993.終戦特集(山岡)



件名:日本の進路決定とアジア   
――日本の進路決定とアジア 原田勝正 本学経済学部教授の提案


 一番最初に問題にしたいのは、一九世紀末までの時期の動きです。

 一八六八年四月六日(慶応四年三月一四日)に五箇条の誓文が出
されたときに、付けられた明治天皇の宸翰です。日本の進路を考え
る場合、五箇条の誓文よりも、むしろこの宸翰のほうが重要な意味
を持っておりますが、ここで示された進路は、突き詰めて言えば、
「億兆安撫、国威宣布」、億兆というのは国民ですが、億兆安撫と
国威宣布すなわち国内・国外両面にわたる進路が述べられ、とくに
対外政策については「国威ヲ四方ニ宣布シ」という方針が積極的な
姿勢として見られます。

 その半年後に、即位の大礼が京都で行なわれました。そのとき、
紫宸殿の前庭に大きな地球儀を置いて、その地球儀を天皇に踏ませ
るという準備がされました。ところがその日、雨が降ったものです
から、地球儀を門の下に入れてしまったので、天皇が地球儀を踏む
という儀式は行なわれなかったと言われております。

 これについては、私が戦前に読んだ明治天皇の伝記には、踏ませ
る予定だったと書いてありました。ところが、戦後の伝記には載せ
られておりません。戦後編纂された『明治天皇紀』にも地球儀を置
いたという事実は書いてありますが、そこにも踏ませる予定とは書
いてありません。しかし、地球儀を踏ませるという計画が立てられ
たとすると、明らかに国威宣布を儀式のなかに入れようとしたとい
う意図がそこに推測できます。

 それを裏付ける政府の動きが、参議木戸孝允の朝鮮出兵構想です
。これはその翌年、一八六九年に入って、世直し一揆など国内の動
乱を鎮圧し、国民の意識、関心を朝鮮に向けさせる目的の下に、朝
鮮に出兵し、釜山を兵力によって占領するという計画です。提案の
相手は岩倉具視ですが、「朝廷の御力を以て主として兵力を以て韓
地釜山附港を開かせられ度、(中略)億万生之眼を内外に一変仕り
」[注1] というこの提案から、外征を利用して国内の動乱を鎮圧し
ていくという意向が読み取られます。

 その後、一八七五年に江華島事件など、かつてアメリカが日本に
対して兵力を動かして開国をさせたのと全く同じ手段によって、朝
鮮の開国を迫りました。アメリカに迫られた開国を、今度は朝鮮に
迫るという形で、この事件は日本が東アジアに勢力を伸ばす最初の
動きとなりました。

 この過程には、非常に強烈な内憂外患という危機意識の強調が行
なわれておりました。そして、この内憂外患の意識、特に外患の意
識は次々に繰り返され、繰り返すごとに範囲を広げていきます。

 このような動きに対して自由民権運動が一八七〇年代の半ばから
強まってまいりますと、近代的ナショナリズムの立場に立って琉球
問題が非常に大きな問題として取り上げられていきます。明治政府
は朝鮮への勢力拡張構想と並行して、蝦夷地(北海道)と琉球の完
全支配を進めていきますが、一八七〇年代半ばに琉球の帰属が問題
にされますと、自由民権論者が琉球の独立、自立を図るという議論
を展開します。

 それは、「亜細亜全州ノ力ヲ収合シ欧米ノ強暴ヲ抑制」[注2] す
るという、アジア解放の立場としてあらわれてきます。私はこれを
「大アジア主義」と区別して、ここでは「アジア主義」の立場と理
解すべきではないかと思うのですが、要するに欧米のアジア侵略に
対して、アジアの諸民族が力を合わせて解放する、解放と連帯の方
向がこのあたりから提起されていたということは非常に注目すべき
ではないかと思います。

 ここでは政府と民間の動きが一八七〇年代の終わりから八〇年代
あたりにかけて並列した形で展開していたことを示しております。

 しかし、一八八〇年代の半ば、自由民権運動が抑圧されて八九年
に明治憲法が制定され、明治憲法の体制がつくられたのち、明治政
府は、朝鮮の支配、そして朝鮮の背後にある清国に対する挑戦とい
う方向を目指していきます。

 軍部はこの間に、外征戦略に大きく転換します。この転換は、だ
いたい八五年から八六年にかけて、それは同時に一八八五年三月の
福沢諭吉の「脱亜論」が発表される時期にも当たります。この外征
戦略が、一八九四年の日清戦争につながっていくことになります。

 この外征戦略は国家の進路として政府によって確認されます。そ
れを確認したのは一八九〇年一二月六日第一回帝国議会で、その当
時の内閣総理大臣であった山県有朋が行なった演説です。

 この演説のなかで山県が提起したことは二つありました。

 第一が主権線の守禦、第二が利益線の保護です。主権線とは国境
を意味します。利益線とは、その国境の外側にある、国境を守るた
めの地域という意味で、恐らく軍事用語ではないかと思いますが、
主権線の確保のために利益線に勢力を伸ばすという勢力拡大の方向
がここで提起されたことになります。

 これは明らかに朝鮮への進出を示します。したがって、朝鮮への
進出は、日本の進路として位置づけられ、その結果が、一八九四年
の日清戦争という形で展開することになりました。ここで明治維新
以来の国家の方向は非常にはっきりと示されました。

 ここで提示された進路に、結果として同調したのが、かつての自
由民権左派の大井憲太郎でした。彼は一八九二年に東洋自由党を組
織します。この東洋自由党は、朝鮮を足かがりにアジア大陸に進出
し、これらの地域の改革を進めることを目的としていました。
 その趣意は、彼がまとめた「東洋自由党組織の趣旨」に語られて
いますが、「殊に朝鮮の如きは我國の堤防なり。一旦決潰せば其禍
患測る可からず」[注3] という立場は、明らかに山県の利益線の提
起と全く同じです。

 大井憲太郎は、一八八五年、福沢諭吉の「脱亜論」が発表された
年に、大阪で武器を集め、朝鮮に渡って革命を起こそうとしました
。いわゆる「大阪事件」です。革命の「輸出」です。日本国内にお
ける自由民権運動が抑圧されて、十分に運動を展開することができ
なくなり、朝鮮で革命を起こして、政府や国民の注意を朝鮮に引き
つけ、自由民権運動の復活を図るのが目的でした。さきに挙げた木
戸孝允と逆の立場から朝鮮を利用するという姿勢です。革命の「輸
出」を企てた大井が、朝鮮を防波堤とするという意見を述べたのは
、朝鮮を利用するという立場からすれば当然の結論かと思われます
が、それは自由民権運動におけるナショナリズムの立場の変質を推
測させます。

 こののち、一九〇一年の義和団事件によって、日本の軍隊は欧米
の軍隊に遜色ない活動をし、極東におけるイギリスの代理人として
活動できるという立場を確立しました。一九〇二年には日英同盟を
結び、同時に不平等条約を撤廃する方向に進んで、日本の国際的な
地位はこの時期に一気に上昇しました。そして国際的な地位の上昇
は、同時に福沢の「脱亜論」の立場をそのまま進めていくという方
向をもっておりました。

 そのような国際的地位の上昇の時期に、一八九〇年代の初めぐら
いから唱えられてきた荒尾精の「興亜」政策が、影響力を強めまし
た。中国の調査を行なった陸軍の将校から転じて中国で活動する人
材の養成に当たった荒尾は、日本はすでにアジアのなかで朝鮮や中
国よりも進んだ国家になっている、その日本が中心となってアジア
の解放を進めるべきだと唱えました。福沢の議論が「脱亜」を志向
したのに対し、荒尾の議論は、その進んだ日本がもう一度アジアに
帰れというものでした。そして彼の議論は、その後のアジアに対す
る日本の勢力拡大を志向する立場を示していました。

 このあたりで一九世紀が終わって、新しい世紀に移ることになり
ます。その二〇世紀に移るところで見落とすことができないのは、
宮崎滔天の中国革命に対する支援の活動です。

 宮崎滔天の立場は、大井憲太郎の立場などと違って、個人の立場
で革命を支援するもので、その立場は、一八七〇年代の半ば過ぎに
出てきた自由民権運動のナショナリズムの立場をそのまま引き継い
だ形で展開するという方向を示します。そこでは明らかに朝鮮や中
国と平等な立場に立つ連帯が主張されます。大井憲太郎ももちろん
連帯を主張してはいましたが、防波堤として手段化していました。
それに対して宮崎滔天はそういった手段化を行なっておりません。
そこにかつての自由民権運動の立場が引き継がれています。

