グリュイエールとザッヒャー、バルトーク

 パウル・ザッヒャーというスイスの指揮者は日本では、全くと言っていいほど無名です。以前、登場したクララ・ハスキルのモーツァルトの録音で、多少知られているかも知れませんが、その演奏が話題になったことは、ほとんど、全くと言っていいほどありません。
 バーゼル室内管弦楽団を率いていた彼は、大変なお金持ちだったそうで、同時代の様々な作曲家に作品を依頼して、初演をしています。
 言うなれば、現代音楽のパトロンとでも言いましょうか。アンセルメもそうでしたが、更に親分肌の所がアンセルメにはあって、いい意味での「音楽の政治家」とでもいった感じですが、ザッヒャーもそうだったのでしょうかねぇ。
 バルトークは晩年、アメリカに亡命したけれど、ハンガリーの民族性に深く根ざした、その音楽は、アッケラカンとしたアメリカ人たちには難解すぎたようで、あまり仕事もなく、貧しい中での晩年をおくったと伝記には書いています。自尊心が人一倍強く、気位が高すぎたこともその一因だったようですが、戦争さえなければ、どうだったでしょうね。

 戦前、アメリカに亡命する前に、バルトークはスイスの指揮者ザッヒャーと深く親交を結び、何度か彼のグリュイエール近くの山村に招待され、滞在しています。「グリュイエール近くの山間にある山荘」とある資料を見ながら、どこにその山荘があったのか、想像をたくましくしているのですが、恐らくはモレソンあたりではないかと思っているのですがね。

 一九三六年の夏、バルトークはザッヒャーにグリュイエールに招待され、再婚した夫人デッタ・バーストリと共にここを訪れています。この時、着手した作品が、今世紀に生まれた音楽の傑作のひとつ「弦・打・チェレスタの為の音楽」でありました。
 九月にハンガリーに戻った後、完成しています。

 この、あまりにハンガリー的で、緊迫感のある作品が牧歌的な環境の中、構想が練られていたことは、ちょっとした驚きです。
 某芸術大学に在学中、この曲を教材に、楽曲分析の講義があったことが、懐かしく思い出されます。

 この曲は勿論、ザッヒャーに捧げられ、翌年の一月二十二日にザッヒャー指揮バーゼル室内管弦楽団によってスイスのバーゼルで初演されています。

 さて、更に一九三九年夏、再びこのスイスの山荘を訪れ、八月二日から十七日のたった二週間あまりで、「弦楽のためのディヴェルティメント」を書き上げています。これもザッヒャーの依頼によるものでした。
 初演はザッヒャー指揮バーゼル室内管弦楽団によって、翌年の六月十一日にバーゼルで行われています。

 作曲のスピードが早いのは、当時、作曲家としての絶頂期にあったためで、作曲を落ち着いてする環境を与えられ、乗りにのって作られたからでしょう。
 そして、ザッヒャーは二十世紀の音楽の傑作のその誕生に、深く関わったことで、永遠に記憶されることになるのです。日本の音楽愛好家や、評論家の先生がみんな無視したとしても。