第7日(平壌滞在)


 午前中は、チョソン・ヒョンミョン・パンムルグァン(朝鮮革命博物館)を見学した。ここでは、高校までを日本で暮らしたという、帰国者の女性のチェチャソン(崔慈仙?)さんが日本語で説明をしてくれた。朝鮮革命はいくつかの時期に分けれるが、全部を説明すると大変なので、今日は抗日革命闘争の時代と、現代の革命の2つに絞ってお話しします、ということであった。

 「朝鮮革命闘争は、狭義に捉えると、1925年に金日成主席が抗日革命闘争を起こすために故郷をあとにしたときに始まる、と言えますが、もっと広い意味に捉えて、朝鮮に侵入しようとする帝国主義的外国勢力を排除するための革命闘争まで含むと考えますと、それは1866年のシャーマン号事件や1875年の江華島事件などにまで溯ると考えるべきです」

と崔さんは切り出した。シャーマン号事件はアメリカの帆船シャーマン号がスパイ目的で大同江を遡り、平壌にまで侵入した事件で、これを打破したのが金日成主席の祖父、江華島事件は日本の軍艦が測量を名目に朝鮮領海に接近し、水の補給のためと称して江華島に上陸しようとして武力衝突になった事件で、これを打破したのも金日成主席の祖父、その後、朝鮮半島の植民地化を狙う日本が引き起こした数々の事件を打破したのは金日成主席の父、というような内容であった。

 聞いていて面白かったのは、1909年に伊藤博文をハルピン駅頭で暗殺した安重根の評価であった。安重根が英雄である韓国とは違って、北朝鮮では安重根は愚か者の代表になっていた。力もないのに伊藤博文の暗殺を計画し、暗殺そのものには偶然成功したものの後が続かず、自身は逮捕されて処刑されるのみならず、日朝(韓)併合の直接のきっかけを作ってしまい、歴史に大きな汚点を残した張本人である、と言うのである。そして、その植民地支配から祖国を解放したのが金日成主席である、という話につなげるのである。力のないものが出しゃばると失敗する、本当に実力のある人を指導者に仰ぐことのみによって、総ての革命は成功するのである、と崔さんは強調した。この国では、金日成主席(ならびにその一族)以外に英雄は存在しないのである。

この項補足

私の旅行記のこの一節はあちこちに勝手に引用されているようです。安重根が伊藤博文を暗殺したこと自体を 北朝鮮がどのように評価しているのかはわかりません。私が聞いた限りでは、

「金日成主席の祖父や父と協力せず、一人であのようなことをやった愚か者。だから失敗した」

というようなニュアンスで言っていました。

 そのあと、金日成主席が抗日パルチザン闘争を展開していたときに指揮を取ったとされる、白頭山の秘密司令所の模型や、金正日総書記が生まれたとされる小屋、ペクトゥサン・ミリョン(白頭山密営)の模型などが展示されているのを見た。

抗日パルチザン闘争を指揮する金日成主席の様子を表した朝鮮革命博物館の展示。

 それらに混じって、白頭山の森林の木の幹に書かれたという、革命スローガンの写真も展示されていた。その中には、戦前に書かれたはずなのに、旧漢字ではなく、現在と同じ漢字で書かれているものもある。また、当時の新聞の写真も色々展示されているが、現代仮名遣いが混じっているものもある。またある人は、展示されている新聞に載っている金日成将軍の写真が、首から上と首から下とで明らかに違うことを見いだした。博物館を参観している間、我々は、このようなあら探しばかりしていた。

 途中で休憩になったので皆でトイレに行ったが、トイレは作りも粗雑で、あちこちから水道があふれて水浸しになっていた。さらに、便器のパイプが傷んでいるので、用を足すとそれもあふれてくる。いくら館内の展示場をきれいにつくろっても、トイレがこれでは、自分からボロを出しているようなものだ、と皆で話をした。

 休憩の後は、一気に現代に飛んで、最近の革命事蹟の展示を見に行った。この部分は、現在進行中の朝鮮革命の説明というよりは、1994年7月8日に死去した金日成主席の最期についての展示が主であった。主席追悼の様子を収録したビデオが放映されたが、それを見ていたL案内員が、ついにこらえきれずに泣き出してしまった。