 宮崎滔天の連帯主義は、日本では、いつかは自由民権運動の立場
に立つ民主化の運動が起こらなければならないし、そのような民主
化の運動を進めるためにも、朝鮮や中国で同じような民主化の運動
が進められていなければならないという点から発想したもので、そ
れは革命の連帯という立場に立っていました。日本国内では当時そ
のような立場はほとんど無視されましたが、その後民衆の立場に立
つアジア連帯の行動に引き継がれていきます。

 このほか、日本と朝鮮を一つの国にしてしまおうという、樽井藤
吉の「大東合邦論」が注意を引きます。この大東合邦論は、彼がと
なえた主観的な立場によれば、日本と朝鮮とが一つの国になって、
そこで自由民権運動の立場をさらに進めていくという意図によるも
のですが、結果としては一九一一年の韓国の植民地化への道を拓き
ました。
Kenzo Yamaoka
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 アメリカの戦争責任とハルノートの真実

昭和14年12月8日、日本は米国との開戦に至った、太平洋から
東南アジア、インド洋にいたる広大な海洋を舞台とし日本は史上例
を見ない大戦争を戦った、そして4年にも及ぶ「大戦争」は最終的に
昭和20年8月15日、日本の敗戦によってその幕を下ろした、しかし何
故日本は国土の広狭・資源の有無・を無視してまで「日米開戦」に
踏み切ったのか、常識では考え難いがそれらに関係無く日本に開戦
を選択させるべく仕向けたアメリカの『責任』があったのである、
「アメリカが日本に送ったのと同一の文書を他国に送れば非力なモ
ナコ公国やルクセンブルク公国でさえ必ずアメリカに対して武力を
もって立ちあがっただろう」これは東京裁判でのパール判事の言葉
である、勝ち負けを度外視しても開戦を選択せざるを得ない理由こ
そがまさに『ハルノート』である、(正式名称、合衆国及び日本国
間の基礎概略)開戦前夜の昭和16年11月26日アメリカ国務長官
 コーデル・ハルが日本政府に対して通告してきた文書でこれを読
んだ日本国はアメリカからの最後通告と解釈したのである、当時日
本はアメリカ・イギリス・支那・オランダによる対日経済封鎖によ
り石油・ゴム・といった資源のほとんどを供給停止されていた為に
南方進出を真剣に考えていた、東南アジアの国々はほとんど欧米の
植民地である、その国々を独立させ対等貿易を行えば日本に活き残
る道はある、その為にはアジアから欧米の植民地支配を排除せねば
ならないが欧米と開戦できる国力は無い、そんな状況下にありなが
らも日本は日米開戦を回避すべくぎりぎりの条件を提示して日米交
渉の妥結を願った、その条件「甲案」とは

1・ 日支(日本と支那)に和平が成立した暁には支那に展開してい
る日本軍を2年以内に撤兵させる。

2・ シナ事変(日中戦争)が解決した暁には「仏印」(フランス領
インドシナ)に駐留している兵を撤兵させる。

3・ 通商無差別待遇(自由貿易)が全世界に適用されるなら太平洋
全域とシナに対してもこれを認める。

4・ 日独伊三国同盟への干渉は認めない

と言う内容であり更に「甲案」での交渉決裂に備えて日米戦争勃発
を未然に防ぐ為の暫定協定案として「乙案」も用意してあった、乙
案は下記の内容である。

1・ 欄印(オランダ領インド=現インドネシア)での物資獲得が保
障されアメリカが在米日本資産の凍結を解除し石油の対日供給を約
束した暁には南部仏印から撤兵する

2・ 更にシナ事変が解決した暁には仏印全土かた撤兵する。

 要するに日本に対する経済封鎖が解除され石油などの資源が供給
されれば南方に進出する必要性は無くなる、それと引き換えに日本
も全面撤退に応じるという内容である、この事については駐日大使
ロバート・クレーギーが帰国後政府に提出した報告書で「日本にと
って最大の問題は南方進出では無く耐え難くなりゆく経済封鎖を取
り除く事だった」とかかれており日本の南方進出が「領土的野心」
等では無かった事を証明している、東京裁判でアメリカ人のブレー
クニー氏も「日本の真に重大な譲歩は甲案であり、甲案において日
本の譲歩は極限に達した」と言っている、日本側は対米交渉におい
てこれ以上は応じれない譲歩を示したと言う事である、しかしそれ
に対しアメ  リカは11月7日に「甲案」、11月20日に「乙
案」をも拒絶し11月26日に日本が到底受け入れる事の出来ない
「ハルノート」が提出された、ハルノートは以下の文書である。

  1・ 日本軍の支那、仏印からの無条件撤退

  2・ 支那における重慶政府(蒋介石政権)以外の政府、政権の
否定(日本が支援する南京国民政府の否定

  3・ 日独伊三国同盟の死文化(同盟を一方的に解消)

日本に対し大陸における権益を全て放棄し明治維新前の日本に戻れ
と言う事である、江戸時代アメリカに武力で開国を強制的にせまら
れて以来欧米列強に揉まれながらも日本は血の滲む努力の末やっと
対等になりつつあるところで「全てを放棄しろ」である、こんな訳
の解からぬ条件を突き付けながらも経済封鎖の解除には一言も触れ
て無い所などはさすがは「詐欺師の国」アメリカである、日本は生
存権を賭けて日米開戦の道を選択したと言うより開戦という選択を
取らされたのである、資源・物資・大陸での正当な権益・アメリカ
にある日本の資産・これらを放棄しろと言う事は「死ね」と言うの
に等しい事である、アメリカ流の屁理屈で言わせてもらえば日本の
選択した『開戦』という道は自衛手段であり日本には一切の戦争責
任は無いと言えるだろう。                  
Kenzo Yamaoka
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大アジア主義の形成 原田勝正 本学経済学部教授

 このあたりから二番目の問題、二〇世紀に入ってからの日本の進
路と大アジア主義に移ります。

 二〇世紀の初頭に新たに力を得ていったのが、大アジア主義でし
た。私は、「大アジア主義思想」という表題を書いて大変後悔をし
ているのですが、それは大アジア主義ははたして「思想」だったの
だろうかという疑問が次々にわいてきたからです。

表題をつけてからいろいろと調べていくうちに、そこには思想とし
て扱うべきまとまった体系や内容が欠けていたのではないかという
疑問が次々に出てまいりました。しかし、表題をいまさら改めるこ
ともできないので、「思想」という言葉をそのまま使っております
が、大アジア主義は思想というより日本の行動を正当化する粉飾理
論というべきではないのかという疑問を、ぬぐい去ることができま
せん。

 さきほど、外患はくり返されるたびに拡大したと言いましたが、
日清戦争後の「外患」は、新たな利益線中国東北をめぐるロシアと
の対立となって現われました。遼東半島を租借地として手に入れた
途端に、三国干渉によってこれを返さなければならなくなり、すな
わちここで初めてヨーロッパの国、しかもヨーロッパの強国との対
立が表面化します。

 その拡大した外患を処理していくために、ロシアとの戦争を、ア
ジアとヨーロッパとの戦争における、アジア人の立場に立つ戦争と
して意義づける必要がある。そのような要請が大アジア主義を生み
出した基本的な動機ではなかったか。このように見ると大アジア主
義は、前述のように思想というより戦略を正当化する粉飾理論では
なかったのかと考えられてくるのです。

 大アジア主義の成立条件には、すでに欧米の侵略によって支配さ
れてきたアジアのなかで、日本だけが先進的な文明を取り入れ、そ
して同時に古来の固有の伝統的な文明をずっと持ち続けている。
一口で言えば、アジアのなかで最もすぐれた国であるという自負が
、そのような戦争を遂行する使命を持っているのだという使命感に
つながっていたのではないか。その使命感を強調して、ロシアとの
戦争を正当化する粉飾理論が大アジア主義ではなかったのか、いま
私は大アジア主義をこのように考えております。

 それは前に触れた荒尾精などの立場と同じもので、政府・軍部も
同じ立場であったと考えられます。そして現在までこのような先進
意識は残っていて、大東亜共栄圏論がいまでも復活するのはそのた
めと考えられます。しかも、先進意識に加えて、いま述べた「固有
の文明」という意識がそこにはありました。

 例えば岡倉天心の『東洋の覚醒』はその代表ですが、同じ時期に
アジアの危機も叫ばれています。土井晩翠の「万里長城の歌」のな
かの「西暦一千九百年東亜のあらし明日いかに」というような一節
は、明らかにアジアの危機を叫びながら、そのなかで日本の使命を
位置づけていくという立場をはっきりと示しているように思います
。こういった立場に基づいて大アジア主義が強調されました。

