中国西北



(中国華北編から)

1.回教徒の町(西安、5月21〜29日)

 西安火車站からいろんなガイドブックに載っている人民大厦(D45元)に向かった。 ベットは空いていて、部屋に行ってみると北京の京華飯店で会った日本人旅行者と同じく京華飯店から来たノルウェー人の青年がいた。 北京から西安に行く旅行者は多い様だ。 北京が宋以降の都だが、西安を含む中原は黄河文明以来、数千年も王朝があった由緒ある地域なのだ。 中国の重要な観光ポイントの一つだから当然だろう。

 ここまで内陸に入ると空気がかなり乾燥していて、ほこりっぽい。 北京からの列車で知り合った董さんによると今年は黄砂が例年に無く多いらしい。 特に宿の周囲はすぐ側で団地の建設中からか?ひどかった。 乾燥していたので溜まった洗濯物は3時間後には乾いてしまった。

 洗濯が済んだら町の中心に出てみた。 西安の旧市街は今でも城壁に囲まれていた。 その西北部には回教徒の町と言っていいほど清真(回教)食堂があって、白い帽子をかぶった男性や被り物をした中高年の女性がいた。
 これだけ回教徒がいれば当然、モスクがある。 中国語では清真寺と書かれる。 ここの清真寺も観光ポイントで、中国内外の旅行者が訪れていた。 モスクというと今まで訪れたことがあるマレーシアやインドネシアのモスクは大抵、石造の大きなドームがあるものが多く日本人がイメージするモスクと大差ない。 インドネシアのカリマンタンなど木材が豊富な所では木造の小さなモスクもたくさんあった。 それでも石造モスクと基本的な構造は変わらないだろう。 ところが、ここ西安のモスクは東洋の木造仏教寺院と同じ構造で礼拝所はお寺の本堂そのものだった。 所変われば・・・だろうか? 不思議な感じがした。

 中華料理も回教徒のために豚を使わずに羊や牛を使ったものが多い。 東南アジアでは牛と鶏を使ったものが多かった。 ガイドブックに載っていて、董さんおすすめの包子の店には羊の包子があった。 また、羊チャーハンもある。 大連、北京でも見た串焼き屋も当然ある。 体毛が長い羊は暑さに弱いのだろう。 また、鶏は寒暖の差が激しい乾燥した土地にはなじめないのだろう。

2.2,200年の時を越えて(西安、5月23日)

 西安観光の目玉、始皇帝兵馬俑博物館を訪れた。 西安と言ってもバスで1時間ほどの距離だ。 朝、宿でのんびりしてから向かったので昼前に着いてしまった。 超有名観光地なので博物館周辺は土産物屋や紛らわしいパッチ物博物館が立ち並んでいて、中英日の3カ国語で営業している。

 博物館は主に1号坑から3号坑までの発掘現場に屋根をかけたものと1トンを越える銅製の大きな馬車など工芸品を展示した建物がある。
 もちろん、目玉は1号坑で大きな工場のようなかまぼこ型の屋根の建物だ。 ある程度、発掘されて復元された像があるがまだまだ未発掘のものもあるらしい。 像は高さ平均180cmで私と同じくらいだ。
 もう一つの目玉は銅製の馬車の模型だろう。 こちらの方は存在自体知らなかったので驚いてしまった。 2,200年前に作られたものということも驚きである。

 秦の始皇帝とはどんな人物だったのだろうか? 自分だけのためにこれだけ大規模な量の工芸品を作らせたり、小山の墓を作らせたり、他にも「アホ」という言葉の語源になった阿房宮(ばかばかしいほど大きかったそうな)などを作らせたり・・・。 それだけの力があったと言う事だろうが現代の我々の常識を超越した人物らしいということがとりあえず伺えるが。
 始皇帝の秦王朝やフランスのルイ王朝など、どんなに強くても民衆を搾取して強引に大規模な建造物を作った王朝、政府は民衆によってつぶされてしまうことが過去の歴史にある。 今の日本はどうなるのだろうか?

3.ここはどこ?(西安、5月25日)

 始皇帝の時代よりさらに溯る事4,000年、西安近郊の半坡という所にある遺跡博物館を訪れた。

考古学のことは詳しくないので専門家の方から御指摘があるかもしれないが、個人的に見た感じでは日本の弥生時代くらいに相当するのでは?と思われる甕棺墓などの焼き物や動物の骨などで作られた様々な道具などの発掘物の展示や兵馬俑のように遺跡をコンクリートの建物で囲った遺跡の展示があった。 十分に調査した後で建物を建てたのだろうか? 考古学に特別興味があるわけではない私には日本の弥生時代のものと区別がつかなかったので黄河文明に近いものを偲ぶ程度だった。

