうなと思う。


3月19日(土) あいかわらず晴れ

 朝、ホテルの前に出ると、太陽が東西にのびる道路の延長上に上って、日本の方角を示す。日の本とはよく言ったものだ。
 本来の今日の予定は、午前中に戦車学校で戦車の操縦シミュレータ見学と戦車の試乗、午後から対戦車ロケット弾の試射だった。ところが全人代の威光はここにも及び、ロケット試射と戦車試乗を両方とも午前中に済ませることになった。なんでも戦車学校のほうが、中国近代化の象徴として、全人代代表の見学とかち合ったらしい。

 今度の射撃場は北京の西の郊外にあるので、ホテルからバスで天安門の前を通り、真直ぐ西に進む。この道路は東西に延々と八十キロメートル、一直線に伸びている。
 二、三十分走ると、この道路の西の果てに達する。そこには製鉄所の中国風の門があり、まだしばらくは構内に直線の道が続いている。門の向こうには差し渡し三メートルくらいの鉄の鷲が塔の上に羽を広げている。バスはここで右に曲がる。
 この鉄鋼コンビナートは従業員だけで三十万人を擁する。三十万といえばちょっとした都市の人口である。この工場の民兵組織が、独自に戦車や高射砲を持っているそうだ。
 しばらくすると、原子力発電所の白い冷却塔が立ち並ぶ一角に出る。そのすぐそばに単元(アパート)が建っている。冷却塔を背景に、蒸気機関車が二頭立ての貨物馬車を追い抜いていく。立ち並ぶ人家の煉瓦塀には、穴があいていたりする。

 ロケット弾を撃つ射撃場は山の端にある。だいたい丹沢山系くらいの山並みで、ずっとなだらかな山容を見せている。このずっと北には万里の長城があるのだ。
 射撃場の門をくぐってから射場に至るまでに、かなり急な登り坂があり、バスのエンジン音がどんどん低くなって、もう一息の所でついに停まった。重すぎるのだ。全員、鍋を持って降りる。
 Y店長が「これだから中国のバスは」と文句を言う。
 中国人ガイドのG氏がすかさず「これ日本車ですよ」
 なるほど、どうも内装が日本と同じだと思ったら、日野自動車のバスだった。ただしハンドルは左、ドアは右である。

open fire  ここの射場は、観覧席から突き当たりの崖まで五百メートルくらいの距離があり、途中に何カ所か標的を設置するための監的壕がある。我々は一番奥の壕の手前から、崖に向かってロケット弾を撃つのだ。ここからでも距離は二百メートル近くある。このロケット弾はソビエト製RPG7を中国でライセンス生産したもので、無誘導ながら、三十九ミリメートルの鋼鉄を貫通できる成型炸薬弾頭を発射する。
 現場では人民解放軍の兵士が準備して待っていた。崖に鍋を設置してから、撃ち方の説明をうける。発射の準備は兵士がやってくれる。弾頭に発射薬を取り付け、信管のピンを抜いてカバーをはずし、発射機に差し込むのである。発射機自体は、引き金機構と照準器、二脚がついただけのただの筒なのだ。
 順番は五十音順とのことで、まずI氏が撃つ。他の面々はみな離れたところで待機する。ガイドのG氏がぽつりと「これ凄い音なんだよね」と言ったので、みな慌てて耳を押さえる。と、まもなく「ばどぉん」と大音響が轟く。「ば」が発射音で「どぉん」が炸裂音である。花火の尺玉を直下で聞くくらいの感じだろうか。ジーンズの裾が震える。

fire  発射した当のI氏は耳をふさいで跳ね回っている。耳栓をしていなかったのだ。彼はこの後、一日中耳鳴りに悩まされたらしい。
 発射時の反動はほとんどない。ガスを後方に逃がして、反動を相殺しているのだ。発射と同時に照準器の視界が煙に隠される。急いで顔を離して崖に目をやると、すでに弾頭は炸裂した後で、鍋が宙を舞っている。付近の山々から、木霊が帰ってくる。
 全員が撃ち終わったが、まだ用意したロケット弾が残っている。一発一万五千円(日本円で清算)のところ、一万二千円まで割り引くというので、何人かがそれに応じて撃ってしまう。私は一発だけでやめた。

