ナチスと音楽家とスイス
 象徴的なCDがあります。晩年、スイスに住んだ名指揮者シューリヒトが一九三九年に、オランダのアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演してユダヤ人のグスタフ・マーラーの「大地の歌」を振った時、その終楽章の途中、およそ三分の二のところで、女性に声で「世界に冠たるドイツ帝国ですよ。 シューリヒトさん!」という言葉がはっきりと聞き取れます。
 演奏会の最中にご婦人が、大きな声で揶揄するように言っている言葉です。そのまま受け取れば、ドイツ人のあなたがどうしてユダヤ人の音楽なんて演奏するのかと言っているようにも思えますが、何となくですが、口調から、ドイツ人でナチスに属していると考えられたシューリヒト(実際にはそんなことはなかったのですが)に対して、あてつけのように言っているようにも思われます。
 いずれにしても、第二次大戦の中でヨーロッパの多くの人は、ナチスに対してどういう立場をとるかということを迫られていたことは確かです。そしてヨーロッパにおいては戦争がドイツとイタリアの敗戦によって戦争が終わることで、ナチスであったかどうかが違った価値のもとにさらされることとなったのです。

 トスカニーニはムッソリーニに対して明確な反ファシストの立場を貫き、アメリカでの自身のオーケストラとの仕事に専念するようになりました。名指揮者のフリッツ・ブッシュと名ヴァイオリニストのアドルフ・フリッツ・ブッシュもまたアメリカに逃れました。
Bruno Walter
1876-1962 ドイツ→アメリカ
 ユダヤ人であったブルーノ・ワルターは更に悲惨な体験の中から、アメリカに逃れています。ウィーン・フィルの指揮者であったワルターはこのドイツがオーストリアを併合する直前の一九三八年一月、マーラーの交響曲第九番を演奏していますが、オーストリア国内の親ナチ派から様々な嫌がらせを受け、異常な雰囲気の中での演奏が録音され今も聞くことが出来ます。この後、一九三八年三月、ワルターがアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演している時、ナチスがオーストリア併合します。そして彼はウィーンの自宅の全財産を失います。更にワルターの娘がナチスに逮捕されるという危機に遭遇しますが、様々な策略をめぐらして無事救出できました。
 この年、第一回ルツェルン音楽祭がひらかれ、招かれています。ブラームスの協奏曲の演奏が残されていますが、指揮がトスカニーニ、ピアノがホロヴィッツ、オケのトップにはブッシュが座り、客席にはワルター等そうそうたる音楽家が座っていたといいます。
 そしてその翌年、開戦間近の時、娘のロッテが夫によって射殺されるという事件が起こります。この悲劇はよほどのことであったと思われます。ワルター夫妻はフランス国籍を取得し、なおもヨーロッパに留まろうとしましたが、運命の九月一日。ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦がはじまり、ジェノヴァからワルターはニューヨークに逃れたのです。

 名ピアニストのアルフレッド・コルトーはスイスのレマン湖畔のローマ遺跡の残る古い町、ニヨンに生まれ、すぐにパリに出て育ちました。彼はフランスを中心にピアニストとして活躍します。ドビュッシーやラヴェルといった同時代の作品の紹介者として、そしてショパン、シューマンに対する他の追随を許さない演奏家として、ベートーヴェンやブラームスの優れた演奏家として世に認められます。そして一九一七年にはパリ音楽院のピアノ科教授に就任しますが、学校と意見が合わず辞任。一九一九年、自身でエコール・ノルマルを創設して後進を指導しました。リパッティをはじめ、多くの才能が彼のもとから育っていったのですから、素晴らしいことです。 しかし、彼はナチス・ドイツから招聘されて多くの演奏会を行ったことが、災いして戦後パリの音楽界からボイコットされます。一九四五年五月、ドイツが無条件降伏してヨーロッパでの戦闘は終わり、その直後のスイスの首都、ベルンでコルトーのリサイタルを聞いた音楽評論家の渡邊譲氏はすでに著しい衰えで、シューマンの交響的練習曲などは彼にはもう無理だったと書き残しています。
Alfred Cortot
1877-1962 フランス
 しかし、シューマンの謝肉祭では矍鑠たる演奏を聞かせ、ショパンのソナタでは圧倒的だったと書いていますので、盛時のコルトーからすればずいぶん衰えていたとは言え、いくつかのレパートリーではまだ第一級の演奏をしていたと思われます。
 しかし、若い頃から自分のピアニストとしてのホームグランドであったパリから拒否されたりして、彼の晩年は寂しいものであったようです。
Willem Mengelberg
1871-1951 オランダ
 それでもコルトーはまだ晩年、フランスの音楽界に復帰して活動できたのですから良かったというべきでしょう。ウィレム・メンゲルベルクは、オランダのアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の音楽監督として、大変な人気を博していた指揮者です。
 マーラーの演奏家として、そしてリヒャルト・シュトラウスの指揮で、またベートーヴェンをはじめとするドイツ・古典派からロマン派の作品の作品の指揮者として、そしてバッハのマタイ受難曲の演奏で、今もなお聞かれる指揮者であります。
 彼は、オランダのユトレヒトに一八七一年に生まれました。ワルターより五歳年長、マーラーの十一才年下で、リヒャルト・シュトラウスの七才年下であります。メンゲルベルクが一八九一年にスイスのルツェルンの楽長として指揮者の第一歩を刻んだ頃は、チューリッヒ湖畔に歌劇場が建てられた年でした。

ブラームスが定期的にスイスを訪れ、名作「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」などを残し、一八九五年には、チューリッヒにトーンハレがウィーンの建築会社ヘルマー&フェルナーによって建てられ、ブラームスの「運命の歌」でこけら落とし公演が行われた年です。そしてこの年、ルツェルンからメンゲルベルクはアムステルダムに呼び戻され、初代指揮者のウィレム・ケスのあとを受けて第二代指揮者に就任。その後五〇年にわたってこのオーケストラを率いることとなったのであります。
 さて、ウィレム・メンゲルベルクの人気はオランダだけでなくヨーロッパ中で大変高いもので、さらにはアメリカのニューヨーク・フィルハーモニーの指揮者もつとめ、ニューヨークでも凄まじい人気だったといいます。ニューヨーク・フィルの前任者はあのグスタフ・マーラーなのですからわかりますよね。
 彼はナチス・ドイツがオランダに侵攻した時、積極的にナチスに協力し、ドイツの占領地での演奏会などに出演を繰り返したのです。そしてこのことが戦後、戦犯として裁かれ、一九四七年に戦前に与えられていた全ての年金や名誉は剥奪され、以降十年間の演奏活動は禁止されたのでした。
 そして以前より持っていたスイスのグリゾン州のトゥーツの山荘で引退の日々を送ったのです。同僚たちがどんどん音楽界に復帰していくのを、見ているメンゲルベルクの悲しい思いは察するにあまりあるものと申せましょう。演奏禁止の期間を半分にして、彼は一九五二年に復帰が決まったのも束の間、その前年に惜しくも他界してしまいます。
 ナチスは多くの優れた音楽家を、自分たちの陣営に取り込もうとしたのですが、その最大の人はヴィルヘルム・フルトヴェングラーではないでしょうか。