亀山天皇の皇子。母は京極院佶子(洞院実雄女)。遊義門院(後深草天皇皇女)を皇后とする。西華門院基子(堀河具守女)との間に邦治親王(後二条天皇)を、談天門院忠子(五辻忠継女)との間に尊治親王(後醍醐天皇)・奨子内親王(達智門院)をもうける。
文永四年十二月一日、誕生。翌年八月二十五日、立太子。文永十一年(1274)正月二十六日、父亀山天皇の譲位を受けて践祚、時に八歳。十三年間皇位に在り、この間亀山院が院政を敷いた。建治元年(1275)、鎌倉幕府の意向により、後深草上皇の皇子煕仁親王(のちの伏見天皇)を皇太子とする。弘安十年(1287)十月二十一日、皇太子に譲位。正安三年(1301)、第一皇子邦治親王(後二条天皇)が践祚するとともに院政を敷く。徳治二年(1307)七月、后の遊義門院が崩じたのを機に仁和寺で出家、法名金剛性を称し、密教の研究に没頭する。文保二年(1318)、第二皇子尊治親王(後醍醐天皇)が践祚し、以後三年程、再び院政を行なう。元享元年(1321)、院政の停止を幕府に申し出、後醍醐天皇の親政に委ねた。元亨四年(1324)六月二十五日、大覚寺殿にて崩御。五十八歳。遺詔により後宇多院と追号した。
学問をきわめて好んだが、和歌にも熱心で、二条為世に命じて二度にわたり勅撰集を撰進させている。すなわち嘉元元年(1303)の『新後撰集』と元応二年(1320)頃の『続千載集』である。嘉元百首・文保百首・探題歌会「亀山殿七百首」などを催し、自らも詠作している。新後撰集初出。続千載集では最多入集歌人。勅撰入集百四十六首。『後宇多天皇宸記』『伝法灌頂注』等の著作がある。
題しらず
春来れば雪とも見えず大空の霞を分けて花ぞちりける(新後撰18)
【通釈】春が来たので、降る雪は雪とも見えず、広大な空に立ち込める霞を分けて、ただ花のごとく散っているのであった。
【補記】この「花」は、花と見紛う春の雪。類想歌は過去数知れないが、後撰集よみ人しらず「山高み霞をわけてちる花を雪とやよその人は見るらん」を特に意識した作か。とすれば、花を雪と見立てた本歌を反転させたことになる。のみならず、本歌の「雪とや」「見るらん」など不確定の表現を取り払い、「雪とも見えず」「花ぞちりける」と断定してみせた。一見優美な趣の裏に、帝王の気魄がみなぎる。
河霞といふ事をよませ給うける
音はしていざよふ浪も霞みけり
【通釈】音はするけれども、網代木に停滞する波も霞んで見えない。宇治川の春の曙よ。
【語釈】◇いざよふ浪 人麻呂の本歌により、宇治川の網代木に寄せ、たゆたう波をいう。◇やそうぢ川 「やそ」は多い意で、「うぢ」を導くはたらきをする虚辞。
【本歌】柿本人麻呂「万葉集」
もののふの八十氏河の網代木にいさよふ波の行方知らずも
【補記】人麻呂詠の本歌取り。氷魚(ひお)などを獲るための仕掛けである網代(あじろ)は、冬季のみ用いられ、春になれば簀をはずされて網代木(杭)のみが寂しげに立ち並ぶ。掲出歌の「いざよふ浪」は、この棒杭に打ち寄せ、たゆたう波である。その音は聞こえるが、一面にたちこめた川霧に波も霞んでいる。幾多の時を超えて流れる宇治川の春の曙の景色が、現世の無常をやさしく包み込むかのようだ。因みに宇治川の網代漁は後宇多天皇の代の弘安七年(1284)、仏教的な見地から廃止された。
梅を
【通釈】仲春二月、まだ風が寒く感じられる袖の上に、雪交じりに散る梅の初花よ。
【補記】春服の袖にはなお寒風が吹きつけ、咲いたばかりの梅の花が雪交じりに散りかかる。陰暦二月は「着更着」、ようやく暖かくなったと思った矢先、寒の戻りで再び着物を重ね着することから「きさらぎ」と呼んだとも言われる。語源説としての是非はともかく、この歌では「衣更着」を意識して用いていることは疑いない。月の名を巧みに生かして艶な歌となった。
人々に百首歌めされしついでに、花
吹く風もをさまれと思ふ世の中にたえて桜をさそはずもがな(新後撰81)
【通釈】吹く風もおさまれ、平和であれといつも我が願う世の中なのだから、風は桜の花を誘って散らさないでほしいよ。
【補記】新後撰集撰進のため企画した嘉元百首。
【本歌】在原業平「古今集」
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
嘉元百首歌たてまつりける時
過ぎにけり軒のしづくは残れども雲におくれぬ夕立の雨(新続古今267)
【通釈】雨はあっという間に過ぎてしまった。軒の雫は残ったけれども、雲に遅れずについて行った夕立は……。
【語釈】◇夕立の雨 「夕立」とは、夕方、突然強い風が起こること。この風と共に降る雨を「夕立の雨」と言う。
