満蒙開拓団

殉難者拓魂 北関東

 

地蔵院

茨城県東茨城郡内原町

満蒙開拓殉難者之碑

碑文

平和と勤労を愛し 不毛の地旧満州大陸の荒野を拓き 五族協和の理想のもと 王道楽土建設を夢見て大陸

に渡り 理想の夢が花咲くかに見えた矢先 あの八月九日の大悲劇に巻き込まれた満州開拓民八万有余柱の

為 昭和二十一年 元義勇軍発祥の地 内原町内原「東光山地蔵院」に碑文を元訓練所長加藤完治先生 当

時残留職員による満州引揚者のため 開拓民援護会設立により建立された納骨室には 昭和二十年よりほぼ

引揚者が終わる昭和二十五年の間 引揚者の何人かの胸に抱かれ内地に上陸するも 出身不明のため帰山

出来ぬ三十五柱を集骨安置してあります

其の後 内原拓友会の懸命な「ふるさと探し」により二十一柱が帰山した其の文骨と 残念ながらいまだ帰山出

来ぬ実骨十六柱が合祀されております

どうか全国の今は無き拓友よ 我が国の平和と繁栄は諸兄の犠牲が礎です

殉難零位の御冥福を祈願いたします 合掌

昭和五十八年十一月  義勇軍内原拓友会建立

 

聖母観音像

建立の由来

満州開拓は王道楽土の建設を理想とする世紀の国策大事業であったと同時に 終戦による満州開拓の終焉と

歴史上まれに見る悲惨な様相を呈した その中に14、5才のまだ■■な満蒙開拓青少年義勇隊があった

志半ばに泣く少年 殺伐になり勝ちな訓練生のよき姉母として 母の如き精神力を持つ寮母があった 死する者

二十有余名 其の霊を祀ると共に 再びかかる悲劇のおこることなき平和な世界の実現を この観音像に託して

建立するものである

昭和四十六年四月吉日  満州寮母会 有志

 

本法寺別院

茨城県水戸市

極楽世界

碑文

先逝可享自由楽 留給人間思念情

一九四五年八月以降 黒龍江省・哈爾濱市・新香坊などの地で死亡した日本人を埋葬する為 中国人民の深い

同情と協力を得て ここを永遠なる安息の地とするにあたり この墓碑を建立する。

願成為日中友好之礎

二〇〇〇年十月二〇日  日本人墓碑建立世話人 礎会・哈爾濱の会 新香坊収容所縁者有志

縁起文

「極楽世界」は、元満州開拓者青少年義勇軍をはじめ満州開拓関係殉難者の御霊を祀る納骨墓所として中国黒

龍江省哈爾濱市郊外に建立した「日本人公墓」を、日中国際事情や現地人民への心情的配慮から改称、改建し

て二〇〇二年春までに現地に立てられていたものです。

その後「極楽世界」の名が中国墓園環境に馴染まないことと、また、当墓所の永久供養を維持する目的により中

国様式の新名称を刻した石碑に立て替えて現地で維持管理されることになりました。

この経過を受けて、これまでの「極楽世界」の石碑は日本国内に持ち帰ることができました。現状では叶えられな

い遺骨帰還になぞらえて鄭重にこれを迎え入れ、満州開拓発祥の地、内原訓練所河和田分所跡地の本院に安

置できたことにより、史実保存とともに犠牲者の永遠なる鎮魂供養の場にふさわしい霊域の顕現を希うものです。

二〇〇三年四月吉日  極楽世界背世話人

 

拓魂

碑文

五族協和、王道楽土、満州国建設の大志を抱いて 民族を越え戦争のないすばらしい村づくりを夢に海を渡った

青少年の数 八万六千五百三十名 「丈夫で仲よく迷わずに」の教訓を旨として 鍬の柄を肩に勇壮なるラッパ鼓

隊に送られて渡満 嗚呼 戦争という極限のなかで昭和二十年八月九日未明 そのすべては壊滅 多数の青少

年が大志半ばにして満州の地に残したる惨 言葉も無し 爾来四十有余年の星霜が流れ 彼らの前に香を手向

ける人もなく 一輪の花もなし 嗚呼 且つて彼らの農事訓練の場としての河和田の此の地 百町歩余こそは己々

の心は忘るる事の出来ぬ農業の尊厳さを刻みこまれたであろうに 今この因縁深き地の本法寺の境内に彼らの

勇気を永久に称えると共に 散っていった多くの同志の夢を慰むるため 生き残りたる我等相寄り諮りて拓魂碑

を建立し後世に伝えるものなり

平成三年八月八日  池田節朗 建立委員会

 