 鍋を回収に行くが、八個中の二個は行方不明である。命中した鍋には直径五センチメートルほどの穴があいている。至近弾を喰ったものも、破片によって小さな穴がたくさんあいてへこんでいる。

impact(写真)着弾の瞬間
destroyed tank(写真)撃破された敵戦車

 帰りがけ、この射撃場でトイレを借りる。紳士用に小便器というものはなく、単なる壁の手前の床に出っ張りを造って壁との間を溝状にし、周囲への流出を防いでいるだけである。ところが中国兵のなかにはここで「大」をなさる方がいるらしく、新鮮なやつがこんもりとしている。それもすでに乾燥しきった過去の堆積のてっぺんにである。やや軟便気味のようだ。

 戦車学校は廬溝橋の近くにある。射撃場を出て鉄鋼コンビナートの付近までもどり、そのままさらに南下する。コンビナートの前を過ぎた辺りで渋滞に巻き込まれ、全く動かなくなる。どうやらこの先の踏切を、貨物列車が通っているらしい。後ろからきたトラックが、反対車線を逆行して追い抜いていく。この状態で踏切が開いたらどうなるのか。
 バスが動かないので、付近の家並みはじっくり見られる。
 とにかく隅という隅、へこんだ所にはすべからく細かい砂が積もっていて、うかつに踏み込むと足首まで埋まりそうだ。この砂のせいで、風景はくすんだ色に見える。杏かなにかを七個くらい串刺しにして、真赤な飴で固めた物を、自転車で売って歩く人がいる。二、三歳の子供が二人、人家の玄関先で遊んでいる。子供の服は、股のところが大きく切り開いてあって、尻が丸出しである。おむつ代わりのお漏らし対策なのだ。
 製鉄所の近くなので、屑鉄を積んだトラックが多い。十トンくらいのトラックだが、大概は普通の荷台の後ろに、もう一両の台車を連結してある。そういえば市内のバスにも二両編成のものが多かった。
 ようやく渋滞を脱して走り出す。路溝橋の付近には広大な軍事施設があり、戦車学校はその中にある。この地域は、地図上では空白になっているそうだ。その空白地帯の手前で再び踏み切り待ちになる。横に軍のトラックがとまり、荷台に乗った兵士達と手を振りあう。前方を、ディーゼル機関車に引かれた五十両あまりの貨物列車がのんきに通過していく。

real tank  さすがに近代化の象徴と言うだけあって、戦車学校にはこぎれいな建物が並んでいる。また、軍事機密が多いので、やたらに写真を撮ってはいけないと言われた。
 高台にある訓練場には、二台の戦車が待機していた。ソ連のT55をコピーした五九式坦克である。はっきり言って旧式で、先進国の現用車から二世代は前のしろものである。新型は見せてくれないのだ。ちなみに「坦克」は中国語で戦車を意味し「タンクゥ」と尻上がりに発音する。
 訓練場は予想通り厚い砂に覆われていた。そのかわりに見晴らしはよく、軍事施設の建物がよく見える。遠くはまだ冬枯れの野原と畑で、幹の細い木々の疎林が点在する。
 適当に順番を決めて、一台に二人ずつ乗る。何しろキャタピラだけで一メートルくらいの高さはあるので、よじ登る感じになる。半球型の砲塔には、車長用と砲手用の二つのハッチがある。戦車兵用のヘルメットを借り、私は車長用の方におさまる。こちらのハッチの蓋にはペリスコープがついている。
 ハッチから上体を出し、轟音と砂埃を巻き上げて訓練場を一周する。不整地なのでたいへんに揺れる。さすがは無限軌道と言ったところか。
 内部の弾薬ラックは、当然だが空である。弾薬のかわりに消火器がつっこんであった。A氏が中をのぞき込んで「なんか撮るもんない?」と訊く。「砲の尾栓のカバー盗っちゃおうか」と言ったら、操縦席に行こうとしていたN氏にうけた。
 全員が一通り乗ったところで、戦車学校のK大佐などの幹部将校と、戦車をバックにして記念撮影となる。