元亨元年九月亀山殿にて、人々題をさぐりて五十首歌つかうまつりけるついでに、納涼の心をよませ給うける
しづかなる心しすめば山かげに我が身涼しき夏の夕暮(新続古今330)
【通釈】落ち着いた心が濁りなく澄んでいるので、山陰にあって我が身は涼しい、夏の夕暮。
【補記】世を捨て山の庵に暮らしている趣き。
題しらず
置きもあへず乱れにけりな白露の玉まく
【通釈】葉の上に留まり切れず、散り乱れてしまったなあ。白露が玉のように巻き付いていた葛に、秋風が吹く。
岡紅葉といふ事を
色々にならびの岡の初もみぢ秋の嵯峨野のゆききにぞ見る(風雅679)
【通釈】さまざまな色彩に染まって並ぶ、双(ならび)の岡の初紅葉――秋の嵯峨野を往き来する折々眺めるのだ。
【補記】「ならびの岡」は京都仁和寺の南にある岡で、一ノ岡、二ノ岡、三ノ岡が並んでいる。都から嵯峨への通り路に眺められる。嵯峨野は女郎花や薄などの名所で、都の貴族にとって秋の代表的な行楽地であった。
長月やといふ事をはじめの句に置きて暮秋二十首歌よませ給うけるに
長月や雲ゐの秋のこととはん昔にめぐれ菊のさかづき(新千載534)
【通釈】晩秋長月、かつての内裏の秋は如何であったか、問いかけよう。過去の時代に巡れ、菊酒の盃よ。
【補記】晩秋九月九日は重陽の節句。かつて宮廷では詩を詠んだり長寿を願って菊花酒を飲んだり、華やかな節会が行われた。そのような催しは宇多天皇の頃より始まったというが、鎌倉時代には廃れてしまっていたらしい。菊は言うまでもなく皇室の象徴であり、秋は収穫の季節であるから、「雲ゐの秋のこと」は菊の節句に留まらず、平安盛期の充実していた朝廷そのものを想起させることになる。
なお、「長月や」を初句に置いた歌の例は、新古今時代にいくつか見られる。定家「なが月や老いせぬ菊の下水にたまきはるよは外の白露」(『拾遺愚草員外』)など。
【参考歌】藤原為氏「宝治百首」
九重に久しくめぐれもろ人の老いせぬ秋の菊のさかづき
時雨知冬といへる心をよませ給うける
【通釈】時雨れてゆく空にもはっきりそれと知られる。もう神無月――すっかり雲に覆われないうちから、冬が来てしまったのかと。
【参考歌】凡河内躬恒「古今集」
ちはやぶる 神な月とや けさよりは くもりもあへず はつ時雨 紅葉とともに ふるさとの よしのの山の 山あらしも さむく日ごとに なりゆけば たまのをとけて こきちらし あられみだれて しもこほり いやかたまれる にはのおもに むらむら見ゆる 冬草の うへにふりしく 白雪の つもりつもりて あらたまの としをあまたも すぐしつるかな
藤原為氏「弘長百首」
うちつけにくもりもあへず神無月冬の空ともふる時雨かな
雪を
しろたへの色よりほかの色もなし遠き野山の雪の朝明け(玉葉988)
【通釈】見渡す限り純白、それ以外の色はまったくない。遠い野山まで雪が埋めつくした明け方。
【補記】結句、「雪のあけぼの」とする本もある。嘉元百首では「雪のあさけは」。
旅の心をよませ給うける
いづくをか家路とわきて頼むべきなべて此の世を旅と思へば(続千載858)
【通釈】どの道をとりわけて家路とあてに出来よう。おしなべて人生を旅と思えば…。
【補記】家に帰れたところで、人生そのものが旅だとすれば、安心することはできない、との心。
寄鶴祝言といふ事を
あしたづの雲ゐに通ふこゑのうちにかねてもしるし千世の行末(新後撰1595)
【通釈】葦鶴が雲の上を行き来する声のうちに、前以てはっきりと知れることだ、千年の未来の繁栄が。
【補記】「あしたづ」は葦の生える干潟などに住む鶴。
百首歌めされし次に
世を思ふ我が末まもれ
【通釈】世が平和に治まることを思う私の子孫たちを守ってください、石清水の神よ。その名のごとく、清らかな心の流れが永く続くようにと。
【補記】「石清水」は石清水八幡宮。皇室の祖神を祭る。当時後宇多院の大覚寺統は伏見院の持明院統と対立関係にあったので、歌の「わがすゑ」「きよき心のながれ」は、具体的には大覚寺統の皇統を指すことになる。続千載集編纂のため、文保二年(1318)頃に文保百首を召した際、自らも詠んだ百首歌の一。
百首歌めされし次に
あつめおくことばの林ちりもせで千とせ変はらじ和歌の浦松(続千載2130)
【通釈】集め置く歌々――この詞の林は散り失せることなく、千年後も変わらぬ姿で伝わるであろう、和歌の浦の松林のように、尊い勅撰和歌集として。
【補記】続千載集編纂に際しての述懐。「和歌の浦」は紀伊国の歌枕。同地の玉津島神社は、衣通姫と同一視される玉津島姫を祀り、和歌の神として尊ばれた。「和歌」と掛詞になること言うまでもない。
公開日:平成14年10月02日
最終更新日:平成20年08月05日