晩年の金日成主席に関する展示の部屋。

 こういう施設を参観すると、精神衛生上非常に良くない。嘘に塗り固められた説明を延々と聞かされ、それに反論することもできず、疑問がわき上がるのをぐっとこらえて展示物を見て回るのであるが、参観終了後には説明員なり、時には館長なりに対して感想を述べなければならないからである。もちろん、その感想は、金日成、金正日父子を讃える内容、或いは、アメリカまたは日本を非難する内容でなければならない(両方の内容が含まれていると、なお良い)。しかし、いくら我々に感想を求められても、我々は即座にそのような答えはできない。いや、いくら時間をかけても、そのような答えはできるはずがないのである。

 朝鮮革命博物館を見た後は、金日成広場に行くことになった。先日は夜だったからだ。広場の近くには、テドンムン(大同門)という李朝時代の建築物も残っている。門が最初に作られたのはもっと古いらしいが、現存している門は17世紀に再建されたものだそうだ。大同門の近くには、ピョンヤンジョン(平壌鐘)という鐘やリョングァンジョン(練光亭)もある。

大同門を見る。

 我々が門を見学している間、道路の向こう側に、不審な男が立っているのに私は気がついた。金日成広場からこの大同門のあたりは、大同江沿いの公園になっており、憩いを求める市民たちで賑わっている。その男は、いかにも公園に散歩に来た一市民、というふりをしていたが、その実、私服の監視員であることは明らかであった。A君によると、その男はその後、近くの民家らしきアパートの一室に一旦入り、しばらくするとまた出てきて、近くにいた数人の男と言葉を交わした後、一緒に近くに停まっていた車に乗って立ち去って行ったという。

大同江の東平壌側の河畔から、チュチェ思想塔のある西平壌側を望む。

金日成広場にて、人民大学習堂を背景に。

 皆が附近を見ている間、私はL案内員と、南北の言葉の違いについて話をした。こちらに来て、なるべく北の言葉で話すように気をつけているが、つい、南の言葉が出てしまうときがある。L案内員は、

「それでも聞いて分かりますから、問題ありません」

と言ったが、

「南の言葉を話すと、スパイと間違われてヤバイでしょう」

と言うと、L案内員は

「まさか。そんなことありえません」

と答えた。その時に、L案内員が面白い事を言った。北朝鮮内でも、開城だけはソウル方言を話すので、南の言葉を話している、と言うのである。そう言えば、以前、韓国のソラクサン(雪岳山)に行ったとき、地元の人が北の言葉に近い言葉を話しているのを聞いて驚いた事がある。方言の境界線と、軍事境界線とは一致していないのである。

 その次に、大同江のほとりに繋留されているプエブロ号を見に行った。領海侵犯をしたとして、1968年1月22日にウォンサン(元山)沖で北朝鮮当局に拿捕された、アメリカ海軍の情報収集艦である。行ってみると、何人かの人民軍兵士が繋留されたプエブロ号の警備に当たっていた。

大同江のほとりに繋留されているプエブロ号。

 皆がプエブロ号を見ている間、少し離れたところでL案内員がうずくまっているので、どうしたのかと見に行くと、L案内員は、手に持ったメモ用紙に火をつけて処分しようとしているところであった。ツアーグループの一員であるFさん夫妻は身障者なので、会話は筆談であった。その筆談でした会話の中に、残しておくとまずい内容があったようである。L案内員が持っていたのは、Fさん夫妻のメモ用紙であったのである。ところが、L案内員は火をつけるのが下手で、いくらやってもだめなので、代わりに火をつけてメモ用紙を燃やしてあげた。すると、P案内員がやって来て、

「南が風船につけて飛ばしてきた政治宣伝パンフレットを燃やしているみたいですね」

と言う。ここでも、近くの土手の上に監視員らしき人物が何人かいて、我々がメモ用紙に火を付けて燃やすのを、じっと見ていた。

一般のアパート。屋上には、「平壌は朝鮮の心臓」と書かれている。

アパート群。「思想革命」「技術革命」「文化革命」の文字。

 滞在中、平壌市内のあちこちで、タンコギ(甘肉)と書かれた看板を出しているレストランを見かけた。タンコギという言葉は、韓国では見たことがない。迂闊にも、帰って来るまで、それが犬肉のことであるとは気づかなかった。犬肉スープは、韓国では、ヨンヤンタン(栄養湯)とかポシンタン(補身湯)とか書いてある。また、中国吉林省の延辺朝鮮族自治区では、そのものずばりケーコギ(犬肉)と書いてある。そんな訳で、タンコギが犬肉のこととは気づかなかったのである。

