■苦悩の日々
昭和60年3月、卒業式が終わった直後から私は職場にいた。入社前からアルバイトとして呼ばれた
のである。今思えば学生生活最後の1ヵ月はもっと楽しめば良かったと少し後悔している。しかしその1ヵ月で
他の新入社員と差がついたのは確かである。たった1ヵ月でも先に仕事を覚えた方にどんどん仕事が回ってくる。
そう考えると新人の最初の1ヵ月は大きな差だったように思う。また頼られる事によって自分のやる気にも繋がる。
新人社員としては十分満足であった。
私はソフトウェアのプログラマーとして会社に就職した。しかし最初はコピー撮りや先輩の作った
設計書の清書、プログラムの単純入力が主な仕事だった。こんな事やる為にこの会社に入った訳じゃないのに・・・。
若造が良く考える思考だ。毎日そんな事を考えながら不満をもって仕事をしていたが、どんな仕事でも
効率的にやるのとやらないのとでは結果に差が出る。頭の中でブツクサ考えながらも与えられた仕事に
必死に没頭した。この時の経験が先々の仕事に活かされる事に後になって気がついた。
いわゆる下積生活は必要という事である。
当時は朝8時から夜10時まで働くのが最低の定時みたいなものだった。残業時間で言えば毎日最低4時間。
深夜作業もざらだったので毎月の残業はしばしば100時間を超える。まるで残業する人間が偉いかのような
風潮があった時代なので長時間労働にポリシーを感じていた。今考えればアホな考え方である。
たんまり残業代を貰っていたのに、今思えば収支管理はどうなっていたのか・・・。
社会人一年目は毎日が苦悩の連続だった。私は学校でソフトウェア開発の事を一通り勉強してきたが、
そんな知識は実践ではほとんど役に立たず、必要なのは最低限の知識と生まれもったセンス、
それといかに物事を効率良く考えられるかという事。そして最後はガッツと体力。これが当時求められていた
能力だったように思う。一年目は技術的な事以上にそういった事を学んだ感が強い。でも技術面の理解にも
相当苦しんだ覚えがある。いきなりマシン語でプログラムを作れと指示してきた先輩。
訳が分からず作ってはみたものの、全然動かずに叱られる。そんな事の繰り返しだったかな。
仕事はさらに忙しくなり、遂に残業時間が定常的に月150時間を越えるペースとなった。
でも、泣いてたまるか!