 この博物館には当時の人々の生活を再現する目的なのか?「原始村」と言うべきなのだろうか?従業員が誰かが勝手に想像したらしいコスチュームで身を包み、掃除をしたりレストランでウエイター・ウエイトレスをしたり1日数回踊りをする時間がある。 まさに金曜の夜11時に放送される「探偵ナイトスクープ」で桂小枝がレポートする「パラダイス」の世界だ。

 遺跡の他に2つの展示館があった。 一つはこの遺跡の時代と同じ生活をしていると思われるアフリカ、中南米、ニューギニアの裸族の展示だった。 意図することはなんとなくわかるが、ヌード写真の公開の規制が日本より厳しい中国では単なる見世物になってしまう。
 もう一つは「人体の神秘」らしいタイトルの展示で、大体想像はついたが性教育の展示だった。
現在の日本の性教育はどのようになっているか知らないが、ここでは人体(死体)のホルマリン漬けや性器の部分だけ切り取ったホルマリン漬け、写真などを使った展示だった。 性病にかかった性器の写真もあったりと食事前にはあまり見たくない展示だった。 しかし、「パラダイス」や「裸族」の展示は遺跡との係わりがあるが「性教育」はどんな関係なのだろうか?「ここはどこ?」と思いたくなってしまった。

4.国際都市長安(西安、5月26日)

 西安とその周辺から発掘された過去の遺物を展示した陜西省歴史博物館を訪れた。

 展示は旧石器時代、昨日訪れた半坡のもの、始皇帝から唐までの王朝の首都だったものに明、清に到る、歴史の町西安にふさわしい幅広い時代の展示だった。 内容も昨日の「パラダイス」とは大違いで充実していた。

 石器時代と始皇帝物は程々に、唐の展示を中心に見学した。
当時の城壁があった場所を現在の地図と重ねあわせた展示があった。 現在でも明時代の城壁が残っているが、唐の時代はその4倍くらいの面積の土地が城壁で囲まれていたらしい。 他には国際都市だったことを偲ばせる各地のコイン、西域の人らしい焼き物などがあった。 日本の高松塚古墳の壁画も展示されていた。

 宿で会った西安を訪れた人達は大抵2泊で移動してしまう。 いろいろ都合があるだろうが、ここを訪れただけでも価値があると思う。
 

5.辛い移動(西安→広州、5月29、30日)

 25日に「大体、29日に西安を出ればいいだろう。」と思い、広州行きの硬臥切符を手に入れた。 最初は西安で中国ビザを延長してから福建省を訪れて、香港で6ヶ月ビザを取るつもりだった。 ある朝、宿で食事をしていると西洋人が「今日は広州経由で香港に向かう。」という話を聞いて気が変わってしまった。 中国には10月一杯までの滞在を考えていたのでビザを延長してもしなくても同じなのだ。 むしろ延長の手間を考えると早々に香港に出て6ヶ月ビザを取った方がいいと思い直して西洋人と同じ(恐らく)列車で広州に向かう事にした。 福建省はビザを取り直してから訪れることにした。

 ところが、その後かぜをひいてしまい27、28日と休養した。 喉と鼻に炎症を起こした軽いかぜだったので大丈夫だろうと鷹をくくった。 その考えは甘かった。

 列車は朝の10時前発だったが、通勤ラッシュを避けるために同室の皆には申し訳ないが7時半に宿を出た。 予想通り、バスは込んでいた。 余裕を持って1台見送ると次のバスは空いていた。 しかし、道路の渋滞などで1時間後に駅に着いた。
 今回も始発駅からの乗車なので早めに乗車できた。 キップに「中」と書かれていたので想像できたが、今回は1階建て車両の3段ベットの中段だった。 車窓は黄河が刻んだ河岸段丘に収穫間近の麦畑だった。 この麦畑の利権争いが数千年続いたということだろう。
 時刻表で調べると、この列車は初日は昼間に中原を走る。 夜中に揚子江を越えて翌朝には田園風景が見られる事が予想できた。

 この列車は空調の効きすぎか?乾燥していてせきや痰がひどくなっていた。 夜に横になってもなかなか眠れなかったが、なんとか眠れた。 しかし、夜中に目が覚めるとせきが悪化して胸が痛くて苦しかった。 時刻表では夜中の0時台に武漢に着く事になっていたので車掌のおばちゃんに事情を話して降りる事を考えた。 しかし、夜中の都会を歩く事には抵抗があったので朝まで我慢する事にした。

 また少し寝てから気が付くとオレンジ色の街灯がたくさん灯っていた。 武漢の町らしい。 北京から香港、広州を結ぶ南北、上海、青島など沿岸部と重慶、成都、昆明など内陸部を結ぶ東西の接点に位置する武漢は交通の要所らしくたくさんの列車とすれ違った。 そのうち、何かの構造物の下に入ると川を渡りはじめた。 揚子江だ。 渡り終えると隣に道路が通っていて夜中にも係わらずトラックがたくさん走っていた。 瀬戸大橋を渡った事がある私には意外と短く感じた。 武漢の町を離れると再び眠りに就いてしまった。