 午後は、金日成主席の生家のある、マンギョンデ(万景台)を見学した。我々は、食事のたびに北朝鮮国産のジュースばかり注文していたが、それで出てくるビンの中に、かなり形の歪んだビンがあることに気づき、それをよく話題にして笑っていた。リピーターの人によると、ここには、ジュースの歪んだビンなど足元にも及ばない、すばらしいかめがあるのだそうだ。

「解放前の朝鮮は貧しく、金日成主席の生家は特に貧しかったので、主席のお母様はこんなかめしか買えませんでした」

という説明があって、そのかめを見せられるのだが、かめの実物を見て吹き出してはいけない、とリピーターの人があらかじめ教えてくれた。

万景台の金日成主席の生家を見学。

 主席の生家前では、朝鮮各地から来た参観者が列になって順番を待っていた。修学旅行で来た学生も大勢いた。年齢からして、高級中学の学生らしい。北朝鮮の義務教育は、就学前教育1年(日本の幼稚園年長組)、人民学校4年(日本の小1〜小4)、高級中学6年(日本の小5〜高1)となっているらしい。我々はその集団の後についたが、その時に女性説明員が現れて、我々を主席の生家に誘導した。我々は、すでにそれまでいた参観者たちに割り込む形で、主席の生家の参観を開始した。我々が来た直後に、中国から来た観光客の一団も到着したので、何がなんだか分からなくなってしまった。

 例のかめを見たときは、笑ってはいけないと聞いていたが、やっぱり笑ってしまった。なにしろ、それは、どう見てもかめには見えない代物だったからである。あらかじめ話を聞いていなかったらならば、絶対にかめとは分からなかっただろう。初めて見ると、一種の前衛芸術にしか見えない。歪んでいる、というような甘っちょろいレベルではなく、どうやって作ったのかも分からないほど、とんでもなくぐにゃぐにゃであったのである。

主席のお母さんが使っていたかめ。

 我々は、金日成主席の生家の説明にはあまり興味はないのであるが、女性説明員は丁寧に説明してくれる。一方、中学生たちは主席の生家の説明を聞きたいのに、我々がいるために、可哀相に遠巻きにしか生家を見られずにいた。

 その中学生たちの中には、我々に向かって英語で、「ハロー」と話しかけてくる者が少なからずいた。全く予期していなかったことなので、これには、我々の方が腰を抜かしてしまった。相手はまだ中学生であったが、ものの分別くらいはつくはずである。外国人は朝鮮人民の敵、特にアメリカ人と日本人は宿敵、そんな外国人と接触を持つことは、偉大な主席の教えに背くことになる、と教えられているはずなのに、あちらの方から話しかけてきたのである。(私は気づかなかったが)中には、片言の日本語で話しかけてきた学生もいたというから、真剣に驚いてしまった。別段こちらを敵視するような口調ではなく、よく日本人が外国人に話しかけるときのように、

「興味はあるが話しかけて通じなかったらどうしよう」

と恐る恐る話しかけるような口調であった。でも、とにかく、中学生ではあったが、一般人民から話しかけられたことには違いないのである。

 このことは、一体どのように理解したらよいのだろうか。非常に想像力を働かせ、かつ主観を働かせて考えるならば、この国の体制がほんの少しだが揺らぎ始めた、と考えることもできる。果たして本当にそうなのだろうか。

 もうひとつ、私は気づかなかったが、ある人は、生家の近くで、ネッカチーフを下げた地元の小学生の団体の中に、どう見ても純粋の朝鮮民族には見えない顔立ちの、そばかすだらけの女の子がいるのを見かけたという。この国では、いろいろと不思議なことがある。

 万景台の生家を出ると、丘に登る道がある。これを登って行くと、マンギョンボン(万景峰)の丘に出る。ここからは、大同江がゆったりと流れる様子が見え、その向こうに、平壌市内が一望できる。我々のホテルも見えるし、2ヶ所ある火力発電所の煙突も見える。東平壌火力発電所と、西平壌火力発電所らしい。ここでは、英語を専攻していると言う女子高生のような一団に出会ったが、P案内員が聞いてみると、外国語大学の学生と言うことであった(日本の高2で早い人は大学生なのであるから!)。

 続いて、平壌市内の地下鉄に乗せてくれるそうである。バスに乗って市内まで戻り、地下鉄チョルリマ(千里馬)線プフン(復興)駅の前で降りた。ここから1駅の区間、ヨングァン(栄光)駅まで地下鉄に乗せてくれるという。