佐白山麓公園

茨城県笠間市 

笠間満州分村懐古之碑

碑文

笠間分村は昭和十八年三月十二日 元満州国東安省宝清縣南哈嘱地区に笠間町を母体とし 亜細亜五族の

協和と日本民族伸展の大理想顕現を目的として建設されし第十二次開拓団 名利広漠たる山野 正に一万四

千町歩 不撓不屈之を拓きて百町歩開拓の聖業漸く進みたるも 昭和二十年八月九日建設五ケ年計画の半ば

にして戦争大東亜の終結のため幾多尊き殉難者を出し 笠間分村二百戸建設の大業遂に挫折の止むなきに至

る 嗚呼残念なる哉 時に団長以下百五十四名 依って 為分村事業記念 為殉難者慰霊 建立

昭和二十八年三月十二日  笠間町長根本政太郎

 

栃木縣護國神社

栃木県宇都宮市

満洲開拓青年義勇隊慰霊碑

碑文

満洲開拓青少年義勇隊は昭和十二年に創設され、十四歳から十九歳までの青少年が、茨城県内原

訓練所を経て満洲(中国東北地方)に移住し、前後三年間、各種の訓練に従事しつつ

北方守備の一翼を担ったのである

当時政府は、民族協和、王道楽土、第二の祖国建設等の政策を掲げ、全国の青少年がその国策推進

に協力することを奨励した。

この政策に夢と理想を見出した幾多の純粋な若い魂は、進んで義勇隊に入り、内原での厳しい訓練に

堪えて渡満した。この数全国で九万余、本県からも二千数百余名が応じた.

この間義勇隊の訓練と生活は言語を絶するものがあったが、夢と使命感を秘めていた拓友は、酷寒

猛暑を克服してひたすら開拓の鍬を振るい、初志貫徹のため日夜精励した。そしてその苦闘も報いら

れ、理想郷の実現する日も近くにあるやに思っていた.

しかるに昭和二十年八月、敗戦という過酷な現実に、若い情熱と努力の結晶は水泡に帰した。その後

の苦難は筆舌に尽くし難く、酷寒と飢餓、病魔に侵される悲惨な日が続き、斃れて若い生命を奪われ

たもの、本県のみでも三百六十余名に及んだ。

幸いわれわれは、励まし合い助け合って九死に一生を得、なつかしい母国の土を踏むことが出来た

が、大陸の広野に空しく消えた拓友を忘れることは出来なかった.ここにかれらの魂魄を故郷に幾久

しく鎮めるため、生還し得た本県の有志が相集まり、相謀って、聖なるこの地に慰霊碑を建て、その

冥福を祈念するものである。願わくば友よ、安らかに眠られんことを。

鎮魂賦

少年雄叫ぶ満洲の原 戦い敗れ辛酸言うに耐えず 八百の青雲興国の志

故郷の山は英魂を鎮めんと欲す

昭和四十七年十一月十二日  元満洲開拓青年義勇隊慰霊碑建設協議会建之
 

花園霊苑

 栃木県黒磯市

元満州北安省克東県第九次花園開拓団慰霊碑

碑文

元満州北安省克東県第九次花園開拓団(那須分郷)

昭和十四年渡満先遣隊十三名にて北安省克東県に入植す

終戦時開拓団戸数一〇〇戸 団員家族数三六九名

八月末日敗戦に依り開拓団引揚命令下り南下す 九月終結移動準備始める ソ連軍配車にて途中苦難の

道を辿り乍ら 十一月初め撫順市老虎台難民収容所入り この時発疹チフス栄養失調にて 磯団長他団員

家族一九三名死亡す

昭和二十一年六月帰国準備 大坪秀雄氏以下団員家族同月末帰国 内原訓練所に着き入所す

磯団長県職当時の功績に依り昭和二十一年九月現在地青木地区に入植す

撰文 新田登美壽  昭和五十八年十二月二日建立

 

群馬縣護國神社

群馬県高崎市

義勇軍之碑

建立之詞

われらは若き義勇軍 祖国の為ぞ鍬とりて 萬里涯なき野に立たむ     

                 いま開拓の意気高し いま開拓の意気高し

この歌と共に開拓を志した我等満州開拓青少年義勇軍群馬県出身者は昭和十三年の第一次より

昭和二十年の第八次までの総計七千有余名であった 青少年義勇軍による満州開拓事業は満蒙

の天地に民族協和の王道楽土建設と祖国の防衛を実現するための重要国策として時の政府により

行われたものであった 我等は若くしてその国策に身を奉じ日夜祖国の運命を思いながら銃を片手

に鍬を握ったのである しかし昭和二十年八月思わざる祖国の敗戦により地と汗と建設は一瞬にし

て崩れ去り 数多くの拓友は大陸の草原に露と消えていった。

この碑は満州の広野で犠牲となった拓友の霊を慰めると共に青少年義勇軍の壮挙を記念するた

め生存者一同によって建立したものである

はてしなき広野に立ちつ鍬とりて ふるさと思ふ君はかへらじ

北満の広野を照す君が遺志 郷土の為に我等うけつがん  .