 昼食は付近のレストランで、先程の将校を交えての会食である。料理は四川風で、非常に辛い。唐辛子そのものが、日本の鷹の爪とは桁違いに辛いのだ。
 我々が飲むのは大概ビールだが、中国側の面々はみな「工鍋頭酒」という高粱の蒸留酒である。アルコール度は五十六度で、これをコップ酒で飲む。大佐が二つのテーブルの間を行き来し、そのたびに乾杯となる。それもビールでは承知せず、白酒(パイチュ)にしろという。つまり蒸留酒である。匂いはそれほどないが、とにかく強い。都合三回の乾杯で、こちらは悪酔いする。
 K大佐が隠し芸を披露してくれた。手帳に挟んだ紙片をちょっとなめ、口笛で鳥の声をまねるのだ。もともとは口笛をホイッスルの代わりとする技術で、軍人や公安関係者ならある程度はできるらしい。なめた紙片には、なにかの薬品が染み込ませてあるのだろう。
 それはそれとして、鳥の声はみごとである。雲雀のような小刻みな音は、普通の口笛ではだせない。リクエストに応えて「豚が死ぬところ」の声もやってくれた。全員爆笑。

 永定河を渡って市内に戻る。高速道路の新しい橋は、廬溝橋のすぐ南側にかかっていて、車窓からその廬溝橋やたもとの櫓が望見できる。この場所は北京を守る西の要地で、明の時代からなんども争乱の対象となったところだ。そしてもちろん日中戦争の戦端が開かれた地でもある。
 当初とは予定が変わったので、午後は軍事博物館の見学となる。
 館内には、自国の兵器類のほか、日中戦争当時の日本軍の兵器、朝鮮戦争で鹵獲した米軍の銃砲、戦車の実物、そのほかドイツの銃器などが展示されている。日本にはこうした博物館はほとんどなく、靖国神社横の遊就館か、自衛隊の資料館くらいだろう。ミリタリー・マニアなら必見である。
 北京上空で撃墜されたアメリカの高高度偵察機U2の残骸がある。日本の九九直脇やアメリカのムスタングがある。パットン戦車は砲が折れている。日本軍の二十ミリ対戦車ライフルなどという珍品もある。野砲、山砲、迫撃砲、榴弾砲、加農砲、高射砲と放列を敷いたところは壮観である。
 ソビエトの戦車T64は、中ソ国境紛争の折りの鹵獲品だそうだ。この戦車が凍った池の上を進んできたとき、その前に一人の学生が「毛沢東語録」を振りかざして躍り出した。非戦闘員を撃つわけにもいかず、立ち往生しているうちに氷が割れ、池の底に沈んでしまったのだ。中国政府はこれを「毛沢東語録は戦車より強い」として宣伝にこれ努めたそうだ。
 フロアの一つはそっくり抗日戦の記録で占められている。満州事変に至る前史から、満州国建国、廬溝橋事件、国共合作、南京大虐殺、ゲリラ戦の記録を経て、日米開戦と終戦まで、言葉は判らないながらも大まかな内容は理解できる。

 夕食は地壇公園内のレストランである。故宮の北にあり、有名な天壇公園とは反対側である。
 北京師範大学に通うお嬢さんをお客様として招待する。下手な日本女性より、遥かに端正な日本語を話す美人である。美人と言えば、昼間のK大佐の秘書をやっている中尉もたいへんな美男子で、この二人はこのツアーに呼ばれたのが縁で、デートなぞしている仲だそうだ。ちとくやしい。
 私の隣に、日本で散弾銃(クレー射撃)と空気銃(エアライフル)の所持許可をもつN氏が座る。私も空気銃は持っているので、その話で盛り上がる。神奈川の国体が近いので、伊勢原射撃場が改装のため使えなくなる、とか、空気銃で壁に突き当たったら、装薬銃に切り替えるといい、などとアドバイスをもらう。
 中国のビールは瓶詰めがいいかげんである。栓を抜く前の水位がばらばらで、抜いた後も泡が全く出ない瓶や、シャンパンのように泡が止まらない瓶がある。輸出している青島ビールは栓がまともな方で、酒によっては運が悪いと横にすると漏れてきたりする。匂いの強い酒だと、日本に帰る前に荷物中に匂いが充満する。私が買った「孔府家酒」は、栓の上からワックスで覆ってあった。
 冷やしていないビールもよく出される。これは習慣の違いである。
 レストランの向かいには売店があり、硯、刺繍、翡翠など、工芸品の類を扱っている。ここには両替所があって、日本円で直接支払うこともできる。売り子は日本語をそこそこ話せる。一行のH氏が、絹のパンティーを並べさせて物色していた。