 最初から「大アジア主義」という言葉があったわけではなくて、
一九一〇年代の半ばぐらいになってから改めて「大アジア主義」呼
ばれるようになった言葉のようです。そしてこののち、大アジア主
義はアジア諸民族の固有の文化を基盤とし、日本が主導権を握って
推進する解放理論という形をとってまいりました。

 その当時、パン・スラヴィズム[注4] であるとか、パン・ゲルマ
ニズム[注5] であるとか、ヨーロッパにおいてはアングロサクサン
よりも遅れて近代化を進めた地域で、民族を主体とする覇権確立の
運動が展開されました。それが第一次世界大戦に滑り込んでいく時
代のロシア、ドイツの主張を代表したのですが、アジアにおいては
、それと同じような状況のもとで、しかも明らかに日本が盟主とい
う立場をとって、アジア解放を進めるという立場が強調されること
になりました。

 しかし、大アジア主義とは異なる、アジア人としての結びつきを
深める動きがあったのではないか。先ほど申しましたようなアジア
主義というべき、共感や連帯が生まれ、一人ひとりの人びとの結び
つきのなかに新しい動きが起こってきたのではないかということも
考えなければいけないと思います。

 例えば、後ほど伊藤泉美先生からご報告があるかと思いますが、
一九世紀末前後から中国人たちが日本に来て、一つのまとまった社
会をつくりあげていくとき、条約改正によって日本が不平等条約か
ら解放されて、居留地は消えていきましたが、欧米人と違ってアジ
アから来ている人たちは制約を加えられます。そういった人びとと
日本人がどのような形で結びつきをつくっていったのか。これは私
たちがこれから検討しなければならない大きな課題ではないかと思
います。

 日本国内だけでなく、上海とか北京とか、アジアのさまざまな地
域のなかでお互いにつくり上げられていった関係がたくさんあるは
ずで、これからの課題として、これをもっと明白に解析する必要が
あるのではないかと思います。それは日本のアジアに対する侵略と
いう問題ともかかわってきて、非常に大きな問題として残されてい
ると思います。
Kenzo Yamaoka
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件名:欧米の植民地支配は覆したが  
【敗戦からの教訓】 岡崎久氏の彦提言

欧米の植民地支配は覆したが 
(産経新聞掲載) 
 人間でも国家でも、失敗の経験は貴重なものです。

 大失敗は滅多(めった)にするものでも、するべきでもないのです
から、それから教訓を学び取らないテはありません。

 しかし、戦後の日本が学んだのは、戦争の悲惨さと、もう戦争は
嫌だということだけで、あれだけの戦争をしながら、これほど学ば
なかった国も少ないと思います。

 実は、敗戦後幣原喜重郎は、敗戦の原因究明こそ、日本再建にと
って重要課題だと考えて、総理自らが、会長となって戦争調査会を
設置しました。ところが、対日理事会が、会に旧軍人が参加してい
ることを理由として、これは次の戦争に負けないよう準備している
のだと非難し、幣原は軍人の参加なしでは意味がないと言いました
が、結局は中止となった経緯があります。その後は日本人の手によ
る調査は行われず、軍事裁判のなすがままとなりました。

≪ミッドウェーが転機≫
 戦争を振り返ってみると、開戦後わずか六カ月後の一九四二年六
月のミッドウェーの敗北が転機となり、その年秋のガダルカナル戦
で敗れてからは、もう勝機はありませんでした。

 ミッドウェー攻撃の戦略は、山本五十六の真珠湾攻撃の延長線の
上にあります。日米の戦争は、小兵の力士と小錦の相撲のようなも
ので、立ち会いに奇襲をかけて相手が慌(あわ)てているうちに次々
に攻め続ける以外に勝機はなく、相手が体勢を立て直して正面を向
いてきたら、もう勝ち目はないという考え方です。日米戦争には反
対だが、やれと言うならばこれしかないという山本の連続決戦思想
で、それなりに明快な考え方ではあるのですが、実際は二度目の攻
撃で足を滑らせてしまって、それっきりになってしまったのが、戦
争の経緯です。

 戦術的な失敗の原因は、どこかに緒戦の勝利のおごりというか、
一挙一動に国の運命がかかっているという徹底した緊張感−−山本
の戦略ならば、当然そうあるべきものですが−−の欠如があります。

 暗号が解読されていたのは、彼我の能力差でしかたないのですが
、索敵をもっと丁寧にやっておけば、十分勝つチャンスがありまし
た。そして、攻撃機を先に発出させて、帰着機の収容を後にすると
いう、緊張感があれば当然そうしたであろう措置を怠ったため、敵
の爆撃で全艦火の海になるという、僅(わず)かな手緩(てぬる)い措
置の積み重ねが大破局を招いたのです。

 そして、ガダルカナルの敗戦の主因は、ミッドウェーの敗戦がも
たらした戦略的な環境の変化を直視せず、むしろこれを秘匿(ひとく
)して、惰性的に行きがかりの作戦を続けたことにあります。そして
、結局はガダルカナルを諦(あきら)めて、陸軍二万の白骨を残して
撤収しますが、その間に精強を誇ったラバウル海軍航空隊は二千余
機を損耗(そんもう)してしまい、その後は敗戦まで、日本側は制空
権なしという近代戦では絶望的な戦いを強いられます。

 その後米軍は、二手に分かれて攻め上ってきます。北はニミッツ
の率いる海軍、海兵隊で、南洋群島の島づたいに、四三年夏には、
サイパン、グアム、四四年三月には硫黄島まできます。

 南のマッカーサーの部隊は、ニューギニア北岸を西進して、航空
戦力のないラバウルをバイパスして四四年十月にフィリピンに上陸
します。

 連合国の兵力、資材の15%が対日戦に投入されましたが、それが
また半分ずつに分かれて攻めてくるのに、どの戦場でも日本側は劣
勢でした。とても量的に太刀打ちできる相手ではありませんでした。

 何とか別の戦い方があったでしょうか。真珠湾攻撃という戦略的
失敗は米国の世論を完全に敵にまわしてしまいましたが、残る戦い
方があるとすれば、それは米国の世論が、英蘭の植民地帝国を守る
ための戦争には冷たかったのを利用することぐらいだったでしょう
。その意味で重光葵のアジア解放政策は対米世論対策としても正攻
法でした。

 ミッドウェーで負けた後知恵ではありますが、その前に海軍が考
えていたコロンボ占領作戦をしていれば、どうだったでしょうか。
少なくとも東インド洋の制海権は、日本が取れたでしょう。

≪別の戦い方を考えると≫
 緒戦の勝利後は、インド中反英運動に沸き立っていたので、もし
日本が力をインドに向けていたらば、その結果は予断を許さないも
のがあった情勢でした。また、ミッドウェーの前には、汪兆銘と山
東、山西、広西の各軍閥との話し合いも進み、重光の新政策を基礎
に、重慶政府との接触も図られていました。

 もし、ベンガル地方が解放されると、アジアには地殻的変化が走
り、そこで中国の態度が変化すると、もう日米戦争の意味がなくな
ります。しかし、ミッドウェー後、こうした全ての状況は崩れます。

 いずれにしても、日本は早く負け過ぎました。ナポレオンの栄光
は十年でしたが、日本はわずか半年でした。日本人が偉大な国民と
なった短い時期はあったのですが、歴史と日本人の心の中に、それ
を刻(きざ)むには、あまりに短い期間でした。

 ウォータロー後三十三年で、欧州のアンシャン・レジームがこと
ごとく覆(くつがえ)ったように、大東亜戦争後三十年で、アジア、
アフリカの欧米植民地支配がことごとく覆ったのは歴史的真実なの
ですが…。
Kenzo Yamaoka
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件名:失われつつある民族性と神国日本  
以下の文章 たねやす氏のです、参考に送ります。
私の感想著者は右翼的な人だと思う、決して正しいとは思えない。
しかし今の日本、何か忘れているような気がしたので取り上げて見
た。
        失われつつある民族性と神国日本
大和民族は元来希に見る「戦闘民族」で建国以来戦い続けてきた、
しかしその一方で「精神文化」を育みバランスを保ち「義」を重ん
じ「勇」を体で表し「情」を常とし「潔」を勝ちとし独自の美学を
持った優秀な民族である、我らの御先祖様達が育み守ってきた民族
性が崩壊しつつある、終戦時より文化、伝統を持たぬ雑人種に自国
の精神文化、伝統をことごとく破棄、否定され最悪な新しい価値観
を植えつけられ今まさに精神的にさまよえる民族となってしまい先
祖を敬わず親を親と思わぬ輩が増え、本来公僕であるはずの政治家
は私欲に走り民は大和民族の誇りを忘れ天皇陛下に忠誠を誓う者も
希になってきた、大和民族は天皇の民であり日本国は神の国と言う
のは当たり前の事です、そもそも「神の国発言」で世間は騒ぎまし
たが日本の「神」と外国の「神」はかけ離れていますキリスト教が
日本に来た時「イエス、キリスト」を表す言葉がなく「神」と訳し
てしまいそれ以来「神」でとうしてきた為日本の「神」の真意が薄
れてしまい誤解を招くようになったのです、天皇を神と言うのは正
しいことで2660年もの間一国を治めるは世界に類無く又諸外国の王
家は権力を持つと私欲に走り人心を掴めず民衆に滅ぼされる。