蘭の花土のへに亡き拓友の すぎし面影友と語らん    .

我等はその思いを此の願いに託しつ ここに亡き拓友の霊を護國神社の丘にお祀りできたことを

この上なき喜びとすると共に真の世界平和の実現を心から祈念するものである

昭和四十二年五月建立  群馬県出身満州開拓青少年義勇軍生存者一同

 

水道山公園

 群馬県桐生市

満州緑ヶ原桐生郷開拓団 慰霊碑

碑文

満州緑ヶ原桐生郷開拓団は 高度国防と食糧増産の国策に協力する目的をもって昭和十八年一月十四日結成

順次二■して挺身異郷の荒野に入植した 二十年八月二十三日暴徒侵入 続いてソ連軍の襲撃を受け決死の

防衛と避難中 八十余名はついに悲惨の最後を遂げ国難に殉じた 誠に痛恨の極みである 本市に殉難団員

を追悼 慰霊碑を建立して不朽の勲績を永く後世に伝える次第である

昭和四十九年三月二十一日  桐生市長 小出和雄

 

廿楽地区

群馬県吾妻郡長野原町

満州開拓記念碑

碑文

満州開拓は当時の日本の将来を想定する一大国策として計画実施されたものである 開拓の為の移民は全国

各地から募集され年々多くの日本人が海を渡って行った 支那事変が大東亜戦争に拡大しつつある中のことであ

る 廿楽郡からもこうした時代の要請に呼応して 掛川金蔵を団長とする第九次廿楽郷開拓団が結成されて昭和

十四年満州國北安省通北県九道溝に始めて先遣隊を入植させた 翌十五年には本隊が入り 更に続けて市川

儀太郎を中心とする第十三次月形開拓団 並木実謙を主軸とする第十四次開拓団 内田愛一郎を場長とする報

国農場隊員と 次々に渡満入植してその数は百数十戸の多きに達し 異邦に廿楽郡分郷を形成するに至った 

私達団員は 気候 ■■ 民情 言語の■■辺境の地で幾多の辛酸を嘗めつつ ひたすら開拓の業に励み 併

せて北方守護の一翼も荷ってきたのである た■たる昭和二十年八月 突如敗戦の悲運に遭遇してしまった 

既に武器類は持ち去られ丸腰のまま不安な日常を過すことになったのである 集団で来襲する土匪との防戦に明

け暮れして 或る者は傷つき或いは散っていった 団員と筆舌に尽くしがたい惨苦の日々がここに始まった ひどい

寒気と飢えと 土匪の脅威に終始さらされ 殊に本国の保護を断ち切られた為 生活は日毎に窮迫して病院続出

全く将来の見込みも立たない不安な状態が続いたが 翌二十一年九月二日ようやく引揚命令が下り 爾来五十三

日間という長いつらい死生の境を彷徨する長旅が続き 辛うじて母国復帰ができ得たのである 内地引揚後は初心

忘れることなく郷党の人々の支援による 大陸に散った拓友の遺志を継いで 他の開拓団引揚者や志を同じゅうす

る人達と共に北軽に入植し再び開拓の鍬を振る者 既に家財を整理渡満した為 各地に新天地を求めて去って行

く者 或いは故郷忘れじがたく生まれた土地に帰る者 とそれぞれの土地で再起のため奮闘を続けているが 然し

共に苦しみ 共に開拓に打ち込んできた私達が■中には 開拓の先駆者としての強い意志と同志的結合が脈々と

流れ 横のつながりは無言のきずなとなり拡がりとなって いつまでも離れることはないのである 茲に開拓に関係

する全員とその他多数各位の協力を仰いで 往時を追憶しつつ犠牲者の冥福の祈りも籠めて記念の石碑を建立

し これを永遠の証とするものである

昭和四十三年十一月八日  

 

開拓者供養塔

 

報友会満州報国隊記念碑

碑文(表)

