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ジュネーヴで結婚したヴェルディ
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十九世紀イタリアは、ナポレオンの没落以後、オーストリアの支配を受けていました。人々はイタリア統一に向けた数々の戦いに明け暮れていました。イタリア統一という人々の思いが交錯し、ヴェルディの歌劇「ナブッコ」は、シベリウスの「フィンランディア」のように愛国的な作品として、当時のイタリアの人々に熱狂的に迎えられます。
実際にイタリアが統一されたのは一八五九年からの戦いでありました。厳しい戦火をさけ、ジュネーヴを訪れていたヴェルディは、ここのノートルダム寺院のメルミヨー司教により、サレーヴ山の麓のコロンジュ・ス・サレーヴという村の小さな教会で二度目の結婚式をあげました。一度目は二十年あまり前のこと。最初の妻マルゲリータとは二児をもうけたのですが、わずか四年の後、病魔で失うという悲劇を経験しています。そうした悲しみの後にジュゼッピーナと出会い、十年以上一緒に住んだ後の結婚であったのです。
今は流行の地味婚ですが、ヴェルディのは燃え上がる戦火のため、イタリアからは誰も参列する者はなく、メルミヨー司教とヴェルディとジュゼッピーナの三人にその三人を乗せた馬車の御者、そして教会の鐘楼守だけのたった五人の結婚式だったそうです。
一八六一年に長いオーストリアとの戦争の末、イタリアは統一し独立を果たします。ヴェルディはすでに国の統一の象徴であり、統一イタリア王国の国会議員となっています。政治家としてのヴェルディの手腕はどうだったのかはわかりませんが、彼は引退した音楽家たちのための養老院をミラノに作っていますから、政治家としても、それなりに業績を残しているのですね。
スイスから帰り、国会議員となったヴェルディは、ロシアから依頼された「運命の力」、パリのオペラ座が依頼したシラー原作の「ドン・カルロ」を完成。そして「アイーダ」でヴェルディの作曲は頂点に向かうのでした。「シモン・ボッカネグラ」にレクイエム、晩年に至って書かれた「ファルスタッフ」と、アルプスの北側でワーグナーが大きな影響を与えていた時代に、頑ななまでにイタリア語の発音と、それによる音楽表現を追求したヴェルディは、極めてユニークに存在となったのであります。
この大きな変革の時代に生きた大音楽家の生活に、スイスはほんの少しだけ関わることとなりました。
この村の役場には二人の結婚の登記書が残っているそうです。
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