地下鉄千里馬線復興駅から地下鉄に乗る。

 改札は直接コインを投入する方式の自動改札で、料金は10チョンらしいが、我々は特別なので、案内員が駅員に声をかけてから改札を通った。エスカレーターでホームまで降りる。平壌の地下鉄は防空壕を兼ねていて、恐ろしく深く作られている、と何かの本で読んだことがあるが、東京の地下鉄よりは確かに深いものの、恐ろしく深い、というほどではなかった。案内員によると、

「深さは地下100m、一日の電力使用量は180万kW」

と言うことであったが、見た感じ、深さはそんなにあるとは思えなかった。ある人が繰り返し尋ねると、L案内員は

「エレベーターの長さが100mです」

と小声で答えたらしい。でも、エレベーターの長さなら、100m以上あったように思う。

地下鉄の改札。

 復興駅は地下鉄の始発駅ということで、列車は空いていた。駅の壁には、金日成主席の革命活動を表す絵が描かれていた。クリーム色と赤の2色に塗られた地下鉄が入ってくると、我々は真ん中近くの車両に乗せられた。一応、地元の人と一緒の車両であったが、実際には、我々以外にこの車両に乗っているのは、わずかに3人だけであった。車両の端の方には、金日成主席と、金正日総書記の肖像画がかけてあった。

地下鉄の車内にて。

 リピーターの人によると、地下鉄のうち我々外国人が乗れるのは、普通、ここ復興駅から次の栄光駅までの間に限られるという。これは、電力不足から他の駅は真っ暗なのを見せたくないかららしい。復興駅と栄光駅だけいつも明るく照明をつけ、外国人に見せているのだそうだ。ただ、場合によっては、栄光駅の1つ先、ポンファ(烽火)駅まで行ける場合もあるらしく、Bさんは前回に来たときに乗ることができたらしい。

 その他の駅名も、今までに出てきた「凱旋」、「楽園」の他、「戦友」、「革新」、「勝利」、「戦勝」、「建国」、「赤星」、「光復」、「統一」など、いかにも北朝鮮風のネーミングであった。

 ホームの女性駅員が合図をし、地下鉄は動き始めた。ものの数分で栄光駅に到着。ここの駅も、壁に絵が描かれている。ホームには労働新聞を張ったスタンドがあり、市民が集まって新聞を読んでいた。

ホームでは、市民が新聞を読んでいた。

 我々はホームを後にし、長いエスカレーターで地上に上がると、そこは、実は、高麗ホテルのすぐ裏手であった。

 地下鉄の階段を上がっている間に、一部の人がはぐれてしまったので、その人たちが来るのを待っている間、我々はバスの窓を開けて外を眺めていた。すると、小学生の女の子たちが4人、もの珍しそうにバスに寄ってきて、10チョン硬貨を差し出しながら、

「お金出すから、写真撮って」

と言う。それでカメラを向けると、「キャッ」と言って地下鉄の入り口の中に逃げ込んでしまった。P案内員が、

「大人をからかってるんですよ」

と言っていた。

 我々の一週間に亘る観光旅行の締めくくりは、ピョンヤン・ハクセン・ソニョン・クンジョン(平壌学生少年宮殿)の参観であった。宮殿に向かう途中、P案内員が、

「日本では子供は国の宝と言いますが、共和国では子供は国の王様と言われて、とても大切にされています」

と言った。

平壌学生少年宮殿前にて。「この世に羨むものなし」の文字が見える。後ろのローラースケートの少年は「?」。

 さて、我々が到着すると、例の如く館長と女性説明員とが我々を出迎えてくれた。館長から、

「ここは、平壌市内の学校に通う児童や学生たちが放課後に訪れ、課外活動を行うところである」

と説明があった。そのあと、2階に上がって、実際に子供たちが課外活動を行っているところを参観した。

 最初に訪れたのは、刺繍を習う教室であった。ここはすぐに通りすぎて、次にアコーディオンの練習をしている教室に行った。我々が教室に入ると、子供たちは拍手で我々を迎えてくれ、「我らの父、金正日元帥様」という曲を演奏してくれた。その後、テコンドー、書道、琴(カヤグムと呼ばれる)などの教室も見せてもらった。書道の教室では、少年が「朝日友好」と書いてくれた。その他、部屋には入らなかったが理科の実験をしている教室などもあった。