 翌朝、気が付くと昨日より胸の痛みとせきは緩和されていた。 様子を見て香港に向かう事にした。
 予想通り、車窓は田園風景だった。 中原には緑が少なく感じたが、緑で覆われた土地が続いた。 低湿地なのか?川や池が多かった。 小雨だったので一層前よりも湿度の高い所に来た事を実感させられた。 その中を編み笠をかぶった人が小さな船を漕いでいる。 東南アジアに近づいたような風景だった。

 広東省に入ると今度は空が晴れて、山の中を進む車窓となった。 少ない平地には亜熱帯らしい木々が生えていた。 山が多く平地が少ないので次男、三男は生活できず、海外に出ていって現在の華僑となったらしい。

 いくつかトンネルを抜けると少しずつ建物が増えてきた。 中国の都市部にありがちなアパートが見えると空港が近いのか?飛行機が飛んでいるのが見えた。
長距離のためか?時刻表に書かれた定刻より1時間遅れの午後3時に列車は広州火車站に到着した。

 長距離の鉄道の旅は疲れるが、車窓の変化を生で見れる醍醐味がある。 特に乾燥麦作平原地帯、湿潤米作平原地帯、亜熱帯山岳地帯の3つの異なる自然環境、人の暮らしを眺められるのは大陸横断鉄道ならではだろう。

6.国境への豪華バス(広州→深[土川]、5月30日)

 列車を降りると辺りは暑く湿った空気に変わっていた。 すぐに長袖のシャツを脱いでTシャツだけになったが、汗が止まらない。
 香港へ向かうため、火車站の向かい側にあるバス・ターミナルから深[土川]行きのバスに乗車した。 所要時間2時間だが、60元と中国にしては高価な運賃だ。 日本の夜行バスと似たような中国にしては豪華な車両で若い女の子の車掌が添乗していた。 ミネラル・ウォーターのサービスもあって、高速道路で飛ばすので高くても仕方ないだろう。

 去年の年末に通過した時は早朝だったので車窓の様子がわからなかったが、今回は明るいので堪能できる。

 前回でも伺えられたが、広州は大都市で、高層ビルが立ち並ぶ市街地の周囲に環状の高速道路が走っている。 交通量はかなりのもので、トンネル付近で渋滞するくらいだ。 環状道路の他にも周囲の都市への高速道路網ができているらしい。 香港が間近にあるためか?広東省は中国内で有数の先進地らしい。

 深[土川]への高速に入ると倉庫や工場がある都市近郊の風景になったが、意外と農地がたくさんあった。 台湾で見かけた池の周囲を柵で囲ったあひるなどの放し飼い養鶏場やバナナらしい農園があった。 低地では川を木造船が行き交う東南アジアらしい所があった。
 しかし、広州と深[土川]の間にある東莞市に入ると様子が変わった。 工場が増えて、従業員寮らしいアパートには作業着らしい同じ服がたくさん干してあった。 どのアパートも作業着が干してあったのでかなりの人間が工場で働いているのだろう。

 途中で高速を降りて経済特区の境界の検問で審査を受けた。 香港人か特区在住らしい大抵の人はIDカードを見せただけだが私はビザまでチェックされた。 前回はパスポートの表紙だけ見ておしまいだったのでその辺は場所や公安次第なのだろうか?

 海岸に出た所で停車して何人か降りた。 海の向こうには稜線に柵を張った山が見えた。 そこは香港らしい。 この辺まで来ると新しく整備された町並みで、今までの中国とは別世界だ。 土木作業員や清掃員以外は皆小奇麗な服装をしている。 古いビルが若干あるだけでほとんどが新しいビルだ。
 夕方の6時ころにバスは深[土川]火車站近くのバスターミナルに到着した。 賑やかな広東語の発音が聞こえてくる。 香港人が多いらしい。 ここから歩いてすぐの所にイミグレーションがある。 出国審査を済ませて川に架かる橋を渡ると香港だ。

(香港2編へ)

(香港2編から)

7.大陸横断鉄道(広州→蘭州、9月8〜12日)

 香港、旺角からのバスは一部が広州の外国人宿、省外事弁招待所(D50元)の近くの沙面勝利賓館まで行くので便利だ。 宿を決めてから広州の市街地の東、白雲路にある中国国鉄の切符売場に行って簡単に翌々日の9月10日広州発蘭州行きの硬臥の切符が取れた。