しかし天皇は私欲なく常に人心を掴み大和民族の頂点に在り臣民と
共に2600年歩んできた業績はまさに神業であるといえるでしょう、
大和民族本来の民族性を取り戻し先人達の「華」の在る活き方を学
べば余計な怪しい宗教に惑わされる事も危機に陥り挫折することも
ないでしょう。国家全体が民族性を失った今、中国、韓国、など諸
外国から内政干渉を受けています、歴史教科書問題などその例であ
り湾曲した事実を国民に押し付けています、教師自体が歴史認識が
非常に浅く国歌は歌わず誤った歴史を堂々と生徒に押し付けます、
国賊教師は国旗、国歌が制定された今でも大勢います。

前に私の次男の小学校の入学式に行った際、約半数の教師が国歌を
歌わず、着席したままアクビをする不届き者までいる始末に愕然と
しました、その後暇をみては学校へ足をはこび国賊達相手に討論を
重ねた末2年後には国歌を歌わず着席する者は3名まで減りました、
具体的に「学校では校歌を生徒に歌わせてなぜ自分たちは会社(日
本国)の歌を歌わないのか」「集団生活を教える為に校歌を歌わせ
自分たちは国家と言う集団の一員なのに何故国歌を歌わないのか」
など質問し又国賊達のヘリクツとも言える答えに反論し又根拠の無
い下らない質問にも細かく答え成果を上げて来ました、その中でも
一番どうしようもないのが「まわりの先生が歌わないでいるのに私
だけ歌う事は出来ない、もし歌えば私はのけ者にされる、教師とし
て学校の中で生きていく為には他の先生に合わせて行かなくてはや
っていけない」なんてふざけた話もありました、教師の中でイジメ
がある様では生徒の中でイジメが無くなるわけありません。

この素晴らしい国に生まれた素晴らしい民族として国賊教師全員が
大声で国歌を歌えるよう活動中です、みんなで国賊をこの国から一
掃しなければなりません日本国、大和民族の明るい未来は黙って待
っているだけじゃやって来ません、個人個人が小さな事でも活動し
てこそ価値があるのです。

中学校歴史教科書は広島への原爆投下についても明確な記述は皆無
でその被害者のほとんどが一般市民である事すら書いてありません
、これは「国際戦時法」に明らかに違反した非戦闘員への虐殺であ
り国際法で裁かれるべき事です、長崎に至っては当初の目的地の視
界が悪く投下不可能と判断するも「海上投棄するのが惜しく帰り道
の長崎に落とした」と言う始末、こんな非道な事実を捻じ曲げアメ
リカを正当化し自国を悪とする内容です。

中学校だけでなく小学校の教科書までもが汚染されてます、その内
容は読むに堪え難い内容です古代から始まり昭和まで全てにおいて
自国を非難、否定しアメリカなど諸外国を擁護する内容です、私の
息子もその教科書で勉強してましたが、最初に担任の先生と校長に
「日本史に付いては私が教えるので嘘を教えないで欲しい、もしテ
ストで他人と違う答えを書いてもXにするな」と言い聞かせ又教科書
の間違いの記述は私が赤ペンで全て訂正し先生方に見て確認して頂
き納得の行かない部分は資料を集めそれを見せて解かるまで説明し
対処しました、結構話せば解かってくれるものでした。

世のお父さん方こども達に間違った教育を受けさせるのはもう終わ
りにしましょう、日本の教科書は待ってるだけじゃ良くなりません
、今のままでは「やる気のない子」「責任感の無い子」「根性の無
い子」ばかりになってしまいます自らが真の歴史を学びそれを子供
達に伝えましょう、それが大人の務めであり日本人の今しなくては
いけない事ではないのでしょうか。                         
Kenzo Yamaoka
============================== 
件名:日韓関係の障壁  
日韓関係の障壁となっている歴史問題とは、どのような性質のもの
で、どこから生まれて来るものなのだろうか。 

歴史というのは、過去のある「事実」が積み重なってできるもので
あり、本来ひとつしかないはずである。しかし、E・H・カーの名著
『歴史とは何か』に、次のような一節がある。「歴史上の事実は純
粋な形式で存在する物でなく、また、存在し得ない物であり、いつ
も記録者の心を通して屈折してくるものだ。 
したがって、私達が歴史の書物を読む場合、私達の最初の関心事は
、この書物を書いた歴史家であるべきだと思います。」 

つまり、我々が歴史を語る時、それは自分の立場からのある歴史の
一面しか語っていない場合があるということだ。 

それは日韓にもいえる事であって、複雑な関係を経た日韓の歴史観
には、特に大きな差異が存在している。 

日本の歴史観は、戦前の史学が「優秀で純粋な日本民族」イメージ
形成に利用され、国粋主義的な国民動員に貢献してしまった反省か
ら、次のような特徴を一般に持っているとされる。 

一つ目は学問の自由、言論の自由を何より貴重な物とし、国家、政
府による歴史への介入を強く拒む。 

二つ目は通俗的「物語」との間に強い緊張を感じ、むしろ非常に実
証主義的な厳密な史料検証を重視し、民衆が好む人物像、時代像の
虚偽を暴いて客観的な「事実」を示す事を学問の面目と考える。 

一方、韓国の歴史観は、長らく民族主義史学が圧倒的主流であった。 
韓国の民族主義を強化し、日本色を払拭する事が学問であり、独立
を失った痛みと「日帝」への抵抗を強調し、唯一の「正史」を国が
定立した。 

つまり、国家、政府と歴史観との間の緊張感は日本ほどなかったの
である。しかし、ここで断わっておくが、私はどちらの歴史観が正
しいかまたは誤っているかを言うつもりは毛頭ない。 

どちらとも自然な考えで、どちらとも問題点はあると思われる。重
要なのは次の事である。 

日本から見れば、政府の定める「歴史」を愛国精神培養として使う
韓国の姿勢は、背景は違うとしても「かつての日本の失敗を今韓国
がやっている」との印象から、違和感拒否感があった。他方韓国か
ら見れば、十年も二十年もかかって史料を検証し、ようやく一つか
二つの学問的発見がある、しかもなお良いと悪いを区別できない、
また国が「正史」と認めるわけでもない、 
という日本の行為は理解しにくかったという事実である。 

以上のような日韓における歴史観の違いが摩擦を生み、歴史問題の
源流になっていると思われる。現在では大分変わってきてはいるが
、しかし、昨今の歴史教科書問題を鑑みればそれは納得できるだろ
う。 
よってこの歴史観の差異を減らして行けば歴史問題の解消につなが
るのではないか。 
Kenzo Yamaoka
============================== 
件名: 若者たちに贈る「本当の東京裁判」  
 近現代史研究家 松川雅好
裁判の目的
 六月四日、キーナン主席検事による検察側冒頭陳述が開始された
。法廷九日めに当たる。内容は英文四万字にのぼる膨大なもので、
キーナンは朗読するのに三時間を要した。

「東京裁判は、歴史上重要なる裁判のひとつである。なんとなれば
、この裁判は世界の平和と安全に重大なる効果をもたらし得るから
である。我々がこの裁判を行う目的は正義の正しき執行であり、我
々の意図するところは、侵略戦争の惨害を防止するにあり」

 彼は東京裁判の重要性を述べる。赤ら顔の彼は、傍聴する人々に
向かい自信満々で陳述を行った。

「各被告は本裁判の合法性に対して意義を申し立てているが、これ
は、文明の破壊を防止せんとする文明国の能力に対する、明らかな
挑戦である」

 管轄権の問題においても文明を持ち出し、肩透かしの技を披露す
る。日本は文明国でないというのか。キーナンは、自分が文明国を
代表する尖兵であるがごとくふるまう。

 しかし、彼もアメリカを代表する検察官。戦争の個人責任を問う
この裁判が、先例のないものであることを率直に認めた。彼は個人
責任を裁く理論の根拠を国際法より見出そうとして、かなり研究し
たようだ。でも、徒労に終わったのであろう。率直に認めざるを得
なかった。