戦争は多くの人類を殺傷し、国民の総ての生活を破壊する最大の罪悪である。

第二次世界大戦は激烈を極め、我が国の食糧難は切迫し、祖国の危急存亡に直面した昭和十九年の三月〜二十

年四月私たち青少年一四0名は、甘楽郡(二十三ヶ町村)より選抜、満州国に派遣され、満州国北安省通北県九道

講の大平原を開拓して群馬報国農場を建設し、食糧確保と北の守りに砕身の力を尽して奉仕した。

昭和二十年八月終戦後は、異国での敗戦の悲惨さと戦い、この上ない辛酸を受け、これを克服し、六人の犠牲者を

残して(裏面に記す)昭和二十一年十月帰還した。

思えば、私たちの報国開拓奉仕の行為が国際平和共存のための営みであったなら、どんなに誇らしくてすばらしい

業であったろうに・・・

戦争の惨状悲哀は筆舌に表わし難い。私たちは人間として、この世の続く限りどのようなことがあっても、二度と戦

争の罪悪をくりかえしてはならない。このことを永遠の子孫に訴え、恒久平和を祈念してこの碑を建つ。     報友会

 

慰霊詞(裏)

昭和二十年八月十五日 第二次世界大戦は終幕を告げた。

以来在満日本人の生活は一変した。ソ連軍の侵入と国共両軍の内戦十八回に及ぶ中で暴民の襲撃を受け隊員は

開拓団員と一致協力し、克く戦った。九道溝廿楽郷は団結の力と、掛川金蔵・市川儀太郎両団長の人望(現地人の

信頼)によって難を免れ生きのびることができた。

しかし酷寒零下三十五度と飢えで一日一日が必死だった。二十一年八月北満の日本人送還が始められ通興駅に

集結した日本人は、満人の家に分宿し十五日間待たされた。その頃中共軍の青年労働力の徴発が行われ、廿楽

郷からは隊員の古屋栄作・古屋今朝三の両君が七月中旬徴発されていった。両君は鶴岡炭鉱で強制労働に附さ

れた。二十七年十月栄作君は衰弱した姿で帰国できたが、今朝三君は遂に力尽き還らぬ人となった。なお田中

康夫・神戸堅次郎・山崎きく江・吉田スミ江・佐藤けい子の計六人の隊員が北満の荒野に、尊い生命を犠牲にした。

私たち一同、国の為に殉じた六柱の業績を偲び、慰霊の誠を捧げてこれを彫む。

昭和五十一年五月

 

併設の木碑

生まれ故郷をあとにして 俺もはるばるやってきた 蘭の花咲く満州へ 人間一匹力(うで)だめし

金もなければ地位も無用 もった情熱が財産さ

昭和十九年食糧危機に備えて満州の荒野開拓  昭和二十年八月終戦 二十一年帰郷

 

大屋原地区

群馬県吾妻郡長野原町

群馬満蒙拓魂之塔

建立の由来

満蒙開拓とは 現在の中華人民共和国東北地区に五族協和の王道楽土創建を目途とし 満州国が生まれた際

ここ所謂満州蒙古の地に眠る広大な未墾の沃野を活用するための大量の移民送出が国策の名の下にされて 

なされた大規模農業開発の事である

昭和七年始まり 同二十年夏第二次世界大戦の終結に至るまでの十有余年間 日本全国から之に参する者三

十二万余人 本県からも開拓民 義勇隊員併せ 八千七百八十余名の入植を見たが 昭和二十年八月十五日 

祖国日本の無条件降伏 満州国の崩壊と 供に巳んだ あたら血と汗と涙の成果は束の間に夢のまた夢

前の道に挑み拓士を誇称して精進これ努めた同志とその一統は 痛ましや引揚げ難民となり非命に斃れる者約

八万 本県人も一千六百八十余名に及び 実に世界開拓史最悪の事態に陥り 惨憺たる終末を迎えたものであ

る 噫 (後略)

昭和四十九年九月二十三日  群馬満蒙拓魂之塔建立委員会

 

開拓地蔵尊

 

第九次駅馬開拓団 供養塔

碑文

国策により 昭和十五年一月満州吉林省磐石県駅馬村に入植した駅馬開拓団(木瀬分村)は 昭和二十年八月

祖国日本の敗戦に因り一瞬にして崩壊す 六年に亘る苦闘は夢消と化し あまつさえ暴虐なる土民の襲撃により

 多数の尊い人命を失う 忽ちにして衣食住無き難民と化し 飢えと寒気と悪疫は容赦なく多くの人命を奪う その

惨状は筆舌に絶す 歳月人を待たず あの日より既に半世紀を送り ここに五十回忌を迎うるに当たり全物故者

の慰霊法要を行い 併せて供養塔を建立し 謹んで追悼の誠を捧ぐ 合掌

平成六年八月二十一日  第九次駅馬開拓団 五十回忌法要並に物故者慰霊執行委員会 建立

 

満蒙開拓団

更新日:2011/11/02