 広州を経つ日に食料を買って昼過ぎに広州火車站に行って待合室で待って1時間前にホームに行けた。 普段ならここで乗車できるのだが、この時はなぜか服務員のおばさんがのんびりしていてなかなかドアを開けてくれなかった。 しかも二つのドアのどちらが開くかはっきりしないので乗客は右往左往。 頭に来て「ガウチョー」(広東語でチクショウ!などの意味の俗語)というと別の女の人も「ガウチョー」と言った。 先が思いやられる。

 やっとドアが開くと予想通り2泊3日の長旅なので荷物を置く網棚の場所の取り合いになった。 それが終わると落ち着いて、時間があり余る程あるので隣近所と話し合いが始まった。 所要時間が長くなるほど隣近所と話しがしたくなるものだ。 中国の2等寝台、硬臥は大抵3段ベットが向かい合い6人が同じマスに収まる事になっている。 今回は珍しくほとんどのマスの人と話しをした。 峡西省咸陽市の学校に戻る広東出身の学生、仕事で広東にいて峡西省宝鶏の家で中秋節を迎えるおばさん二人組み、働いている深[土川]から実家がある蘭州へ帰省する20過ぎくらいの笑顔がかわいい女の子と中秋節がらみの移動が多いらしい。

 特におばさん二人組みがおしゃべりで広東に対抗意識を持っているのか?学生と終わり無き「北対南論争」をしていた。 日本で言えば「東京対大阪」といった所か?
 女の子は深[土川]のホテルで外国人相手に仕事をしていただけあって世間話ができるくらい英語が話せた。 学生とおばさんの一人は会話は出来ないがある程度英単語を知っていたので中国語がろくに話せない私に結構付き合ってくれた。 こんな機会がもっとあれば中国語はもっと話せたのにと悔やむ気持ちだ。

 話していて面白かったのが習慣の違いだった。 やはり広東人の学生は辛いものが苦手で、蘭州人の女の子は辛くない広東料理が好きじゃないそうだ。 おばさんたちは広東語を「鳥の言葉」と言っていた。 中国を旅行していて面白いのが地方毎に文化が違うことだ。 共通点があるものの、統一性が無いのが中国の短所であり長所でもある。

 2日目の夜に着いた西安で乗客の半分が降りた。 おばさんの一人も西安火車站にかわいらしい娘さんが車で迎えに来ていたので途中下車した。 学生は次の咸陽で降りた。 残ったおばさんは夜中に宝鶏で降りる事になっていた。 しばらく話していたがお互い疲れたのでお別れを言って横になった。 気が付くと彼女はいなくなっていた。

 3日目の朝に景色が一変していた。 木がほとんど無いがジャガイモやトウモロコシの畑がある黄砂の台地が広がっていた。 ここで始めて動物園以外でロバを見た。 ここでは農耕で使っているらしい。 人々の服装はホコリを被っていて明らかに所得が低そうだ。 今年で深[土川]など経済特区が出来てから20年経っている。 経済特区はテレビのニュースで「偉大な成果」として20周年特集で紹介されているがこちらは20年前と変りない感じだ。 その辺は「西部大開発」で対処するらしいが。
 外の景色を生で見るのは初めてと蘭州人の女の子に話すと「日本にはこういう所は無いの?」と聞かれてしまった。 蘭州には午前11時前に着いたが彼女のお陰で最後まで楽しい汽車の旅になった。

 汽車の旅で一緒だった人達から指摘があった通り、列車を降りると涼しい秋に季節が変わっていた。 香港で教えてもらった外国人が宿泊できるホテル、蘭州賓館(D40元)まで歩いて無事チェックインした。

8.ラーメンの町(蘭州、9月12〜15日)

 日本人にはなじみがないが、中国では蘭州は牛肉の細切れがのったラーメン、牛肉面で有名な町だ。 宿でシャワーを浴びて、洗濯をしてから食事に出た。

 宿から大通りを少し歩いた角を曲がったところのイスラム教徒の食堂である「清真」の看板を出した食堂に入ってみた。 食券を売っていたのは顔つき、化粧の仕方、パーマかもしれないが少し縮れた髪がどことなく西洋的な女性だった。 朝見た車窓といい、また「新しい世界」、「別の中国」に来た事を実感させられる。

 牛肉面の事を聞くと大でも1.7元らしい。 沿岸部では大体、小で3元、大で5元だったのでとても安く感じる。 こういうところにも格差が感じられる。 大を注文して出来たものを見ると沿岸部のものよりも肉が少ない。 なるほど、いくら経済的に格差があってもこれなら安いだろうと思った。 
 やはり本場だけあって面は旨かった。 スープは薄味にしてあって、きゅうすに入った酢醤油やカラシで思い思いに味付けするので香菜が我慢できれば日本人でも大丈夫だろう。

店のおじさんは中国の下町によくいる明るい人で、中国語が下手なので「こいつは何者なのか?」と思ったのだろう。 「おまえはどこの人間だ?」と聞かれたので答えると「中国語上手いなあ。」といって笑っていた。 食券を売っていた女性も笑っていた。