 キーナンは、法律論では勝てないと悟ったふしがうかがえる。
そこで、文明に対する挑戦、文明的理想の極致、世界の良識などに
訴え、本裁判は法を超越しなければならない、と勢い込んだ。

 ここは裁判所である。法廷で論議を行う者が、法を軽視する。ま
いった! と降参したも同然だ。でも、強力な味方がいる。マッカ
ーサーであり、公正であるはずのウエッブその人だ。

 加えて、六月十三日から検事側立証が開始された。これは、一般
・満州・中国・ソ連・日独伊・太平洋・残虐・個人の八段階に分か
れる。各段階のはじめ、その段階だけの冒頭陳述が述べられた。検
事側は、こてんぱんにこきおろす。

 まず一般段階、戦争準備段階といった方がわかりやすい。これは
、被告たちが検事側のいう、不法な侵略戦争を行うにあたり、その
全期間において行った政治組織の変革、及び宗教・教育・宣伝等に
よる軍国化の実態の糾明である。

 満州段階は、被告人らの世界支配の野望を達成するため、昭和六
年満州に対して侵略の牙を伸ばしたとする、満州事変を論ずる。
ソ連につかまった、前満州国皇帝溥儀が証人として出廷。彼は旧恩
をかなぐり捨て、偽証を行い生き恥を天下にさらした。

 中国段階は支那事変関連。次にソ連段階。
 なぜソ連? 日ソ中立条約を踏みにじり、老若男女を問わずおび
ただしい同胞を虐殺・拉致したのは彼の国だ。おかど違いもはなは
だしい。裁かれねばならぬのは、スターリンの手先どもだ。盗っ人
猛々しいとはまさにこのことである。

 恥の上塗りをするのは、ゴルンスキー検察官。検事側は強引に、
日ソ協定済みのノモンハン事件・関東軍特別大演習を持ち出した。

 日独伊段階は三国同盟関連。残虐事件段階は、俘虜虐待・バター
ン半島死の行進・南京虐殺事件などを論証する。

 最後の個人段階は、二十八名の各被告がいずれの訴因について責
任があるかを論証する。
 (思想家・大川周明は、東條の頭をたたくなど奇行を演じ起訴か
らはずされた。元外相・松岡洋右は六月二十七日死亡。開戦時の軍
令部総長・永野修身も二十二年一月五日亡くなった。よって実際は
二十五名)

 検察側の立証は、昭和二十一年六月十三日に開始され、翌二十二
年一月二十三日終了。
この間受理された文書は、二千八百八十通。証人は、百九名にのぼる。

四日後の一月二十七日、弁護団は公訴却下の動議を行った。この
dismissは、検事が立証し得なかった事実を、起訴状からの
取り除きを要求する訴訟手続きである。

が、ウエッブ裁判長は、三日間に渡る公訴却下の動議を逆に、正当
なる理由なし、としてすべて却下した。十把一からげ、すべて、で
ある。

 検察側の立証に続き弁護団による立証が、二月二十四日、清瀬弁
護人の冒頭陳述を突破口に開始された。弁護団も検察団にならい、
八段階に分けて進める。

 立証は約一年続き、翌二十三年二月十日終了。この間に提出され
た文書は千九百八十三通、証人は三百十名にのぼった。

 検察側立証・弁護側立証、合わせて約一年八ヶ月。その期間中
ただ一度だけ、被告自らが証言台に立って弁明できる場面があった。

 すなわち、個人反証段階陳述の幕がおりたのは二十二年九月十日
。自分の立場を、ただ一度だけ証言できる。最初に立ったのは、元
陸相・荒木貞夫である。

「被告の共同謀議不参加の立証です。検事は、荒木が共同謀議に加
わり侵略思想の扇動者だったと言いました。しかし荒木は、盲目的
愛国者でも侵略主義者でもなく、純正日本主義たる皇道の信奉者で
あり、平和主義者・人道主義者なのであります」

 弁護人、ローレンス・マクマナスは述べる。冒頭陳述は、検察側
の主張に真っ向から立ち向かい法廷を驚かせた。検察側もとまどい
を見せる。荒木は、背筋をピンと伸ばしたまま。

 被告席の重光は荒木被告をスケッチし、法廷個人段階筆頭荒木大
将証言台に立つ威風堂々たるものあり、と書きしるした。精神主義
者・荒木大将の面目躍如の感あり。

 マクマナス弁護人は、共同謀議の存在を真正面から否定した。

 被告たちに課せられた検察団告発の、平和に対する罪、人道に対
する罪、を犯そうという共同謀議が存在した件について、元蔵相・
賀屋興宣被告は述べる。

「ナチと一緒に挙国一致、超党派的に侵略計画を立てたという。
そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、
北だ南だと国内はがたがたで、おかげでろくに計画もできず戦争に
なってしまった。それを共同謀議などとはお恥ずかしいくらいの
ものだ」

 台所をあずかる責任者の本音だろう。事実、被告たちのなかには
起訴されるまで、お互い一面識もない者もいたのである。面識のな
い者に謀議など存在しない。

 二番めは、陸軍大将・土肥原賢二元奉天特務機関長。でも、彼は
証言台に立たなかった。土肥原をはじめ証言台に立つのをこばんだ
被告は九名。特に広田弘毅は、確信をもって拒否した。

 彼の弁護人ディビッド・スミスは、ウエッブが証人に対する尋問
にたびたび介入するので、裁判長の不当なる干渉と抗議。干渉する
なと忠告した。ウエッブは取り消しを求めたが、スミス弁護人は拒
否。頭にきた裁判長は、彼を審理から除外すると一方的に通告。
 スミス弁護人は、法廷から憤然として去った。

 ウエッブはスミスの後任、日系二世のジョージ・山岡に対しても
冷淡な態度で臨む。山岡は、広田の弁護人となる許可を要請した。

 ウエッブは、キツネとタヌキになる。広田のために何をするので
すか、スミス弁護人と同じことをまたやるのですか、証拠の提出で
すか、証人の喚問ですか、とまくしたてる。
 山岡に答える隙すら与えない。尋問の妨害を? それとも証人の
再尋問をするのですか、異議申し立てを? 冷淡かつ一方的にまく
したてた。

 山岡弁護人は、その冷たさにあきれはてる。じっと傾聴する広田
も、あきれはてたことだろう。マッカーサーもよくもまあ、こんな
品位を疑われても仕方ない裁判長を任命したものだ。いや、起訴し
た側にとっては、好都合な人物なのかもしれない。

「もう一度傍聴したら、必ず病気になる」

 メルボルン大学のマクホン・ボール教授は、感想をもらす。

「私は六等弁護士ではない。だから、ショーウィンドーのドレスに
はなれないよ」

 全米に名の響いた名弁護士・ガイダーは、日本を去る時述べた。
こんな不当な裁判の飾り物にされてたまるかと。

「東京裁判は、報復とその宣伝にすぎぬ」

 元ドイツ大使・大島浩被告のオーエン・カニンガム弁護人は、
シアトルで開催された全米弁護士大会で正直にしゃべった。ウエッ
ブは、東京に戻ったカニンガム弁護人の権利を剥奪。スミス弁護人
同様、正直者のカニンガムを東京裁判から追放した。一事が万事で
ある。

 三番めに証言台に立ったのは陸軍大佐・橋本欣五郎。四番めの陸
軍元元帥・畑俊六以降、元首相・平沼騏一郎、同広田弘毅、元内閣
書記官長・星野直樹らは証言台に立たなかった。
(経過を詳しくつづるのは苦にならない。しかし、字数が膨大にな
るのと、細かすぎて焦点がぼやけてしまう恐れがある。作品の趣旨
、もっとも重要なテーマ、今次の大戦に突入せざるを得なかった責
任者・当事者の証言にとどめることにする)

 なにゆえ米英と戦争をしなければならなかったのか。開戦当時の
責任者、嶋田繁太郎元海軍大臣は言う。

「余は、自己の有する全知全能を傾けて、日米開戦回避に努めた。
昭和十六年十一月二十六日のハル・ノートは、まさに青天の霹靂と
いうべきもので、この米国の回答は強硬不屈にしてかつ冷酷であっ
た。要するに、我々の示した交渉への真摯な努力が、いささかも認
められていなかったのである。

 ハル・ノートの受諾を主張した者は、政府部内にも統帥首脳部に
も一人もいない。その受諾が不可能であるばかりでなく、本通告が
我が国の存立をおびやかす、一種の最後通牒であると解せられたか
らである」

 嶋田は、自らの心情を訴える。当時、我が国の指導的立場にあっ
た人々の気持ちを、集約したものといえる。ハル・ノートの概要は
、明治以来、我が国が築きあげてきたいっさいの対外権益を放棄せ
よという、まことに過酷なものである。日本よ、日清戦争以前の明
治維新の頃に戻れとのこと。愛国者なら誰だって、ははあ! あい
わかり申し候、と承服できるものではない。

