主よ大変です。母が死にそうです。来てください
肺癌で余命6ヶ月と宣告された母を前にして思うこと。・・・私自身へのレクイエム
2004.2.22 東京聖書読者会 高橋照男
1・主よ大変です。来てください・・・神は呼べばすぐ来てくださることをイエスの行動から学ぶ・・・福音書は絵画的に読むように書かれている(最新の新約聖書学は物語批評)・・・福音書記者はStoryTeller・・・母の救いは40年間の祈り
塚本訳 ヨハ 11:3
11:3 マリヤとマルタとはイエスに使をやって、「主よ、大変です。あなたの可愛がっておられる人が病気です」と言わせた。
塚本訳 ヨハ 11:11
11:11 こう話して、またそのあとで言われる、「わたし達の友人ラザロが眠った。目をさましに行ってやろう。」
塚本訳 マコ 5:22-24
5:22 するとヤイロという一人の礼拝堂監督が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏し、
5:23 しきりに願って言う、「わたしの小さな娘が死にかかっています。助かって命びろいをするように、どうか行って、手をのせてやってください。」
5:24 イエスは彼と一しょに出かけられた。大勢の群衆がイエスについて行って押しまくった。
塚本訳 マタ 9:18-19
9:18 こう話しておられると、そこに一人の(礼拝堂の)役人が進み出て、しきりに願って言った、「わたしの娘がたったいま死にました。それでも、どうか行って、手をのせてやってください。そうすれば生き返りますから。」
9:19 イエスは立ち上がって彼について行かれた、弟子たちも一しょに。
塚本訳 マコ 1:29-31
1:29 イエスは礼拝堂を出ると、すぐヤコブとヨハネとをつれて、シモンとアンデレとの家に行かれた。
1:30 シモンの姑が熱病で寝ていた。人々がすぐ彼女のことをイエスに言うと、
1:31 進み寄り、手を取って起された。すると熱が取れ、彼女は彼らをもてなした。
塚本訳 ヨハ 4:46-50
4:46 それから、またガリラヤのカナに行かれた。そこは(前に)水を酒にされた所である。するとカペナウムに(ヘロデ・アンデパス)王の役人がいて、その息子が病気であった。
4:47 イエスがユダヤからガリラヤに来ておられると聞くと、イエスの所に行き、(カペナウムに)下ってきて息子を直してほしいと頼んだ。息子が死にそうだったのである。
4:48 イエスは言われた、「あなた達は徴[奇蹟]と不思議なことを見なければ、決して信じない。」
4:49 王の役人が、「主よ、子供が死なないうちに(カペナウムに)下ってきてください」と言いつづけると、
4:50 イエスは言われる、「かえりなさい、息子さんはなおった。」その人はイエスの言われた言葉を信じて、かえっていった。
新共同 マコ 5:34
5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
塚本訳 マコ 9:17-18
9:17 群衆のうちの一人が答えた、「先生、唖の霊につかれている伜をあなたの所につれて来ました。
9:18 この子は霊がつくと所かまわず投げ倒され、泡をふき、歯斬りして、体がこわばってしまいます。それで霊を追い出すことをお弟子たちに頼みましたが、おできになりませんでした。」
口語訳 詩 3:4-5
3:4 わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。
3:5 わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。
新共同 ヨハ 11:24-25
11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
新共同 ヨハ 11:40
11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
2・人は他人の悩み悲しみや痛みの底の底にまでは真に下ってはいけないものなのだ・・・それができるのは本当の産みの親たる父なる神のみ・・・神は人の悲しみの底の底まで血を流してまで降りてきてくださる。それは親心・・・それに反して人間は形式的愛、儀礼的愛にのみ終始する・・・これ人間の限界
塚本訳 ヨハ 11:6-8 11:15-16
11:6 ところでイエスはラザロが病気と聞かれると、おられたところに(なお)二日留っていて、
11:7 そのあとで弟子たちに、「もう一度ユダヤに行こう」と言われた。
11:8 弟子たちが言う、「先生、ついこの間もユダヤ人があなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこに行かれるのですか。」
