私のコンピューター遍歴


コンピュータとの付き合いはかなり長いほうだと思います。私のこれまでのパソコンとの付き合いをまとめてみました。


●1975年頃でしょうか、相模クラブの先輩であった JH1LGS が Intel の4040(おお、何と4ビットのCPUである)を使った手作りのマイコンを見せてくれたのがコンピュータとの最初の出会いでした。シャーシに一列に並んだトグルスイッチをパチパチ動かして1命令ずつ DMAモードで RAM に命令を書き込んで行きます。RUN させるとフリップフロップをシミュレートしたそのプログラムによって LED が点いたり消えたりするというだけのものでした。確かにコンピュータには違いないのだろうけど、しかし「これで何ができるの?」というのが率直な感想でした。

●TK-80 が出たとき、私は新聞の新製品紹介欄でそれを発見したのですが、初めてわくわくするものを感じたのを覚えています。もしかしたらこれで人工知能のシミュレートができるかもしれないと思ったのです。欲しくて欲しくてたまらなかったのですが、お金がなくて買えませんでした。秋葉原の Bit-In でマニュアルを求め、カタログ写真をためつすがめつ眺めながら、8080 のアセンブラを勉強したものです。このカタログは今でも大事に持っています。

●アルバイトをしているうちに、日立から H68/TR が出ました。これが最初に買ったパソコン(当時はワンボードマイコンと言った)になりました。99,500円もしましたが、電源は別で、RAM も 1KB だったと思います(増設しても最大 3KB )。それでもアセンブラが ROM に入っていたので、すぐにプログラミングもできました。この ROM を手書きでディスアセンブルし、フローチャートまで作ったのを覚えています。これは勉強になりました。6800 のインストラクションセットの美しさは今でも印象に残っています。(68000はもっと素晴らしいですね。)これで最初に作ったプログラムはアマチュア無線のコンテストで使うためのものでした。コールサインを入れると、既に交信した局かどうかを示すと同時にそのコールサインを記録して行くというものでした。一種のデータベースソフトですが、よくこんな少ないメモリでできたものだと今になっても感心してしまいます。アセンブラの威力ですね。

●アルバイトといえば、当時のマイコン専門の雑誌「ASCII」の1978年9月号にCP/M の紹介記事を書いたのは私です。ほとんどアメリカの雑誌の受け売りでしたが・・・。しかし、このころはコンピュータ関連の書籍など本屋にほとんどなかった時代で、本屋さんで「アスキー」といっても通じなかったのを思い出します。現在の書店のあふれんばかりのコンピュータ関連誌を見ると隔世の感があります。

●次に買ったのは日立ベーシックマスターレベル2というものです。当時すでにNECから PC-8001 が出ていてそちらはカラーも表示できたのですが、6800 のアーキテクチャの美しさに触れてしまった私にはどうしても 8080 のぐちゃぐちゃした世界に戻ることはできませんでした。また、ベーシックマスターレベル2の BASIC には、配列データを直接SAVE&LOADできるという優れた機能がありました。もっとも記録装置はオーディオカセットで、ピーヒョロヒョロガーという音で記録するのでした。しかしこれで初めて、スタートレックが自分のパソコンでできるようになりました。それまでは、新宿のムーンベースに行き、ALTAIR(スペルあってるかな?)で動いているのを30分 500円とか払って触らしてもらっていたのでした。学生の私にはえらく高い値段に思えたものです。

●昭和55年私が就職したのは町田の中学校でした。そこで私はマイコンクラブを作りました。学校でも1台ベーシックマスターレベル2を買ってもらい、私のと計2台でスタートしたのですが、全国的に見てもこれはパソコンクラブの先駆けだったのではないでしょうか。

●次に買ったのはヤマハのMSX2マシンCX7M/128です。マウスで楽譜が書けて自動演奏できるのが魅力でした。このとき初めて外付けフロッピーディスクドライブを買ったのですが、その値段の高かったことが今でも印象に残っています。

●昭和61年4月、私は多摩の学校に転勤になりました。幸運なことに、そこには富士通の FM-new7 が1台ありました。これには320K×2のフロッピーディスクドライブが付いていました。そこで、早速成績処理ソフトの作成にとりかかりました。F-BASICはよくできていましたが、漢字ROMは入っていたものの、&H90F5 などとシフトJISコードで指定しないと使えないので、画面の説明を書くのにえらく苦労しました。しかたがないので単漢字変換ができる簡易ワープロのようなユーティリティプログラムを作って対応しました。ローマ字をカナに変換するルーチンも自分で考えて組み込みました。当時は毎日のように深夜まで居残ってプログラミングに没頭しました。コンピュータに触ったことがない人でも使いこなせるようにしようという目標があったのでユーザーインターフェイスにはずいぶん時間をかけました。またプログラムが大きくなるにつれ、32KBという少ないメモリが壁となってきました。ここにプログラムもデータ領域も確保しなければならないのですから。仕方なくプログラムをいくつかに分割し、フロッピーからロードしては処理を渡すという構造にして対応しました。苦労した甲斐があって、かなり完成度の高いソフトができあがりました。

●次に作ったソフトは組合の会計処理ソフトでした。組合の事務局にPC-9801(おお、16ビットのCPUだ!)があって、当時はまだ高嶺の花だったハードディスクがついていました。N88-BASIC はまだ MS-DOS に乗る前のバージョンでした。漢字が自由にプログラムの中で使えるようになったのはえらく助かりましたが、N88-BASIC にはディスプレイの右端に漢字が来ると表示がおかしくなってしまうという基本的なバグがあって参りました。ともかくこれを使って必要最小限の数字を入力するだけで伝票の入力から条件検索、集計表の印刷までできるような会計処理ソフトを完成させたのでした。

●Mac Plus を手に入れたのは1989年の2月のことでした。40MB の外付けハードディスクと込みで確か40万円くらいしたと思います。OSは漢字Talk2.0、FEP は VJE、一緒に買った EXCEL はバージョン1.06でした。ハイパーカードがあるので、もうプログラミングをすることもあるまいと思ったのですが、ブラックボックスがあると開けてみなくてはすまない性分がたたって、ほどなくして TMON や ResEdit をいじるようになりました。しかし Mac の世界に入って最大の収穫といえるのは何と行ってもアウトラインプロセッサ(Acta Advantage)との出会いでしょう。これにはまってローカライズやら THINK C を使ってファイルフィルターの作成までするようになったのですから。その間の事情はActa7の項に詳しく書いておきましたので割愛します。

●その後、職場でもMacを使いたくなって Classic を買い、Acta7のローカライズにカラーのMacが必要になって Mac IIsi を買い、初めてのポータブルマシンとしてPowerBook145Bを買い、Acta7のPowerPC版のテストのために PowerMac7100/66/AV を買いました。

●現在は Power Mac G3 DT/266 をメインマシンとして使っています。PowerBook 145B は同僚に譲ってしまい、代わりにPowerBook 550C を買いました。Classic は HD がいかれてしまったので廃棄してしまいましたが、Plus だけはどんなに古くなっても手放す気がしません。

●Windows マシンも一つだけ持っています。TOSHIBA の Libretto 50 です。これなら電車の中でも使えそうだなということで買ったのですが、結局ほとんど使いませんでした。ただ、VBを使って「棒消しゲーム」を作れたのはこの機械のおかげです。


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