 アメリカよ、メキシコよりかすめ取ったテキサスやニューメキシ
コ州をメキシコに返せ。フィリピンをはじめとする植民地を独立さ
せろ。無論ハワイもだ。虐殺の限りを尽くしたインディアンの土地
を彼らに返せ。と突きつけられたらどんな反応を示すだろう。

 承知すまい。いや、烈火のごとく怒ると想像できる。ハル・ノー
トは、立場を逆転させるとわかるように、独立国に対する不当ない
やがらせをも含んでいたのである。嶋田は 続けて訴える。(続く)
1、開 廷

松川雅好氏 昭和二十七年(一九五二年)、長崎県に生まれる。
福岡県立香椎高等学校卒業後、明治大学政経学部に入学。在学中、
代議士秘書に従事。その後、ダイレクト・セールスの世界で営業マ
ネージャーを経験。現在、情報処理企業で採用および研修を担当。
かたわら近現代史の研究に取り組んでいる。小説も書き、著作に『
のぞみ』(WAVE出版)がある。メールアドレスは 
www.2772@muh.biglobe.ne.jp
産業経済新聞社・産經・サンケイ)
Copyright2000,TheSankeiShimbun. 
Kenzo Yamaoka
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件名:対日参戦に向けて  
暫定協定案構想
 今まで不可能とされてきた難解な暗号も、新型の暗号解読機パー
プルによって、日本の暗号はことごとく解読されてしまった。それ
は日本がベルリンなど、枢軸国にあてた外交文書はもちろんのこと
、11月5日の御前会議でまとめ上げた「帝国国策遂行要領」、い
わゆる日本の最終提案である「乙案」、「甲案」も例外ではなかっ
た。日本の機密文書を傍受し、解読、そしてそれを対日交渉、また
は対日案の作成として用いられ、これらを一貫として「マジック」
と称された。
 平和成立と同時に25年を目処として日本はインドシナから撤退
するという「甲案」、日本はインドシナ以外の所には武力進出しな
いという代わりに、アメリカは「オーラル=ステートメント」以前
の状態に戻すという「乙案」を妥協策として作成し、更に開戦時期
を12月上旬とし、一方、対日交渉を継続させ、「乙案」はぎりぎ
りの線で出す。そして12月1日までに交渉が成立すれば、武力発
動を中止する。
 既にこのことは、日本がアメリカに交付する前に「マジック」に
よって傍受していた。そしてアメリカは日本の手札を見ながら案を
作成していったのであったそしてそれが事実上の最後通牒となる
「ハル・ノート」であった。
 日本が「乙案」、「甲案」を作成して対米交渉を練っている時に
、アメリカも対日交渉案作成に試行錯誤していた。もちろん「マジ
ック」の情報もあるだろうが、当時、アメリカの内部には開戦を急
ぐ要素と時間を得ようとする要素があり、更に駐米大使グルーとい
った親日派、そして国務省政府顧問ホーンベックといった心中派な
どによって内部が分裂していた。そしてこの様な要素から色々な対
日案が生まれていったのであった。
 「マジック」情報によって11月5日の御前会議で決められた
「帝国国策遂行要領」を知り、日本の交渉のデットラインが11月
25日であることを知り、ルーズベルト大統領は日本の作戦意図を
知った上で、休戦案を陸軍長官スティムソンに示した。ルーズベル
トの休戦案はこの様な者であった。
 「6ヶ月
 (1)米国は経済関係を再開し、今は若干の米、後は更に増加
 (2)日本は、印度支那、満洲国教、あるいは他のいかなる南方
   (蘭、英、またはタイ)にもこれ以上軍隊を送らない。
 (3)もし米国がヨーロッパ戦争に参加しても、日本は三国同盟
    の発動をしない。
 (4)米国は日華の交渉を仲介するが、会談には参加しない。
   後に太平洋協定。」
 スティムソンは大統領の休戦案を見て、この様に証言した。
 「彼は、もっと時間を我々に与えるものについて、考えがあった
。もしその間に日本と中国が取り決めをしなければ、我々は一同の
基礎に基づいて進むことが出来ると示唆した。私は、個人的に、
この様な基礎に基づく休戦案は承服できなかったので、反対だと彼
に言った。」
 スティムソンはこの様に証言することで失望の意を表した。彼に
よれば「極東」におけるアメリカの増強を阻止し中国を失望それる
ということであった。つまりこれは「日本に有利で中国に不利」と
いうことである。故に彼は反対したのであった。
 ルーズベルトのこの様な暫定協定案を作成した意図は、スティム
ソンが述べた「6ヶ月の軍事行動を停止し、その間に日中両国が平
和を図るよう提案してもよい」ということから来ており、その態度
は「座して待つ」であった。
 一方国務省の極東局部ではバレンタイン、シュミット等の専門家
達が集まり、「全太平洋に関する包括的な協定は至難であるとして
も、何らかの仮の、または一時的な取り決めが必要である」と、
ハルに上告したのであった。それはこの様な案であった。
 「(一)〔国際原則の抽象的提示〕。
  (ニ)原則実現の方法。
  (1)アメリカは日中に即時交渉開始を提案(アメリカは日本
     が出す条件を聞かない。交渉中も対日経済援助継続。
     交渉決裂すれば全面的に中国援助。日中協定がてせきれ
     ば日中再建に全面的援助)。
  (2)日本は日中交渉中の休戦を中国に提案。
  (3)交渉中アメリカは対中国軍需品を停止。
  (4)日本は、交渉中に中国・仏印の兵力、軍事物資を増強し
     ない。
  (5)日中協定が成立すればアメリカは日本と、戦略物資を除
     く通商関係回復交渉に入る。(平和生活必需品供給は即
      時再開。その他の対日通称の回復は日本の中国・仏印
      撤退の度合いに比例。)
  (6)日米は太平洋で軍事攻撃を行わない。
  (三)約束。
  (1)相互約束。(a)四原則支持。(b)太平洋におけける
無差別原則に基づく貿易と資源獲得に強力。(c)力による政治的
経済的拡大を行わない。
  (2)日本の約束。(a)日中戦争後に仏印撤兵。(b)中国
・満洲におけるカメリカ人の生活活動を直ちに回復させ始める。
  (3)アメリカの約束。日本が約束を果たせば、経済的制裁を
変更・廃止。」
 これについてハルはこの様に述べている。「その提案は、他の案
より、会談をいくらか長く続かせる基礎を供するかもしれないし、
もし日本が受諾すれば我々の原則に矛盾しないような一致に達する
かもしれないと期待される。」
 ハルは国務省の立場ということもあって、これに強く期待を寄せ
ていた。そして極東局案の趣旨は「米国が、日華に、彼等の対立の
平和的解決のため、直接友好的交渉にすぐ入れるよう提案する」こ
とであり、そして休戦を伴う間にアメリカは中国に対する軍事援助
を中止することを内容としていた。またこの案はルーズベルトが打
診した案を具体化したものであった。
 更に15日になってホーンベックが「90日間休戦協定。日本は
仏印兵力を1941年7月27日現在に減少し増強しない。アメリ
カは日中に交渉を提案。対中国援助は継続。
 この提案をこの提案を公式外交機関に行い、そして日本の修正要
求は受け付ない」という意見を書いた。
 そして翌日の16日には極東部で「協定の要点」を作成したので
あった。その内容は次の通りである。
 「(1)日本は攻撃をやめる(満洲、中国、仏印、タイ、マラヤ
、その他)、その代わりアメリカは対日石油禁輸を6ヶ月間緩和。
  (2)6ヶ月間資産凍結を廃止。
  (3)15日に野村に示した経済政策。
  (4)日本が攻撃に出れば協定は自動的に失効。」
 しかしこの案は日本に不当に役に立つとして止められたが、後の
仮条約案、いわゆる暫定協定案の基礎となった。
 また極東部で17日と18日に「『日本の面子を立てながら日本
を枢軸国から離す』ための暫定協定補足案『若干の太平洋領土と
日本の船舶を交換する案』すなわち『(1)日本は樺太、ニューギ
ニア、トンキンを購入、(2)船舶で払い、(3)アメリカは資金
援助(領土提供国が得た日本船舶購入)』」をハルに提出したので
あった。
 ルーズベルトの6ヶ月休戦案、極東局案は後の仮条約案の基の台
を成しており、それらは11月21日から22日にかけてハルが作
成した仮条約案の基礎を成していたのである。そして国務省を通っ
たときにはひどく改訂され、休戦機関は6ヶ月から3ヶ月となり、
また仏印の撤兵もかなり制限されてしまった。では仮条約案の内容
はどの様なものか。次の通りである。
 「(1)日本は、南部仏印から兵を撤兵する。北部仏印の兵力を
2万5千(7月26日の兵力)に減少する。
  (2)アメリカはオーストリア、イギリス、オランダ、に対し
て、同様の手段をとる様に勧める。
  (3)日本と中国の取り決めは、平和、法、秩序及び正義の原
則に基づくべきとするアメリカの基本的立場を主張する。」
 これによって日本の受け入れるチャンスは更に狭められ、難しく
なったものの、ハルに言わせれば「たとえ日本が暫定協定案を拒否
したとしても、私達の暫定協定案提示が最低限見積もっても最後の
最後まで平和に対する私達の関心を見せるだろう」ということであ
り、また「仮にもし暫定協定案の実行が他の諸問題の解決により一
掃促進すれば日米両国間の協定成立によって私達の対日石油は数を
増し、物資の輸送が更に進んだものである。」と、言うことである
。それでも完全に受け入れられないにないにしても、ハル自身「日
本が暫定協定案を受け入れる可能性は非常にわずか」であることを
認めていた。
 そして仮条約案が「暫定協定案」としてまとめられ、ルーズベル
トに提出されたのは11月24日であり、しかしそれは決して日の
当たる場所に出ることはなかったのであった。
 それぞれの利害が伴った暫定協定案が外に現れることはなかった
のは中国の強い撤回要求であった。そして日本に正式に交付された
のは、対となるもう一つの案「基礎的一般協定案」であった。基礎
的一般協定案は財務省内で作成されたが、しかしそれはアメリカ国
内だけではなく、国外の利害関係も含まれているのであった。これ
については、次回詳しく説明することにする。
 アメリカ国内だけで見ると対日交渉をどの様に進めていくか、お
互いの意見がぶつかり合い、結果生まれたのは暫定協定案であった
。政府内部では様々に対日案が考えられていたが、明確な「対日政
策」、または「極東政策」というものがどの様なものでだったのか。
 日本が日露戦争後、ソ連以上に脅威を与える国として、アメリカ
を仮想敵国として捉えてた様に、アメリカもまた日露戦争後に同じ
様に捉えていた。
 いわゆる「オレンジ計画(Orenje Plans)」である。そして日本
を仮想敵国とする「オレンジ計画」は、後々「太平洋戦争」まで受
け継がれることになったのであった。