3月20日(日) 引き続き晴れ

mauser etc  午前中は再び保利射撃場での射撃である。
 この日は前回の銃の他に、旧帝国陸軍の主力小銃である三八式歩兵銃や、アメリカ軍のM1カービンの後継であるM2カービン、ドイツのKar98K、フルオートとセミオートの切り替えができる拳銃のモーゼル・シュネールフォイヤー、アメリカのガバメント、トンプソン短機関銃(通称トミー・ガン)がでてきた。いずれ劣らぬ名銃である。トンプソンの弾倉は三十発のボックス・マガジンで、TVドラマ「コンバット」ヴァージョンである。「アンタッチャブル」の五十発ドラム・マガジンではない。
 ガバメントとトンプソンに使う四五口径の拳銃弾は米軍からの鹵獲品で、在庫が二百発しかないそうだ。我々がよってたかって撃ち尽くす。私はガバメントしか撃てなかった。

 三八式の弾丸は細長い。ここにある弾薬は、日本軍が遺棄した小銃を自国軍に装備するため、戦後に中国内で生産されたものらしい。
 元帝国陸軍軍曹のK氏によると、この弾丸が細いのは、少ない薬量で貫通力を増すためとのことだ。薬量が少なければ反動も小さく、精密な射撃が可能になる。また、貫通した弾丸はまだ運動エネルギーを持っているため、弾丸が体内で停止してエネルギーを全て放出した場合より人体へのダメージは少ない。こうした小口径弱装弾は、命中しても敵兵がなかなか死なないのである。すると負傷兵一人を後送するために二人の兵がつくので、敵の戦力減に有効なのだそうだ。
 長身のK元軍曹は戦時中、山東省で軽機関銃班の班長として従軍していた。今は関東一円に支店を持つ、ラーメン・チェーンのオーナーである。このツアーの常連だそうだ。今回は高校生の孫を連れて参加しており、年齢層の上下端をこの二人が占めている。
「中国軍の斥候は、まず攻めてくる日本兵が機関銃を持っているかどうかを確認して、持ってないとなると襲いかかってくるんです。故障が多くとも、機銃があるとないでは部隊の士気が違いますね」
「銃もこうして安全に撃てればちゃんと当たるけれど、向こう側に敵がいて撃ってくるとなると、とても冷静に狙えたもんじゃないですよ」
「銃剣で突くときは、七割くらいの力で突くんです。全力で突くとその後で動きがとれない。だから余力を残してこう突き刺して、そのあと銃床で股間をこう突き上げるんです」と実物を持って解説してくれる。貴重な体験談である。
 Y店長が日本で仕入れた八路軍の制服を取り出し、民兵の将校に着てもらっている。そしてK元軍曹と肩を組ませて写真を撮り「五十年目の和解」と称して喜ぶ。

machine guns  三八式とM2を撃ち比べる。
 三八式はボルト・アクションで、一発撃つごとにハンドルを引いて弾を装填しなければならない。M2は自動小銃なので、引き金を引くだけで次々に発射できる。三八式は二千四百メートルまでの照尺(距離に応じて照準線を調節する装置)に狭い谷型照門がついていて、精密射撃向きであるかわりに狙うのに時間がかかる。M2の方は穴照門の固定照準である。
 三八式の照門はすり減っているが、それを考えてもM2の方がよく当たる。百メートル先の土瓶を撃ち落としたら、隣のドラグノフ狙撃銃で狙っていたT氏が「あら誰かに撃たれちゃった」と声を上げた。ごめんなさい。
 この二つの鉄砲同士で戦争をやれば、その帰趨は明らかである。