 次の日に別の「清真」食堂で牛肉面を頼んでみたが無いらしい。 「炒面片」ならあるよ。 小は3.5元、大は4元だよ。」 少し高いと思ったが、聞いた事が無かったので興味本位で小を頼んでみた。
 出来たものは名古屋のきしめんの倍の幅の面をぶつ切りにして牛の細切れ、ジャガイモ、玉ねぎ、ピーマンの細切れを一緒に炒めたしっとりとしたやきそばで、ボリュームがあった。 味もなかなかである。 これなら牛肉面より高くなるなと納得した。 少々カラシが入っているものの、イタリアのパスタに近い感じなのでこれなら西洋人でも食べられるのではと思った。

 ここの食堂は夫婦らしい男女と若い女の子の3人で、夫婦は漢人と明らかに違った風貌だった。 どちらかというとすらっとした漢人と違って二人ともずんぐりした体型で、奥さんらしい女性は目がぎょろっとしてまつげが長いどこか西洋的な顔立ちだった。 他の清真食堂でもずんぐりして目が大きいどこか西洋的な顔立ちで肌が白く、髪と瞳が茶色い人が多い。 広州からの列車で一緒だった蘭州出身の女の子は肌が浅黒くて、広東や福建でもいそうな感じだったが、この地域では漢人も色素が薄いのか?髪の毛や瞳が茶色の女性が多い。

9.不愉快な予約(蘭州、9月14,15日)

 広州で1日休んだものの、香港で動き回ったのと蘭州初日で買い物に歩いたせいか?蘭州に着いた翌日から体がだるくなった。 それでもこの町は北京ほどではないが、大気汚染が中国では悪い方なのでだらだらしているとまた肺炎になるのを恐れたのと移動が難しくなる中国の大行楽シーズンである建国記念日にあたる10月1日の国慶節の1週間前に新疆ウイグル自治区トルファンに着きたかったので次の目的地、万里の長城の西の果ての嘉峪関へ向かう事にした。

 蘭州火車站に行ってみると切符売場に例によって長蛇の列が続いていた。 駅員に外国人優先の外国人窓口があるか聞いてみたがここには無かった。 割り込むダフ屋を振り払い、並んでみたのだが案の定、翌日夜9時発の嘉峪関への硬臥は無かった。 そうなると代理店へ行くしかない。 駅前のホテルに併設された代理店で手数料を聞くと40元とのこと。 それなら宿泊しているホテルの代理店で50元と言われても差が無いのでホテルに戻って聞いてみると30元で、夕方5時受け取りなのでお願いした。

 5時に少し遅れて行くと担当の女性はいなかった。 別の英語が話せた女性に聞くと「今いないから少し経ってから来い。」と言ったので閉店の6時前に来てみると「明日の朝に来い。」と信頼を損なう事を平気で言った。
 仕方ないので翌朝行くと担当は「昼に来い。」と言い出したのでさすがに頭に来て「今、よこせ!」と紙に書いた。 日本以外のアジアの国では大抵、昼の12時がチェックアウト時間だ。 中国では午前12時を過ぎて午後6時まで部屋にいたら1泊の半額を請求される。 切符が取れるかどうかわからない状況だったので、もし切符が取れなかったら少なくとも12時過ぎでもチェックアウトできない。 かといって逃げられたのではたまらないので代理店の前で待っていた。
 結局、担当の言う通りで12時前に切符を受け取れた。 待っている間に具合が悪くなったので結局夕方まで部屋にいる事にした。 だったら最初から「翌日昼に受け取り。」と言えばよいものの、小出しにして言うので信用できなくなるのだ。 オマケに英語が話せる女性が私の英語が自分より下手なのでイヤミな態度に出たのでなおさら不愉快だった。
 日本より経済的に遅れている国に共通している事だが、「自分より英語が下手」というだけで見下した態度に出る不愉快な人間が少なくない。

 大抵の国では「田舎ほど人がいい」と言われているが中国では田舎ほど「礼儀知らずで何をしだすかわからない」し教育を受けても態度が大きい人間がいるので一番人がいいのは「都市部の下町の人達」なのだろうか?

