ナチスと音楽家とスイス
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しかし、若い頃から自分のピアニストとしてのホームグランドであったパリから拒否されたりして、彼の晩年は寂しいものであったようです。
ブラームスが定期的にスイスを訪れ、名作「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」などを残し、一八九五年には、チューリッヒにトーンハレがウィーンの建築会社ヘルマー&フェルナーによって建てられ、ブラームスの「運命の歌」でこけら落とし公演が行われた年です。そしてこの年、ルツェルンからメンゲルベルクはアムステルダムに呼び戻され、初代指揮者のウィレム・ケスのあとを受けて第二代指揮者に就任。その後五〇年にわたってこのオーケストラを率いることとなったのであります。 さて、ウィレム・メンゲルベルクの人気はオランダだけでなくヨーロッパ中で大変高いもので、さらにはアメリカのニューヨーク・フィルハーモニーの指揮者もつとめ、ニューヨークでも凄まじい人気だったといいます。ニューヨーク・フィルの前任者はあのグスタフ・マーラーなのですからわかりますよね。 彼はナチス・ドイツがオランダに侵攻した時、積極的にナチスに協力し、ドイツの占領地での演奏会などに出演を繰り返したのです。そしてこのことが戦後、戦犯として裁かれ、一九四七年に戦前に与えられていた全ての年金や名誉は剥奪され、以降十年間の演奏活動は禁止されたのでした。 そして以前より持っていたスイスのグリゾン州のトゥーツの山荘で引退の日々を送ったのです。同僚たちがどんどん音楽界に復帰していくのを、見ているメンゲルベルクの悲しい思いは察するにあまりあるものと申せましょう。演奏禁止の期間を半分にして、彼は一九五二年に復帰が決まったのも束の間、その前年に惜しくも他界してしまいます。 ナチスは多くの優れた音楽家を、自分たちの陣営に取り込もうとしたのですが、その最大の人はヴィルヘルム・フルトヴェングラーではないでしょうか。 |
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