 ゲストハウスで食事の後、射撃場を後にする。午後は自由時間だが、とりあえず全員で市内の軍装品店に立ち寄る。
 入り口は分厚い透明ビニールの暖簾でふさがれており、それを押しのけて入る。砂よけだろうか、この暖簾はあちこちの店で見かける。店内には軍靴から帽子まで、軍隊で使う一通りの衣料が並んでいて、軍の購買部が市内に店を出したような感じである。ただし、階級章の類は売っていない。これは官給品で、しっかりシリアル・ナンバーをうってあるそうだ。
 この店に限らないのだが、中国のある程度大きな店舗では、品物の代金の支払い方が独特である。
 まず品定めをして店員に「これをくれ」と言うと、その場で三枚複写くらいの伝票を切ってくれる。それを持って店の中央にある集合キャッシャーで代金を支払うと、その伝票にはんこを押してくれたり、レシートを渡してくれたりする。その支払い済みの伝票を持って、再び先程の店員のもとに戻り、伝票と引き替えに品物を受け取るのだ。伝票の一枚は領収書となる。キャッシャーに行っている隙に、間違って違う品を包んでいたりするので要注意である。

 私はU氏、K軍曹、孫のT君とともに、タクシーで故宮博物館にむかう。日曜日なので街は人と車であふれ、大渋滞である。その横を様々な形の自転車が追い抜いていく。中国の自転車は有名だが、それなりの合理性はあるのだ。大きな通りになると、両端に自転車専用レーンが設けてある。
 天安門の前、中国革命博物館の横でタクシーを降りる。K元軍曹は「疲れるから」と先にホテルに帰る。
 天安門前の噴水があがっている濠の橋を渡り、毛沢東の巨大な肖像の下をくぐる。トンネルのようである。ここを抜けて午門までの間には、右側に売店が並んでいて、浅草の仲見世にそっくりの雰囲気である。
 午門からは六十元の入場料がかかる。中国人の平均月収が五百元くらいだから、結構な額である。だいたい十元あれば、一日過ごすのに充分だと言う。(一元は日本円で十二、三円)
 故宮博物館の入場は午後三時半までで、我々は滑り込みで間にあった。四時には追い出されるので、あまりゆっくり見る時間はない。とりあえず柴禁城の中心線に並ぶ建物をたどり、太和殿、中和殿、保和殿、乾清門、乾清宮ときた所で十五分経過。引き返す。まだその先がある上に、財宝の展示館もあるのだが。
 映画「ラスト・エンペラー」を思い出す。ここが西太后が寝ていた場所、ここがこおろぎを隠していた玉座、ここではテニスをやっていた、とそっくりそのままの光景が広がる。
 建物の中は薄暗く、入り口に柵があるので、あまりよく見えない。広場は全て大理石のブロックで敷き詰められている。ブロックの角は欠けていて、でこぼこで歩きにくい。
 階段の中央、龍の彫刻が彫ってある部分は、皇帝だけが進むのを許された場所である。両脇の階段を上る従者が輿をかつぎ、皇帝は龍の上空を進んで行くわけだ。当然一般人は入れないようになっている。
 U氏はここの広さに驚き、しきりに感心している。私にはほぼ予想通りの広さであるが、確かに広いには違いない。柴禁城は英語でForbidden City といい、まさにCity と呼ぶだけの偉容を備えている。もともと「城」の字は都市を意味するのだ。