10.明るい広東人(蘭州→嘉峪関、9月15,16日)

 部屋で2時間ほど横になると少しは楽になったので予定通り嘉峪関へ向かう事にした。
 夕方の6時まで部屋にいて、8時過ぎに列車に乗り込むと、広東語が聞こえてきた。 どうやら広東からの団体さんと一緒らしい。 荷物を網棚に上げるのを手伝ってもらったので、「広東の人ですか?」と聞くと若い女性は「私は蘭州です。」と言ったが若い青年は「私は広東です。」と言った。 私の事も聞いてきたので彼らに話すと青年の方は随分ご機嫌な感じで「中国語を教えるよ!」と言った。 最初は酒でも飲んで出来上がったのかと思ったが普通らしい。

 団体さんの寝台の場所が決まると青年が色々話し掛けてきた。 大体質問はどこでも一緒だ。 私の身分(事実を説明するといろいろ面倒なので1ヶ月で蘭州から新疆を旅行しに来た25歳の大学3年生ということにした)、日本人の月収(中産階級には事実を話した方がいいと思う。 20〜30年ローンで4千万円の家を買わなければならない事を説明すると日本人の生活の苦労がわかってもらえる。)、日本の物価など・・・。

 彼はこの団体の添乗員で9日で蘭州、嘉峪関、敦煌、トルファン、ウルムチ、イリと甘粛省、新疆を縦断するらしい。 ツアーの費用は約10万円で飛行機に4回乗るので日本の感覚では安いかもしれないが、庶民の月収が3千円しないことを考えると広東人の生活水準の高さがうかがえる。
 彼は今、28歳で今の仕事を始めて5年目らしい。 そんな感じがしない若々しい青年だった。
 蘭州の彼女は7月に蘭州大学を卒業したばかりで3ヶ月目だそうだ。 彼女は甘粛省内でガイドを勤めているらしい。 23歳だけど落ち着いた感じなので青年添乗員から「彼女は子供が3人いるよ!」とからかわれていた。  本人は謙遜していたが、結構英語が話せたので会話が楽だった。
 同じマスには他にこの列車の終点の石油の町、玉門まで行く美人で一見気難しそうだがおしゃべり大好きなおばさんとおとなしくて人がよさそうな制服を着てなければ軍人に見えない解放軍の青年がいた。
 この列車は21時発だったのでみんなさっさと寝てしまうだろうと思ったので意外な展開だった。 結局、消灯後の11時くらいまでしゃべっていた。

 翌朝、また外の景色が変わっていた。 はるか彼方に高い山々、ポプラみたいな防風林にトウモロコシの畑と北海道の十勝地方みたいだった。
 食事が終わって暇になった添乗員たちと話しをしていると木が無い荒涼とした山々が見えた。 湧き水があるのだろうか?畑を潤す水路に大量の水が流れていた。 動物園以外で初めて見たラクダもいた。 広東の人達も初めてだったらしく、指をさしていた。 そのうち、畑が無くなり草が点々と生えている荒れ地になって木の無い山の彼方に雪山が見えてきた。 添乗員たちのはなしによるとここもゴビ砂漠らしい。 また「新しい世界」に来たらしい。

 中国人は仲良くなると「もういい!」と言うくらい食べ物をあげたりすることがある。 広東の添乗員もそういう人で、前の晩に話しが弾むと梨、魚の缶詰、ミネラルウオーターと荷物が重くなってしまった。 嘉峪関に着く前になるべく食べてしまおうと朝に缶詰を食べた。 塩加減が日本人向きでまずまずだったが、油が多かったのでお腹が一杯になってしまった。 降りる支度をして缶詰を食べてしまったことがわかると「これも食べてよ」と言って無理矢理渡された。 複雑な心境だった。

 嘉峪関に着く前に蘭州の添乗員から「一緒に行かない?」と誘われたが、体調がイマイチだったので残念だったが断った。 彼らはその日のうちに敦煌へ向かうらしい。 仕事に就いた彼女は新米とは思えないほど堂々としていた。 オリンピックの中国の女子選手もインタビューには堂々と答えていて緊張した雰囲気が無かった。 日本人なら「こうしたら、後でどうなるかな?」と色々考えたりするが、中国人は日本人みたいに考えすぎるということが少ないからかな?と思うがどうだろうか?

 添乗員たちと別れを告げて火車站から市バスに乗ってホテルがある市街へ向かった。 嘉峪関は鉄鋼の町なのだが意外と空気が澄んでいて、人口密度が中国の町にしては低いらしく閑散としていた。 なんだか釧路や根室といった北海道の街みたいだった。
 バスの運転手と車掌のおばさんが気を利かせて宿泊先を聞いて近くのバス停で教えてくれた。 宿泊したホテル、嘉峪関賓館はこの町で随一のホテルらしい。 賓館、飯店といった中国のホテルにありがちなのだが、一見入りづらそうな高級ホテルでも脇の古い建物に安い相部屋が用意されていることがある。 ここの相部屋は1泊19元。 シーズンオフだったのか?トリプルの部屋を一人占めしてしまった。

11.万里の長城の西端(嘉峪関、9月17日)

 嘉峪関の町に到着した翌日、自転車を借りて城塞を訪れた。

 嘉峪関の町は規模が小さく、自転車で10分行くとすぐに町を外れて郊外に出た。 鉄道の陸橋を渡ると左手に昨日見た砂漠と雪山が、右手にはこの町を支えている製鉄所が見えた。 正面には3つの瓦屋根の城塞も見えた。 これなら歩いてでも行けたのでは?と思ったが、それから入口まで20分と意外と時間がかかってしまった。