オレンジ計画
 1898年の米西戦争のアメリカの勝利は、帝国主義政策として
出遅れた「極東進出」の足がかりを掴んだ。しかし、日本の日露戦
争の勝利は、驚きを超え、世界に警戒心をもたらした。もちろん、
それはアメリカも同じことであった。そしてそれはアメリカ中国進
出のために、1899年から始まった中国に対する門と門戸開放政
策を脅かすものとして見ていた。
 そこで対日政策及び対日戦略として考案されたのが「オレンジ計
画(Orenje Plans)」であった。オレンジ計画の概念は、「日米は須
磨のところ友好を保っているが、いつの日か二国間戦争が勃発する
だろう。その開戦の根拠は日本は土地、人、資源の支配のために領
土各代政策を取り、アメリカは西欧勢力の守護者となり、民族の自
決と貿易の自由を重んじるからである。」であるというものであっ
た。
 ジョン=ヘイの門戸開放宣言後、中国市場進出としてアメリカは
1905年の鉄道王ハリマンによる満鉄買収計画を機に、1909
年には国務長官ノックスによる満洲鉄道の中立化提起、1910年
及び20年における対中国国際借款団の結成をリードするなどして
取り分け中国には強い関心を寄せていた。また第一次世界大戦後は
ワシントン体制によって中国における領土保全、門戸開放を認めて
日本の拡張政策を制限した他に、蒋介石の国民政府を支持し、満鉄
平行線建設に投資するなど、日本の中国、満蒙政策の前に立ちはだ
かっていた。
 また「満洲」という地において、日本、中国、ソ連という国々が
狙いを定めていた。日本は「満洲国」という傀儡国家の建国によっ
て満蒙領有を図った。中国は清王朝の流れで「満洲」の領有権を主
張した。そして悲恋はクリミア戦争の時からの南下政策によって「
満洲」を虎視眈々と狙っていたのであった。そして「満洲」という
市場に魅入られたアメリカもまた「門戸開放」を掲げて、その内の
一国として加わろうとしていたのであった。それらの国々とって「
満洲」はいつ、どの国が手中に収めてもおかしくない、事実上の「
空白地」であった。そとてここに一つの「地理上の勢力均衡
(Geographic barance of Power)」が形成されていたのであった。
 またアメリカにとって中国を要したのは中国という市場だけでは
なく、「『極東』における代理人」を必要としていた。アメリカに
とって地理的にも、保持している利益の点からしてまたいざという
時の犠牲の大小にしても「真の『極東』の勝者」ではなく、日本や
それ何は到底及ばなかったのである。
 オレンジ計画は、対日戦略としては完璧なまでの作戦であった。
それは後々の世界大戦を想定したレインボープランへと受け継がれ
ていったが、「太平洋戦争」において日本の日露戦争勝利から練り
に練っていたこの作戦は大いに活躍しミッドウェー開戦、沖縄戦、
更に日本の真珠湾奇襲攻撃ですら想定された作戦であり、想定され
た行動であった。
 しかし外交策ではどうだったかというと、「中国市場進出」とい
うだけで、ある意味明確さを欠いていた。
 スティムソンやハルなど門戸開放をもって日本の中国政策を非難
する時、門戸開放と国際法への服従を執拗に迫る、単なる「口頭外
交」であった。
 また、アメリカは1937年頃まで日本の「満洲国」の承認を考
えていた。むしろ考えざる得ない状況であった。その理由は、37
年までアメリカの経済は不安定であり、深刻な問題を抱えていた。
たとえ「満洲国」をが日本の傀儡国家だとしても、アメリカの経済
復興のため「満洲」に新たなる市場を求めることであり、特に経済
界はそれに強く望んでいた。
 しかし、37年頃から経済復興の兆しを見せ、また日中戦争の勃
発も伴い、ルーズベルトや財務長官モンゲソーを中心とする「現実
主義者」によって対日批判を強めていくことになった。
 しかし、対日交渉を遂行していく上で内部の状況が一番の問題で
あった。ハルとモンゲソーの対立が見られる様に、政府内部は混乱
と対立にあった。そしてルーズベルト自身も知的および精神的に欠
如があったと指摘される。また彼は優柔不断で、人を出し抜いて芝
居をしようとする性格があった。「ルーズベルト・リセション」と
呼ばれる現象によって州政府、連邦政府を問わずルーズベルト政権
が徐々に崩れ始め、政府内部はおろか、民主党内部ですら分裂し始
めたのであった。
 ルーズベルトの反日感情は、スティムソンの存在が大きく影響さ
れていた。ルーズベルト家に忠実なスティムソンが1940年の夏
に陸軍長官に就任されると、対日対応策を取れないでいたルーズベ
ルト政権が、急速に反日態度を強めていったのであった。
 スティムソンは「戦争によってのみ、いやむしろ戦争の冒険を冒
してのみ勝ち取れるのである」という信念を持っていた。故に日本
の拡張政策には強硬手段を持って武力に訴えることを望んでいたの
であった。いわゆる「戦争」という手段である。
 しかし、色々な対日政策が存在していた。ハルを中心とする国務
省の様に「門戸開放」を掲げ、経済封鎖に訴える対日政策。また同
じ国務省でも親中派であるホーンベックの様に中国を支援するため
の対日政策などがあり、またモンゲソーはスティムソンと同じ武力
による対日政策であるが、国務長官であるハルと財務長官である
モンゲソーの対立は表面化していた。
 その様な対立と分裂の状況下で、優柔不断のルーズベルトをどう
コチラの意に傾かせるかというのが、一層の拍車をかけたのであっ
た。それが外交面では十分な方向性を見出せない一つの要因であり
、その中で武力行使、内政不干渉、国際条約の申請と尊重の強化、
経済上の均衡と安定、そして軍縮を含めた門戸開放を唱えただけの
単なる口頭外交であった。
 とはいえ、オレンジ計画の一貫性として「中国の保護」という概
念を生み出した。それは門戸開放宣言以来、中国市場はもちろん全
ての面に大きな関心を持ち、それを通じて中国を面倒見たというこ
とである。もちろんそれはアメリカ国民の勝手な解釈であり、ソー
ンの言う「一つの神話の形成」をしたのであった。
 しかし、アメリカは基本的には「極東」に関心があったのではな
かった。むしろ関心があったのはU本の南方進出に脅威を抱くオー
ストラリアとニュージーランドであり、そして南方に植民地を持つ
ヨーロッパの列強、特にイギリスであった。