 午門前でタクシーを拾い、ホテルに帰る。運転手は我々を中国人だと思い、故宮を指さしてなにか話しかけてくる。恐らく「広いだろう。どう思う?」などと言っているのだろう。
「私中国語判らないので」と日本語で言うと
「ああ、日本人(リーペンレン)」と納得したらしく、以後は黙る
 天安門前を通過するとき、広場の方を指してまたなにか言う。見ると広場の上空は無数の凧で埋め尽くされている。中には連凧や立体凧、おまけに巨大なパンティ・ストッキングをそのまま揚げたような下半身凧(ビキニははいている)までへろへろ揚がっている。運転手はこれを指していたのだ。
 ホテルで他の一行と合流し、王府井大街へと買い物に出る。
 工芸品を扱う「北京工芸美術服務部」を覗き、絹の刺繍ハンカチなど買う。この種の土産物に関しては、さすがに中国である。書画骨董の類は言うに及ばず、両面刺繍などの装飾品にアクセサリー、玉石を用いた酒器や銘木の家具、兵馬俑の複製品はもって帰るのが大変そうだ。
 工芸ではないが、ここでは薬も売っている。もちろん例の毛生え薬「101」も扱っている。初めて知ったのだが、101は一種類ではなく、101A、101B、101Dと四種もあるのだ。なぜかCはなく、AとBは赤い箱なのにDだけは金色の箱に入っている。
 また、中国の薬局は、そのスペースの半分が精力剤に占められている。錠剤やアンプルに混じって、鹿の角、人参、虫、強そうな動物の局部などが並ぶ。
 続いて電気屋に入る。
 音楽ソフトはほとんどがカセットテープである。CDはあまり普及していないようだ。ヘッドホン・ステレオはアイワの製品ばかりで、ソニーやパナソニックは意外に少ない。SUNUYのラジオなどという怪しげなものもある。ロゴタイプはSANYOにそっくりだが。
 ちなみにFM/AM がはいるソニーのWM-FX23 が四百八十四元であった。これは日本ではツーリスト・モデルで、六、七千円の品である。通貨レートからすれば順当な値段だが、中国人にしてみれば、ほぼ月給の額なのだ。
 中国製パソコンもある。IBM互換機らしく、33MHzの486と4Mbyteのメモリ(+1.2Mのキャッシュ?)を積み、八千五百元だった。ファミコン売場もちゃんとあって、子供が群がっている。恐らくデッド・コピーであろう中国のファミコンは、フル・キーボードが標準装備である。
 王風井の一角に、銭形警部がスーパーマンの扮装をしたような、等身大の人形が立っている。見上げると看板には、同じデザインのもっと大きな人形が突き出ていて「北京星星科技娯楽宮」とある。ゲーム・センターだ。ぜひ入らねばならない。
 しかし懐かしのゲームを期待したのは間違いだった。さすがに北京の中心でもあり、ビデオ・ゲームもクレーン・ゲームも日本製の最新機種が並んでいるのだ。脱ぎ麻雀もしっかりあったが、表示が日本語のままだ。「リーチ一発」などと漢字仮名混じりで出る。一発などと言うルールは、中国にもあるのだろうか。
 中国の通貨はほとんどが紙幣である。硬貨は一角と一分のアルミ貨しかない。一角は日本の一円玉クラス、一分はその十分の一に相当する。従って、街には自動販売機が全く存在しない。公衆電話も、ホテルのロビーにある国際電話用を見かけただけで、しかもかけ方が判らない。ゲーム・センターではどうするかというと、まず専用のコインに両替してから遊ぶのだった。
 紙幣は一分から百元まで各種ある。最高額の百元で支払うと、プラック・ライトの偽札鑑別器にかけられる。すかしの他に蛍光インクでなにか書かれているらしい。

 最後の晩餐の場はホテルの近くの「世界美食中心」なるレストランである。再びK大佐が制服で現れる。軍人が民間の招待を受けて制服を着て来たのは、実は招待した側にとって大変に名誉なことなのだ。前日の例によって、強い酒と広東料理とで演芸会と化す。
 北京ダックも出たが、これはツアー・コンダクターK氏のおごりだそうだ。「黙ってろって言ってたけど、一応教えときますね」とガイドのG氏。ひそかに感謝する。それにつけてもG氏の日本語は上手である。日本人と比べても遜色ない。


3月21日(月) ついに最後まで晴れ

 飛行機が九時前に離陸するため、朝の五時五十分に起床、荷物をまとめて集合する。食堂もまだ開いていないため、朝食はバスの中で弁当を食べる。弁当と言っても、ホテルで箱に詰めたパンとハムと鶏の唐揚げ、ゆで卵と蜜柑に板チョコである。水気がないので食べにくい。
 到着時には暗くて見えなかった空港付近の景色も、今日はよく見える。高速道路の右手に、並木道の旧道が走っている。Y店長が保利の小学校への寄付を集めに回る。BGMの解放歌がインターナショナルになったとき、北京首都空港に到着した。
 出国手続きを済ませ、ロビーで土産物を物色する。ここの売店は洋酒が豊富である。使い残しの元で、写真集など買う。ロビー中央には大きな募金箱が置いてある。私はこちらの募金には応じないものの、ここに募金箱を置くのはいい考えだと思う。
 飛行機はサテライトを離れた後、滑走路の端で長々と待ったあげく、ようやく離陸する。往路はエアバスかなにかだったが、復路はボーイング747−400である。離陸してしまえば後は道中何事もなく、無事成田に到着した。
 荷物を受け取り、そのまま流れ解散となる。税関もほとんどフリー・パスであった。

      了