11:15 わたしがそこにいなかったことを、あなた達のために喜ぶ。あなた達の信仰を強めることができるからだ。さあ、ラザロの所に行こう。」
11:16 するとトマスすなわち(ギリシヤ語で)デドモ(二子)が相弟子たちに言った、「(主の命があぶない。)わたし達も行って、主と一しょに死のう。」
塚本訳 マタ 18:12-14
18:12 あなた達はどう思うか。ある人が羊を百匹もっていて、その一匹が道に迷ったとき、その人は九十九匹を山にのこしておいて、迷っている一匹をさがしに行かないだろうか。
18:13 そしてもし見つけようものなら、アーメン、わたしは言う、この一匹を、迷わなかった九十九匹以上に喜ぶにちがいない。
18:14 このように、この小さな者たちが一人でも滅びることは、あなた達の天の父上の御心ではない。
塚本訳 ヨハ 15:13-14
15:13 (わたしはあなた達のために命を捨てる。)友人のために命を捨てる以上の愛はないのだ。
塚本訳 ルカ 15:11-24
15:11 また話された、「ある人に二人の息子があった。
15:12 『お父さん、財産の分け前を下さい』と弟が父に言った。父は身代を二人に分けてやった。
15:13 幾日もたたないうちに、弟は(分け前)全部をまとめて(金にかえ、)遠い国に行き、そこで放蕩に財産をまき散らした。
15:14 すべてを使いはたしたとき、その国にひどい飢饉があって、食べるにも困り果てた。
15:15 そこでその国のある人のところに行ってすがりつくと、畑にやって、豚を飼わせた。
15:16 彼はせめて豚の食う蝗豆で腹をふくらしたいと思ったが、(それすら)呉れようとする人はなかった。
15:17 ここで(はじめて)本心に立ち返って言った。──お父さんのところでは、あんなに大勢の雇人に食べ物があり余っているのに、(息子の)このわたしは、ここで飢え死にしようとしている。……
15:18 よし、お父さんの所にかえろう、そしてこう言おう、『お父さん、わたしは天(の神様)にも、あなたにも、罪を犯しました。
15:19 もうあなたの息子と言われる資格はありません。どうか雇人なみにしてください』と。
15:20 そして立ってその父の所へ出かけた。ところが、まだ遠く離れているのに、父は見つけて不憫に思い、駈けよって首に抱きついて接吻した。
15:21 息子は父に言った、『お父さん、わたしは天(の神様)にも、あなたにも、罪を犯しました。もうあなたの息子と言われる資格はありません。……』
15:22 しかし父は(皆まで聞かず)召使たちに言った、『急いで、一番上等の着物をもって来て着せなさい。手に指輪を、足にお靴をはかせなさい。
15:23 それから肥えた小牛を引いてきて料理しなさい。みんなで食べてお祝いをしようではないか。
15:24 このわたしの息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』そこで祝賀会が始まった。
3・死の悲しみ・・・死は眠りというが、眠りから覚めるという「復活」は本当にあるのか・・・人間は煙と灰になっておしまいではないのか・・・神はイエスによって死人を生き返らせ、死後に復活がありうることを見える形で証明された・・・その死人は再び死んだはずだが、その時の肉親の悲嘆は聖書に書いてない・・・おそらくもうあの死の嘆きはなくなっていたのであろう。
塚本訳 マコ 5:35-42
5:35 イエスがまだ話しておられるところに、礼拝堂監督の家から人々が来て(監督に)言った、「お嬢さんはもうなくなりました。どうしてこの上、先生にご迷惑をかけられるのですか。」
5:36 イエスはそう言っているのをそばで聞いて、監督に言われた、「こわがることはない。ただ信じておれ。」
5:37 そしてペテロとヤコブの兄弟のヨハネとのほかには、だれもついて来ることを許されなかった。
5:38 やがて監督の家に着いて、人々がひどく泣きわめいて騒いでいるのを見ると、
5:39 (家の)中に入って言われる、「なにを泣いたり騒いだりするのか。子供は死んではいない、眠っているのだ。」
5:40 人々はあざ笑っていた。しかしイエスは皆を外に出し、子供の父と母と、一しょに来た者(三人だけ)を連れて、(死んだ)子供のいる所に入ってゆかれる。
5:41 そして子供の手を取って、「タリタクミ!]と言われる。訳すると「少女よ、あなたに言う。起きなさい!」である。
5:42 ただちに少女は立ち上がって歩きまわった。十二歳になっていたからである。見るなり、人々は気が遠くなるほど驚いた。
塚本訳 ヨハ 11:11-13