 中国の町の遺跡にありがちだが、ここも明朝から清朝に建てられたものだった。 中に入ると修復されたのだろうが、建物はきれいで木が植えてあったのでそれほど荒涼とした感じはなかったが、屋上に上がると砂漠の荒涼とした景色が広がっていた。
 城塞は近くに公園を建設中で将来は色々建物が建つらしい。 そうして入場料を値上げするのは止めて欲しい。

 その日は午後にホテルに戻ってのんびりした。

12.砂漠は海(嘉峪関→敦煌、9月18日)

 嘉峪関に着いた翌々日の18日の朝にバスで莫高窟で有名な敦煌へ向かった。

 乗ったバスはインドネシア以来の古いバスに乗客を詰め込み、荷物を屋根に載せたものだった。 いつ故障してもおかしくない代物だったが幹線道路を行くのでまだマシだろうと思った。

 一応9時発だったが、ある程度席が埋まった9時30分に嘉峪関のバスターミナルを発った。 バスターミナルを出てからも嘉峪関市内で客を何人か拾って郊外に出るとほぼ満席になった。 嘉峪関の城塞を通り過ぎると砂漠が一面に広がり、次第に西域に向かっている事を感じた。 景色はなかなかのもので、詩人なら一句の詩を、作曲家なら1つの曲を思い付くだろうが凡人の私には表現のしようが無かった。

 所々にかつて狼煙台として使われたらしい煉瓦の塔や遺跡らしい土壁が見えて、林で覆われたオアシスの集落を途中いくつか通過した。 暑い昼過ぎには水平線に湖のようなものが見えて、山が湖に浮かぶ島に見えたがこれは蜃気楼だろう。 砂を巻き上げたつむじ風もいくつか見えた。

 こんな景色を見て2年前に日本の南西諸島を訪れたときの事を思い出した。 空の高さ、雲の形が似ているのだ。 さしずめ、オアシスの集落は小島、砂漠は海と言った感じだろうか?
 ただ、海は多くの恵みを生み出すが、砂漠は何も生み出さないという違いがあるが。

 午後4時過ぎに大きな林が見えてきた。 バスは林の中に入ると白い実を付けた植物の畑の中を進んだ。 綿畑らしい。 蘭州を過ぎてから移動のたびに新しいものを見かける。 橋を渡ると敦煌の市街に入った。
 チケット売り場では所要6時間とのことだが、例によって2時間遅れの8時間後の夕方5時に敦煌のバスターミナルに着いた。

 宿は旅行人のガイドブック「シルクロード」に載っているバスターミナルのそばの飛天賓館(D20元)にした。 案内された部屋には日本人旅行者が何人かいた。 こんなに個人旅行者をみるのは久しぶりである。

13.砂山(敦煌、9月18日)

 ホテルに着いてからすぐに同じ部屋にいた日本人の学生と一緒にこの町の名所の一つ、鳴砂山へ向かった。

 鳴砂山は高さ何十メートルだろうか? こんな大きな砂山を見たのは初めてである。 ラクダに乗って観光することも出来るが、歩いて登る事にした。(それでも階段を使うと5元かかるが) 斜面はゲレンデスキー場の中級コースくらいはありそうな傾斜だった。 一つのピークにたどり着くと北に敦煌の町が、南に果てしなく続く砂山が見えた。
 ここも中国の観光名所の一つだけあって、大勢の中国人の団体が登っていた。 日本人の団体もいた。 皆、童心に帰って砂に戯れていた。 私も砂に触るのは今年の初めの沖縄以来である。

 日没には砂山は違った表情を見せた。 日が沈むと団体さんは一斉に帰ってしまい、砂山には私とイオリ君だけになった。 日が沈んで暗くなるとたくさんの星が見えた。 これも沖縄以来であった。 水平線には砂ホコリか?もやがかかっていたので視界が悪かったが。
 中国は広い国土にも係わらず、タイムゾーンがGMT-8の一つしかない。 この町は北京から2,000kmは離れているだろうか?日没は7時半だった。 1時間ほど星空を見てホテルには10時に戻った。

14.砂漠の中の美術館(敦煌、9月19日)

 敦煌に着いた翌日、この町随一の名所で世界遺産に登録されている莫高窟を訪れた。

 一緒に行く人がいればミニバスをチャーターしても痛くない金額なのだがこの日は私一人だったので交渉の末、1台30元で手を打った。
 町を離れてから30分で到着、券売所で日本語ガイド付きの86元の券を購入した。 お金はケチるだけでなく、掛けるところでは掛けるべきである。 日本語の説明なら一層楽しいものになるだろう。

