葉  桜

 1905年、東京。陳其美はその日、革命同盟会の本部に顔を出してから、なんとなく一人で歩きたくて町へ出た。
 5月である。東京の町はやっと桜の花が終わり、新緑が眩しいほどだ。木々の間からこぼれる陽光に、陳其美は目を細めた。
 随分と暖かく、春も盛りである。うっとおしい梅雨が来る前に、この春の穏やかさを満喫するのも悪くない。そうだ、少し遠いが上野まで歩いてみようか。
 神田の同盟会本部から皇居のお濠まで歩き、聖橋を渡って湯島天神を過ぎれば、そこはもう上野である。そのまま出店でも冷やかそうかと思ったが、やはり上野と言えば桜の名所だ。葉ばかりになった桜見物もまた一興だろう。陳其美はそのまま御下賜公園、通称「上野のお山」に登った。
 美しい景色である。平日の日中であるせいか、人がまばらなのも良い。陳はベンチに腰を下ろし、池を眺めながら、帽子で軽く顔を扇いだ。2時間くらいは歩いただろうか。散歩には少し長いが、「花見」には丁度良い頃合だろう。
 鳩が足元に群れていた。ここに来る日本人は皆、弁当の残りだとか駄菓子の残りだとかをすぐに鳩に与えるので、いつでもここは鳩だらけだった。
 空が抜けるように青い。
 この国はあまりにも故郷と違ったが、この空の青さだけは変わらない。故郷の空は確かにこの空に続いているのだ。
 何か冷たいものでも飲もうかと物売りを探して辺りを見回すと、芝の一角に人がなんとなく集まっていた。何だろうかと目を凝らすと、その中心に一人の男が見える。
 青年と言うにはまだ少し若いような気もするが、少年と言うには随分と大人びている。
 なるほど、人が集まってくるはずだ。
 その男は開襟のシャツに黒っぽいズボンといういでたちで、周りに集まる日本人が眺めているのも意に介さないと言った様に、そう、剣舞を舞っていた。
 長衫さえ着ていないが、彼は中国人に違いない。日本人があのような身のこなしで、剣舞を舞えるわけが無い。
 しなやかな、だが刺すような激しさで、男は舞を舞っていた。きちんと衣裳をつけさせて舞う姿を見てみたいと、陳は男の舞を興味深く見守った。
 日本髪に結った婦人たちが男を大道芸人とでも思ったのだろう、銭を与えようとするのを、男は鋭い目つきで撥ねつけた。
「ほう」
 あの目つきは良い。
 彼の剣舞そのままの、しなやかな、激しい、刺すような目つきだ。
 陳は男の素性が気になった。華僑だとすればこんな所で舞っていると言うのもおかしな話だ。彼らは横浜に居を構えているし、もしここまで出向いて舞っていると言うのなら、長衫を着て金を取るだろう。
 では留学生か?
 こんな時間にこんな場所で、留学生が一人で剣舞を?
 男は一心不乱に舞っていた。硬く瞳を閉じ、眉に厳しさを宿し、若さ特有の情熱を叩きつけてでもいるように。
 しなやかな、きちんと鍛えられた若い体。そしてあの目つき。
 陳其美は孫文の片腕として、革命同盟会の幹部として、多くの者の上に立ち、革命を画策して人々を指導する立場にあった。たった一人の若い留学生に心を留めるような立場にはいない。
 だが、あの青年は良い。
 全てのエネルギーの吐け口を探しているかのようなあの舞い。
 その吐け口を巧く導いていてやれば、きっと彼はモノになる。よしんばただの駄石であったとしても、自分の良い手足になりそうだ。あんな子飼いを持つのも悪くない。
 男は唐突に舞うのを止め、深く大きな溜息を吐いた。そのままつまらなそうに脇のベンチに剣を置くと、自分は立ったまま、額に浮いた汗を拭った。
 思った通り、目には険しさを残したままだった。全てに対して怒ているような、その瞳は若者にのみ許された特権だ。
「好!」
 陳は手を打って、男に近づいた。
 そうして、自分の笑顔の価値を知っている彼は、拍手と共に極上の笑みを男に送った。男は少し驚いたように彼を見た。
 陳の美貌に見とれているような、見られていたことを気恥ずかしく思っているような、突然の呼びかけに戸惑っているような、馴れ馴れしい態度に気分を害したような、そんな複雑な表情がすぐに浮かんで、最後に不審気な顔に収まった。
「素晴らしい剣舞だね。誰かに師事を?」
 陳はそんな男の態度に気付いていないかのような顔をして、男の脇に立った。並んで立つと、男は陳よりも背が高かった。
「・・・別に、昔から何となく好きで・・・・・・」
「留学生?」
 男はまだ少し幼さを残した仕草で頷いた。どうやら自分を撥ねつけるつもりはない様だ。無論、それはそうだろう。自分が笑顔で近づいて、拒む者はまずいない。
「私は陳英士。浙江の者だ。君は?」
「・・・蒋志清、俺も浙江だ」
「へぇ、それは良い。浙江はどこ?」
「奉化・・・」
「私は呉興だ。奇遇だね」
 蒋と名乗った男は、同郷と聞いて少し態度を軟化させたようだった。はにかんだように、だがまだ戸惑っているように、陳の言葉に男は小さく頷いた。
「喉が渇かないかい? 私は神田から歩いてきたから、喉がからからなんだ。どうだろう、その辺の茶屋にでも入らないかい?」
 男はまだ少し躊躇っているようだった。陳の顔を見て、自分の靴を眺め、ベンチの剣を見てから、もう一度陳の顔を見た。陳は優雅に微笑んで見せた。あれほど全てのものに敵愾心を持っているような顔をしていた男が、その笑顔を見ると、少し顔を赤くして素直に陳に従った。