11:11 こう話して、またそのあとで言われる、「わたし達の友人ラザロが眠った。目をさましに行ってやろう。」
11:12 弟子たちが言った、「主よ、眠ったなら(きっと)助かりましょう。(眠る病人はなおると言います。起さない方がよいでしょう。)」
11:13 イエスはラザロが死んだことを言われたのに、弟子たちは安眠していることを言われるものと思ったのである。
塚本訳 ヨハ
11:42-44
11:42
(願わずとも)あなたはいつもわたしの願いを聞いてくださることを、わたしはよく知っております。しかしまわりに立っている人たちのために、(今わざと声を出して感謝を)申したのであります。(わたしの願いはなんでもきかれることを彼らに示して、)あなたがわたしを遣わされたことを信じさせるためであります。」
11:43
こう言ったのち、大声で、「ラザロ、出て来い」と叫ばれた。
11:44
死人が手足を包帯で巻かれたまま、(墓から)出てきた。顔は手拭で包まれていた。イエスは「解いてやって(家に)帰らせなさい」と人々に言われた。
塚本訳 ルカ 7:12-16
7:12 町の門の近くに来られると、ちょうど、ある独り息子が死んで、(棺が)舁き出されるところであった。母は寡婦であった。町の人が大勢その母に付添っていた。
7:13 主は母を見て不憫に思い、「そんなに泣くでない」と言って、
7:14 近寄って棺に手をかけ──担いでいる者は立ち止まった──「若者よ、あなたに言う、起きよ!」と言われた。
7:15 すると死人が起き上がって物を言い出した。イエスは『彼を母に渡された。』
7:16 皆が恐れをいだいて、「大預言者がわたし達の間にあらわれた」とか、「神はその民を心にかけてくださった」とか言って、神を讃美した。
4・天国第に行けば痛みはないという・・・それは本当?行って見てきたの?・・・聖書にそう書いてある・・・あなたは見ないものを信じて喜んでいる・・・ただ信じて喜んでいるだけならキリスト教でなくてもよいのでは?・・・来世実在の証拠はイエスの有体的復活の歴史的事実(これがキリスト教の独一性、それを伝承しない現代キリスト教は弱い)・・・墓が空になっていたのは歴史的事実・・・聖霊で胸が熱くされると墓が空になっていた事実が復活信仰の補強となる(「三日目に死人のうちよりよみがえり」との告白、クレドー「我信ず」の信仰告白伝承)・・・歴史的事実を認めることは理性の安息を得る。
口語訳 黙 21:3-4
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
口語訳 ヘブ 11:13
11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
口語訳 エペ 1:13-14
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
塚本訳 ロマ 15:12-13
15:12 さらにイザヤは言う。『エッサイの根ははえ、起きあがる者[キリスト]があらわれる、異教人を支配するために。異教人は彼に望みをかけるであろう。』
15:13 希望の源である神が、(彼を)信ずることにおいて来る無上の喜びと平安とであなた達を満たし、聖霊の力によって(豊かな)希望に溢れさせられんことを。
5・天国には住まいがあるのか・・・・安住できるのか・・・・地上の幕屋なるこの肉体は病気や年齢で衰えていく・・・霊の命は輝いていく・・・この次は天国の家に住むという「希望」が持てる
新共同 Uコリ4:16
4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
新共同 Uコリ5:1
5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
塚本訳 ヨハ 14:2
14:2 父上のお家には、沢山住居がある。(あなた達は一人のこらず、そこに住むことが出来る。)もしそうでなかったら、『あなた達のために場所の準備に行く』と言うわけがないではないか。
新改訳 黙 21:3-4
21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
新共同 ヨハ 2:19-22
2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2:20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
2:22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