 日本語のガイドは個人に付くわけでなく、別の団体さんに付いて行く形式だ。 私は広島の中国新聞企画の団体さんに入れてもらった。 汚い旅行者にも係わらず団体の皆さんのお仲間にさせてもらった。

 莫高窟は川が削った台地の崖に掘られた穴に壁画や彫像を収めた所でいくつか窟を見たが、特別に60元の追加料金を払って入った57窟の壁画は素晴らしかった。 写実的な観音菩薩の壁画で、平山郁夫が「恋人」と言うくらいらしい。 これを見てしまった後では全てが霞んでしまったのであまり印象に残ってない。
 約2時間半だったが、これはごく一部で全て見るには数日かかるらしい。

15.硬い座席はいかが?(敦煌→トルファン、9月20,21日)

 莫高窟を見た翌日に敦煌を発ち、中国最後の目玉である新疆ウイグル自治区へ向かう事にした。 できればバスでのんびり移動して変化を楽しみたかったが、混雑が予想される中国の建国記念日である「国慶節」休みの1週間前に近づいていたので鉄道を使って一晩で一気に700km離れたトルファンへ向かう事にした。

 普段は事前に旅行代理店を使って2等寝台「硬臥」の切符を手に入れるのだが、敦煌の町中の代理店は手数料が80元するので直接火車站で2等座席の「硬座」の切符を購入することにした。 なぜ、手数料が高いかと言うと敦煌の町が最寄りの敦煌火車站から100km以上離れているからだ。

 幸い夕方に敦煌始発のウルムチ行き列車があったので、昼過ぎまで宿でのんびりして4時のバスで火車站へ向かった。
 綿畑が広がる敦煌のオアシスを過ぎると再び砂漠の中を進んだ。 旅行人のガイドブック「シルクロード」には3時間と書いてあったが2時間ほどで敦煌火車站前に着いた。 今年4月発売の時刻表には「柳園」が駅名だったが、目の前にあったのは「敦煌火車站」だった。 建物が新しかったので新築ついでに駅名をよその人にわかりやすい「敦煌」に更えたのだろう。
 実のところ、座席でも切符が手に入るか不安だったが服務員のおばさんはあっさり発券してくれた。

 食事を済ませて7時前に火車站で並ぶと案の定、広東語が聞こえてきた。 私が乗る列車は広東からの観光客のためと言った感じだった。
 発車の30分前の7時10分に改札が始まった。 硬座は荷物の多い田舎の人が多く利用するイメージがあったので急いで座席を探したが、車内はガラガラだった。 荷物を網棚に置いて落ち着くとこの車両にも広東からの団体が乗ってきた。 寝台からあぶれた団体だろうか?これでは寝台の確保は難しいだろう。

 硬座の座席は日本の新幹線みたいに横に3列2列で私は幸い2列側だった。 同じ区画には漢人らしい男女と白い帽子を被った瞳の色が薄いおじさんがいた。 彼は恐らくウイグル人だろう。 口数の少ないまじめそうな人で列車が発車すると西に向かってお祈りを始めた。 漢人の男女は切符の検札が終わると隣の車両へ移ってしまった。 どうやらガラガラらしい。

 日が出ているうちは夕暮れの砂漠の景色を楽しめたが日が沈むとする事がなくなってしまった。 寝台なら横になることができるが、座席なのでそれは出来ない。
 次の停車火車站で駅名にアラビア文字が併記されていた。 アラビア文字は多分、ウイグル語だろう。 すでに新疆に入っていたらしい。
 発車して3時間後の12時前に新疆で最初の大きな町、ハミに着いた。 ここでにぎやかな広東からの団体さんが降りてしまい、車内はさらにガラガラになった。 バスではこの町が敦煌→トルファンの間では中間にあたるのだが、鉄道では6時間かかってしまう。 線路の都合だろうか?

 いくつか火車站に停車してから定刻の6時17分より少し早い6時頃にトルファン火車站に到着した。
 観光地にありがちだが、火車站を降りると久々に日本語での出迎えを受けた。 日本語を話した男は敦煌の外人向けカフェで「あやしいウイグル人」と書かれていた「リキヤ君」だった。 「バスは無いからタクシーに乗って。」などとすぐわかるウソを平気につく。 案の定、少し歩くと大声で「トルファン!」と叫んでいた男のそばにマイクロバスが止まっていた。
 バスに乗って約30分でトルファンの町に着いた。 ここも火車站と町が離れているのだ。 バスターミナルを出ると小学生くらいの男の子達の「ハロー!」という出迎えを受けた。 こういう出迎えなら大歓迎である。
 宿はバスターミナルから10分のトルファン賓館(D32元)にした。

(中国新疆編へ)

ユーラシア横断旅行記へ戻る

アジアを行くへ戻る



トップページに戻る