ワインガルトナーとスイス

 フェリックス・ワインガルトナーのCDが新星堂から大量に発売されました。復刻に際して使用されたSP原盤もなかなか良い状態ですし、いくつかの演奏は以前から知ってはいましたが、今回は彼自身の自作自演も入っていて、なかなか興味深いものがありましたので、ここに取り上げることにしました。
 ワインガルトナーは、一八六三年六月二日、現在クロアチアとなっているオーストリア=ハンガリー帝国に生まれました。
 四才の時、父親が亡くなり、一家はオーストリアのグラーツに移っています。詳しいことはわかりませんが、音楽の才を幼少の時から示していたのでしょう、ここで作曲を学び始めます。
 十七才になる一八八一年までここにいたのですが、音楽評論家として当時有名であったハンスリックに推薦されて、奨学金をもらい、ライプツィッヒの音楽院に入学しています。
 その後、バイロイトでパルシファルを観てワーグナーに出会い、ワイマールでフランツ・リストに師事した後、なんと二〇才の時にケーニッヒスブルクの歌劇場で指揮者としてデビュー、自作のオペラの初演も行っています。
 そして一八八七年、二十四才の時にはベルリン宮廷オペラの指揮者となり、一九〇八年にはあのグスタフ・マーラーの後任としてウィーン宮廷オペラの指揮者となったのです。
 と同時にウィーン・フィルの指揮者として一九二七年までウィーン・フィルの指揮をし続けました。

 ここで重要なのは、ワインガルトナーがヨハン・シュトラウス二世やブラームス、リスト、ワーグナーといった十九世紀後半の大音楽家達と共に学び、生きてきたことであります。
 当然彼のウィンナ・ワルツは彼自身がヨハン・シュトラウス本人の演奏を知っている事から、その演奏の意味は更に深いものとなりますし、リスト自身に学んだことからも彼のリストのピアノ協奏曲の演奏(ピアノは同門の逸材エミール・フォン・ザウアー)やメフィスト・ワルツの演奏は不滅の価値を持つと言えるでしょう。
 もちろん繰り返し録音されているブラームスの交響曲などやワーグナーのいくつかは、ワインガルトナーの経歴から考えても、とても意義深い録音である考えられます。

 さて一九二七年に、ワインガルトナーはスイス、バーゼルに移住します。ここから彼のスイスの深い関わりが始まります。転居の理由は彼の四番目!の妻がユダヤ人であったためとされています。
 その地でドイツ音楽協会コンサートを行い、バーゼル音楽院の院長に就任します。
 そして翌年からは、バーゼル交響楽団との管弦楽小品の録音が始まるのです。

 バーゼル交響楽団は十九紀にその母胎となる団体が存在したようですが、現在の団体として改組し初代の常任指揮者をやくようになったのは一九二一年のことです。 ヘルマン・ズッターが初代常任指揮者で、第二代常任指揮者がワインガルトナーです。
 ワインガルトナーは一九二七年から一九三五年までその地位にありました。
 その後一九三五年から一九六五年までハンス・ミュンシュの長期政権?時代が続き、一九六五年から一九六八年は首席客演指揮者にサヴァリッシュを迎えただけで、常任指揮者不在の時期があったのですが、その後一九六九年からはレオボルド・ルートヴィッヒ、一九七〇年からモーシェ・アッツモン、一九八七年からホルスト・シュタインがその地位にあります。
 もちろん、ドラティやブーレーズ、アルミン・ジョルダンといったバーゼルに縁の深い音楽家たちの度重なる客演もあったのですが、バーゼル交響楽団はドイツ圏の指揮者によって一貫して率いられてきたと言えるでしょう。

 ワインガルトナーとの演奏は自身の編曲によるウェーバーの「舞踏への勧誘」(ベルリオーズの華麗なものとはひと味違う、落ち着いたウィーン調の物)や「魔弾の射手」序曲、自作の「あらし」よりスケルツェティーノ「悪戯者の妖精達」、ヨハン・シュトラウス二世の「常動曲」、「ピツィカート・ポルカ」、「酒、女、歌」といった作品が聞かれます。
 常動曲のややゆったりとしたテンポによる優雅な演奏からは、世紀末ウィーンの残り香がほのかに感じられますし、ピツィカート・ポルカは管楽器を追加した編曲版を使用しての演奏(恐らくはワインガルトナーの編曲?)で驚かされますが、「酒、女、歌」などはその優雅な物腰が、決して現代の演奏からは聞くことの出来ないものでありますし、弦を主体としたノーブルな「舞踏への勧誘」はベルリオーズの極めて優れたオーケストレーションと同様にもっと演奏されてもいい、素晴らしい編曲であると思います。演奏も実にこなれていて、決して簡単な作品とは言い切れないのですが、良くアンサンブルしていると思います。
 「魔弾の射手」序曲は、フルトヴェングラーが「古典形式の気品と清澄を持ち続けた」という評が実によく当てはまる演奏で、同じCDに入っているメンデルスゾーンの「スコットランド」(ロイヤル・フィルの演奏)と共に、彼の端正な演奏をよく表していると考えます。
 しかし、この時代のバーゼル交響楽団の演奏をこうしてまとめて聞けるとは思ってもいなかっただけに、これはちょっとした掘り出し物でした。

 さて、一九三五年にはウィーン国立歌劇場の総監督に就任。ナチスの声がいよいよ身近になっての就任でありましたが、翌年には辞任してウィーンを去っています。すでに七十二才となった巨匠はローザンヌに転居します。
 翌一九三七年には来日し、新交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)を指揮しています。来る前から新聞では世紀の大指揮者来日の話題で持ちきりとなり、日本のみなさんへという小さなピアノ小品が送られてきて、それが新聞に載るという、今日では考えられないようなマスコミでの扱いをうけています。
 戦前の日本で、それほどクラシック音楽が受け入れられていたかと思うと、ちょっと凄いことだなと思いますが、実際どうだったのでしょうね。
 
 ローザンヌに居を移してから後は、特にオーケストラのポストに就くことはせず、ウィーン、パリ、ロンドンのオーケストラに客演したり、EMIへのいくつかの録音を行っています。中にはドイツの名ピアニストでリストの弟子であったザウアーとのリストの二曲の協奏曲録音もありますが、これなどは今回の復刻で見違えるように良い音に「復活」しています。それを聞くと、ワインガルトナー自身、リストの最後の弟子として、ぜひこの曲を残したいとEMIに自身で掛け合い、録音させたということ、そして、その出来に非常に満足していたということがよくわかるのです。
 以前のLP盤ではモヤモヤしていて、二人会わせて百五十歳近い、茫洋とした演奏と感じていた細部がはっきりすることで、意外と鋭いアクセント、バランスなどかわかり、この演奏に対する多くの誤解が録音というか復刻の悪さのせいだったことを今更ながらに思い知らされます。

 ワインガルトナーは、一九四二年五月七日、ヴィンタートゥーアの病院で七八歳の生涯を閉じたのであります。
 戦前に亡くなった巨匠ということで、フルトヴェングラーやトスカニーニ、ワルターといった人たちよりも知名度は低いのですが、同様に世紀の大指揮者であることは疑う余地はありません。

 スイスとワインガルトナー、不思議な縁でつながっていたのですね。