6・癌の痛みというのはどうしてあるのか。病気の痛みの意味は?・・・・人生の最後に何でこんなに苦しまなければならないのか・・・不条理・・・天罰(本人の?家族の?)、教育(学習?)、反省の時(傲慢の?)、代罰(一族の?)、贖罪(父母または子供の?)、産みの苦しみ(生物としての宿命?) 地に落ちる麦(新しい芽のための肥料?)、完成の時(感謝の感情が生まれるため?)、神の愛の鞭(神の招き?)、他人に影響を与えること?(痛みがあるというのは他人への不思議な影響がある。イザヤ書53章)・・・・痛みが他へ及ぼすというよい影響があるのは不思議な事実・・・とはいえなんとか痛むことなく逝くことは出来ないか・・・終末期医療ホスピス。ターミナルケア緩和病棟の意義
新共同 ヘブ 5:7-8
5:7 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。
5:8 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
塚本訳 Tテモ2:12-15
2:12 (教会で)婦人が教えたり、男子の上に立ったりすることは許さない。ただ静かにして居れ。
2:13 (このことは天地創造の由来からでも、エデンの話を見ても明らかである。)何故なら、アダムがまず造られ、次いでエバが造られたのであり、
2:14 またアダムは惑わされず、女なる(エバ)が(蛇に)惑わされて罪に落ちたからである。
2:15 しかしもし婦人が慎みをもって信仰と愛と聖潔とを保っているならば、子を産むこと(、これを育てて母の務めを果たすこと)によって救われるであろう。(婦人は教会でなく家の中で働くべきである。)
新共同 ヨハ 16:21
16:21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
塚本訳 ルカ 23:39-43
23:39 磔にされている罪人の一人がイエスを冒涜した、「お前は救世主じゃないか。自分とおれ達を救ってみろ。」
23:40 するともう一人の者が彼をたしなめて言った、「貴様は(このお方と)同じ(恐ろしい)罰を受けていながら、それでも(まだ)神様がこわくないのか。
23:41 おれ達は自分でしたことの報いを受けるのだから当り前だが、このお方は何一つ、道にはずれたことをなさらなかったのだ。」
23:42 それから(イエスに)言った、「イエス様、こんどあなたのお国と共にお出でになる時には、どうかわたしのことを思い出してください。
23:43 「イエスが言われた、「アーメン、わたしは言う、(その時を待たずとも、)あなたはきょう、わたしと一しょに極楽にはいることができる。」
口語訳 詩 51:17
51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。
新共同 ロマ 6:23
6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
口語訳 コロ 1:24
1:24 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。
新共同 Uコリ5:4-5
5:4 この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。
5:5 わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。
塚本訳 ヨハ 12:24
12:24 アーメン、アーメン、わたしは言う、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(だからわたしは命をすてる。)
新共同 Tコリ15:58
15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
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苦難と神の愛 塚本虎二 (聖書知識九二号 昭和十二年一九三七年八月)
ヨブは神から財産を奪われ、その子女をことごとくもぎ取られ、全身恐ろしい腫れ物で苦しめられながらも、なお神を呪わず
エホバ与えエホバ取りたもうなり、エホバの御名は讃むべきかな
と言って、ついに罪を犯すことをしなかったという(ヨブ記一〜二章)。
まことに義人ヨブなればこそである。もし私達に彼だけの信仰と謙遜と覚悟とがあるならば、私達の生涯は如何ばかり明るくなることであろう。
しかしながら、ヨブのこの言の調子は高くない。神から多くの幸福を戴いているから、どんな不幸でも苦難でも甘受せねばならぬという消極的の諦めであって、まだこの鞭の中にこもっている神の深い愛の意味を把握することが出来ずにいるからである。彼は多分最後にその財産を倍加され幸福なる家庭を恵まれた時に、始めてその無知に気付き、神に懺悔し、限り無き神の愛に対して感謝の祈りを捧げたに違いない。