イギリスの参戦要求
 1941年6月の日本のインドシナ進駐は南方に植民地を持つ列
強にとっては大いに影響をあたえるものであった。
 また1931年9月1日に開始されたドイツのポーランド侵攻に
よって勃発した欧州大戦は、南方に植民地を持つ列強は遥か「極東
」にある植民地まで防備を固める余裕すらなかった。特にイギリス
は焦っていた。
 ヨーロッパでは圧倒的に枢軸国が優勢であった。しかしヒトラー
の猛攻によってロンドンが火の海になっても、チャーチルはそれに
耐え、イギリスは持ちこたえていた。その様な状況下で「極東」ま
で手がつけけられる状態ではなかった。事実、シンガポールの防衛
は不十分であったし、唯一P.オプ ウェールズを軸とする東洋艦
隊を送れたのが精一杯であった。
 イギリスとしては中国市場に打撃が来るとはいえ、自らの植民地
が危険にさらされないためにも、中国に縛り付けておきたかったし
、そのほうが都合よかった。だからこそイギリスは蒋介石政府に支
援したのであった。
 日本が中国という殻を破って南方へ進出すれば、インドと中国を
結ぶ「ビルマ=ルート」を切断して来る。そうなれば、イギリスの
中国への支援の供給は絶たれることはもちろん、インドへと進出し
てくる危険性がある。。そしてビルマは「事実上、無防備」であっ
た。ようするに軍事的に不利であった。
 ではイギリスの植民地であるインドはどうか。それはチャーツル
自身がもちろんのこと、インド政府の財政顧問を担当していたグリ
ックも悲観したことであり、「イギリスはインドの忠誠をあてにす
ることはできない」と感じていた。イギリスにとってインドを手な
ずけるのは、「ヒンドゥー対イスラムの確執」を「イギリスのイン
ド統治の防備」として歓迎しているところにあり、もしその確執が
なければ、「社会は統合され、彼等は一緒になって我々に出ていけ
という」ということであった。インドの防備は当てにできなかった
のである。
 ヨーロッパにおいても、また「極東」においても危険な状態にあ
ったイギリスにとって、強力な国家の参戦が必要であった。そして
経済的にも、軍事的にも、また地理上の面からしても全てを満たし
ていたアメリカの参戦は絶対に必要なものであった。またチャーチ
ルは日本がイギリスに宣戦布告してくるのは当分の間はないだろう
と思っていたが、日本の今の状況からして、いずれ戦うことになる
だろうということは予想していたのであった。
 1941年の英米の関係は親密なものであったが、互いに疑念を
持ち、警戒していた。
 米英は同じ文化の国家からある意味うまれたものであるが、それ
は同じ英語を使うというだけで、中身は別の文化であった。そして
「歴史のある王国」と「歴史の浅い開拓国家」という相違に気付い
てはいなかった。その相違に気付かなかったのは言葉が同じため常
に意思の疎通ができたからであった。
 米英はそれぞれの国家として利害関係を図っていた、そしてそれ
は互いに疑念を持ち始めた。イギリスは1915年に首相となった
ロイド=ジョージのいうように、「アメリカの言いなりになること
は致命的なことではなかろうか」と考える者達も少なくはなかった
し、また「口だけのうるさい国家」と認識していた。またアメリカ
も「イギリスは帝国主義的な保守党的地主階級にすぎない」と見て
、「イギリスの戦っている理由は自己の利益のため」と認識してい
た。この様なことは武器貸与法や大西洋憲章においても摩擦を生み
出す結果となった。それは、「お互いの利益を図ったもの」という
疑念が生じていったのであった。
 しかし、イギリスがアメリカを望んでいる一方、アメリカもまた
イギリスを望んでいた。
 アメリカにとってイギリスは文化になくてはならない存在であっ
た。アメリカは「極東」の問題に関心が薄かったが、ヨーロッパは
別だった。アメリカとしては欧州大戦に参加したかったのであった
。アメリカにとってヨーロッパは、外交的にも文化的にも守らなけ
ればいけない場所であった。それは「ヨーロッパ文化圏」という
アメリカ合衆国の根本にあった。
 アメリカの外交の重点は「極東」よりもヨーロッシ゜であり、そ
してその最大の目的は「枢軸国の打破」であった。ドイツは日本よ
りも強力な国家であり、南北の海上交通路を脅かせるものであった
。それに対して日本は「経済的に弱い」という点で過小評価してお
り、日本の海軍はアメリカの8割程度だと思っていた。
 マジックの情報によって日本の攻撃は予想されていた。そして海
軍作戦部長スタークや陸軍参謀長のマーシャルは「開戦は恐らく来
年の春」と考えていたのである。またスティムソンの日記によれば
、「我々は恐らく月曜日に攻撃を受けるだろう」と警告があった。
過小評価していたとはいえ、当初地理上のこと、またフィリピン防
衛のことから日本との衝突は避けようとしていたものの、フィリピ
ンの政府顧問マッカーサが「日本からの攻撃から防衛するだけの力
はある」と主張したこと、またマジック情報に基づく日本の攻撃予
想によって「極東」において米英は同盟関係を築き上げた。
 そしてアメリカは42年の3月末まで日本に宣戦布告をせず、「
日本から攻撃を仕掛けてくる形」で欧州大戦に参加し、母港をハワ
イに移すと同時に太平洋艦隊を日本への圧力として駐留させたので
あった。
 真珠湾奇襲攻撃当日、この報告を聞いたチャーチルは「これで我
々は勝った」と喜んだという。
 この時、アメリカは"China"をどう捉えていたのか。開戦を決め
る過程で「ハル・ノート」の本案である。「基礎的一般協定案」を
示したのみで「暫定協定案」は撤回されてしまったが「基礎的一般
協定案」にある"China"はどの様に意味が込められていたのか検討す
る必要がある。実はアメリカ参戦を望む国はイギリスだけではなか
った。もちろん中国もそあであるが、北方のソ連もアメリカの参戦
を望んでいた。
 "China"はどの様な意味が込められていたのかは、日、中、ソの
三国に関わることであり、特にソ連が大きなカギを握っていること
になるだろう。
Kenzo Yamaoka
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件名:靖国神社こそ慰霊施設の中心である。  
靖国神社こそ慰霊施設の中心である。
戦没者追悼施設のあり方を検討する福田康夫官房長官の私的懇談会
の議論が、靖国神社に代わる新施設の建設を前提として進められ、
国民感情から懸け離れたやりとりが行われている。

もう一度、戦死者や遺族の気持ちに立ち返り、新施設が必要かどう
かという根本的な議論をつくすべきである。

首相官邸のホームページで公開された懇談会の議事録をみると、
靖国神社の歴史的経緯や意義を十分に踏まえないまま、新施設の
追悼対象についての検討にに移り、「南京虐殺の犠牲者を入れるべ
きだ」「不審船の死者が軍人で立派に戦死したのなら、祀る必要が
ある」「中国や韓国の指導者もお参りに行ける施設を」と云った意
見が出されている。

日本人としての戦没者慰霊のありようや伝統的な精神文化を無視し
た暴論と言わざるを得ない。

これらのやりとりに、国民の批判が強まったことは当然である。
国会議員の間でも、「戦没者遺族の感情を無視し、靖国神社の存在
意義を形骸化する」というメッセージを出した日本遺族会会長の古
賀誠前幹事長ら自民党有力者のほか、保守党、自由党、民主党から
も、靖国代替施設構想を批判する声が上がっている。

靖国神社問題について、日本政府も毅然とした姿勢を示しつつある。
小泉純一郎首相は九月の日中国交正常化三十周年を控え、靖国参拝
で中国に妥協しないことや、そのために訪中が延期されてもよいと
の考えを示した。

小泉首相は懇談会で議論されている新施設についても、「靖国とは
別」と靖国神社参拝を重視する意向を示した。

小泉首相に外交方針の助言を行う「対外関係タスクフォース」(座
長・岡本行夫内閣官房参与)でも、首相の靖国神社参拝が来年以降
も行われるという前提で今後日中関係の構築する必要があるという
認識で一致した。中国が使う「靖国カード」に屈してならない、と
いう意味である。戦死者の多くは靖国神社に祀られることを願い、
遺族は靖国神社を戦没者慰霊の中心施設と思って参拝している事実
を忘れてはならない。以上の記事は産経新聞から抜粋したが、日本
もやっと中国に対して毅然たる態度を示しだしたことは喜ばしいか
いりだ。
Kenzo Yamaoka


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