アコーディオンの教室。「我らの父、金正日元帥様」という曲を演奏してくれた。

カヤ琴を弾く少女。

 でも、正直に言うと、ここを訪れても何の感慨もなかったのである。いや、むしろ、悲しくなった。子供たちが一生懸命やっているのは課外活動ではなく、「課外活動の演技」なのである。政治的宣伝の道具となっている子供たちを見ていて、痛ましささえ感じられた。これは率直な感想である。我々の目は節穴ではない。こんな立派な建物を用意し、子供を使い、外国人に見せて得意になっているようだが、全くの逆効果である。国家に選抜されて、外国人に見せるためにここに連れて来られて演技させられている子供たちより、さっき地下鉄の入り口で会った普通の子供たちの方が、遥かに子供らしくて純心で可愛らしい。

 しばらくすると、子供たちによる公演があるというので、大ホールに移動した。途中の渡り廊下から下を見ると、テレビとファミコンがたくさん置かれた部屋があり、子供たちがゲームに興じていた。ファミコンクラブらしいが、何のためにファミコンを取り入れているのだろうか。将来のプログラマー養成のためだろうか。

ファミコンに興じる子供たち。

 子供による公演も、見ていて痛ましいものであった。初めに司会の女の子が出てきて、平壌放送の自己陶酔状態に陥ったアナウンサーと全く同じ口調で、

「偉大な首領金日成主席さまがお作りになられたこの平壌学生少年宮殿で、主席様の主体思想の教えに従って課外活動に励む私たちの成果をご披露します」

という意味の挨拶をし、それから各出し物が始まった。「主席様は、わたしたちのお父さま」という歌や、「革命に一生を捧げます」という歌、それにさっきも聞いた、「我らの父、金正日元帥様」のアコーディオン演奏などが上演された。最後に劇があった。劇では、背景に「一心団結」とか「強盛大国」などの政治スローガンが次々と出てきた。

子供たちによる公演。

 後ろの列に座っていた中国人の団体が、
「何やこのくだらん出し物は」
とか、
「まだ終わらんのか。いつまで続くんや」
とかわめくので、うるさかった。彼らが朝鮮語を理解できるはずはなく、雰囲気だけで内容を分からずにけなしているのである(もっとも、内容が分かれば、もっとけなしたかもしれないが)。

 中国人の団体がなぜ公演をけなすのか直接尋ねたわけではないが、私には何と無く分かるような気がした。というのも、中国でも文化大革命中は同じ状況であったのである。しかし、中国では20年前に文化大革命は終了したのである。私の想像だが、彼らが公演をけなしたのは、「いま頃子供を使ってこんなことをしているとは、この国は中国よりも20年以上遅れている」という心境からではないだろうかと思う。

 平壌学生少年宮殿を見た後は、高麗ホテルのとなりにある切手ショップ、朝鮮郵票社に立ち寄った。でも、先日の昼にもホテルを抜け出してここに買いに来ていたので、もう買う物は無かったから、私はバスに残っていた。

 我々は明日の朝の飛行機で帰国の途に就くので、今晩は羊角島ホテルでお別れパーティーが予定されていた。予約時間までまだ時間があったので、土産物店に行くことになった。それで、テソン・スチュルプム・チョンシジャン(大聖輸出品展示場)という土産物店に行った。私はパックントンの手持ちが少なくなっていたので、バスに残っていようかとも思ったが、やっぱり、と思い直して店に入った。そこで、4ウォンのTシャツを一枚だけ買った。英語で「Pyongyang Korea」と書かれ、チュチェ思想塔や凱旋門の絵が描かれているものである。

 羊角島ホテルは、昨日ほどは込み合っていなかった。昨日大勢いた在日の人の祖国訪朝団は帰ったのだろうか。我々は予約してあった1階奥のチョソル・リョリ・シクタン(朝鮮料理食堂)に行き、シンソンロ(神仙炉)の夕食が出されるのを待った。実は、韓国で神仙炉(南ではシンソルロと言う)を食べに行ったことはまだないのである。従って、これが初めての神仙炉なのである。ここは北朝鮮で一番の高級ホテルだけあって、料理の内容は申し分なかった。神仙炉はもちろんおいしかったが、ここで出された白菜キムチが、特においしかった。

羊角島ホテルで神仙炉のお別れパーティー。

 料理を堪能し、座も盛り上がり、もう少し長居したかったが、今晩9時にポスターが我々のホテルに届くことになっていたので、そろそろ戻らなければならなかった。それで、急いで高麗ホテルに戻り、皆、ロビーでポスターを待っていた。しかし、9時を回ってもポスターは届かない。30分過ぎても、やはり届かない。それで、L案内員だけがロビーに残り、我々は部屋で待機していたが、結局ポスターは届かなかった。まだ明日の朝があるとは言うものの、本当に届くかどうか、疑わしくなってきた。


   


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