 日本の茶は渋い。口が痺れるようで陳はあまり好きでなかったが、だが渇いた喉には心地よく感じられた。蒋も苦手のようで、一口啜ってから、嫌そうに眉をしかめた。
「団子でも貰おうか。日本のお茶は少し強いね」
 返事の替わりに、蒋は小さく頷いた。
 茶屋の中に入ると、蒋は随分大人しくなった。「借りてきた猫」という言葉が日本にはあるが、どちらかと言うと、よく躾られた犬を思わせる。
「訊いても良いかな。何故東京に?」
「別に・・・・・・」
 団子を運んできた女中に遮られて、蒋は言葉を切った。女中が去ると、陳は続きを促し、蒋は素直に従った。
「別に、東京でもフランスでもアメリカでも、どこでも良かったんだ。中国でなければどこでも。東京はただ単に近かったから、だから東京に来ただけだ」
「何故中国でない所へ?」
「・・・嫌なんだ」
 陳に見つめられているのが気になるのか、蒋は団子に手を伸ばした。陳は蒋が団子を一口頬張って飲み下すのを待った。
 自分はただ待っていれば良い。蒋に全てを吐き出させ、代わりに自分が下ろした針を飲み込むのを、ただ待っていれば。
 陳が蒋を見つめている。沈黙が気まずいのだろう。蒋は茶を口に含むと、また眉をしかめてから一気に話し始めた。
「嫌なんだ、中国が。貧乏臭い田舎も、外国人だらけの街も、辛気臭いジジイ共も勝手に決まっちまった女房も、偉そうな役人も腑抜け面した周りの奴らも、みんなみんな嫌なんだ。何処か違う所へ行きたいって、ずっと思ってた」
 吐き捨てるようにそう言うと、蒋は目を伏せ、そうして小さく「何処かへ行けば、何かが変わると思ったんだ」と呟いた。
 やはりこの子は。
 陳は内心小さく頷いた。
 やはりこの子は巧く磨けばモノになる。
 昨今の革命、留学流行りで、人々は皆熱に浮かされたように東京に来て革命を叫んだ。だが実情は、ただ何の束縛もない異郷の地で、束の間の、見せ掛けの自由を謳歌し、ぬるま湯に浸ったように堕落している輩がほとんどだった。
 多分この子は何か大きな変機を期待してこの地に降り立ち、そんな現実にぶつかって絶望し、どこにも行き場の無い閉塞感をここで吐き出していたのだろう。
 陳は机の端に手をついて、蒋の近くに顔を寄せた。
「では、その中国を変えてみないか?」
「・・・あんたも革命家なのか?」
 胡散臭そうな色合いが目に浮かんだ。この子が「革命家」に失望しているとしたら、それは我々の指導力不足の責任である。
「私は革命同盟会の孫先生の下で働いている。だが、そんなことは今はどうでもいい。私は君のように何かをやり遂げることのできる男を探していた」
「何かをやり遂げる?」
「君は中国が嫌いだろう。今の中国を変えてやりたいとは思わないか?」
「それは・・・」
「だが君はその方法が分からない。私ならばそれを君に教えることができる」
 穏やかさを拭い去って、いきなり熱っぽい口調で語りだした陳を、蒋は驚いたように見つめた。その目を逃さずに、陳は蒋の中に直接響くように言葉を紡いだ。
「誰かが変えねばあの国はいつまでもあのままだ。いいや、もっと腐敗し、世の中は酷いものになるだろう。君はそれで良いのか? こんな所で剣舞を舞っていれば、何かが変わるとでも?」
 蒋は言葉が流れ出してくる陳の形の良い唇を凝視していた。まるで、そこにはこの世の全てが隠されているとでも言いた気に。
 陳は蒋の手に自分の手を重ね、強く握った。
「一緒に来るんだ、蒋志清。君が本当に君の国を愛しているのならば」
 蒋は幻を見るような目で陳を見た。その目に光が燈る。しなやかな、激しい、刺すような目だ。
 陳が小さく頷くと、蒋もそれに合わせて頷いた。



 1905年、5月。
 これが、後に中国を統一し、中華民国を樹立した男・蒋介石と、彼にその運命を授けた盟兄・陳其美の出会いである。
 万緑目に眩い、春の東京であった。
                                    

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