まことに神の愛は限りなく高く、深く、かつ広い。何人もこれを言葉にし筆にすることは出来ない。ただ神の啓示たる聖書の中には、この広大無辺なる神の愛をいみじくも書き記した個所が少なくない.否、聖書全体が神の愛の大讃美歌である。しかしその中においても最も美しくこれを描いたものの一つが、有名なるモーセの歌の中にある親鷲の比喩である。多分モーセ自身かかる神の愛を度々経験したのであろう。彼は神エホバがイスラエル民族を愛撫し給うのを譬えて言う ――――
鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ翼に乗
せて運ぶように(申命記三十二章十一節)
親鷲がその雛に飛び方を教えようとする時は、まずその巣を騒がせて雛どもを巣の外に追出す。しかし危険を慮って巣の上を舞いながらこれを監視し、もし雛が飛び得ないか、あるいは疲れて飛べなくなった時には、これを自分の翼の上に載せるという。エホバがイスラエルの民を守り導き、これを訓練し給うことが、あたかもこの親鷲のようであるというのである。(註)これを敵が襲来した場合にその雛を呼び起こすことであるとする見方がある(ケーニッヒ)通説が正しい(ベルトレット、ストイエルナーゲル、ドライバー 等)。
獅子は子を産んで三日を経る時、これを数千丈の谷底に落としてその勢いを見、自ら断崖を登ってくるものだけを育てると言われるが、しかしこれと彼とは違う。これは戦国武士の訓練であり、かれは慈母の愛を持つ父の教育法である。眼球のようにその民をいたわり守り給う神の愛である。 神は愛にてあり給う。私達には愛以外の何ものも臨まない。不幸と見え、神の呪詛と見ゆることも、究極する所は愛である。否、最も愛ならずと見ゆる所に、かえって大なる愛が秘められている。真の愛は隠れるからである。神は掻き裂き、また癒し給うという(ホセア六章一節、ヨブ記五章一八節参照)
ホセア書六章一節「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。
ヨブ記五章一八節「彼は傷つけ、また包み、撃ち、またその手をもっていやされる。」
矛盾である。しかし掻き裂き給うは愛し給うからである。然り、神は愛するが故に掻き裂き、愛するが故にまた包み給う。否、癒さんとして掻き裂き、包まんとして傷つけ給う。私達罪の人間はこの神の愛の矛盾の坩堝において精錬さるることなしには神の国に入ることが出来ない。
ロマ書八章一八節「われ思うに、今の時の苦難は、われらの上に顯れんとする榮光にくらぶるに足らず。」(文語訳)
とパウロはいった。キリストの光に照らされたクリスチャン・パウロの目には、ヨブに
見えないものが見えたのである。彼はこの世の苦難と不幸とがすべて神の深き愛に出づる
ものであり、それが、ただそれだけが、人を神の国に相応しい者にすることを知ったので
ある。
艱難なしには何人も神の国に入ることをゆるされない。神は殺しまた生かし給うという(サムエル記上二章六節、申命記三二章三九節)。
サムエル記上二章六節「主は殺し、また生かし、陰府にくだし、また上げられる。」
申命記三二章三九節「今見よ、わたしこそは彼である。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かし、傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出しうるものはない。」
然り、彼は私達を生かさんとして殺し、殺して生かし給う。
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7・信仰とか復活は、分かる人と分からない人がいるものだ・・・信仰というのは神がその主権で御自分を現わされるときに人に与えられる・・・神の存在はいくら頭で考えていてもわからない・・・だから「神様あの人に現われて下さい」という周囲の人の祈りが大切・・・クリスチャンの迫害者であったパウロにはその救いを祈っていた人がいたのではないだろうか・・・神はその祈りに答えてパウロに現れたのではないだろうか
塚本訳 マタ 24:40-41
24:40 その時、二人の男が畑にいると、一人は(天に)連れてゆかれ、一人は(地上に)のこされる。
24:41 二人の女が臼をひいていると、一人は連れてゆかれ、一人はのこされる。
塚本訳 使 22:6-10
22:6 ところが進んでいってダマスコに近づくと、昼ごろ、突然、天から強い光がさしてわたしのまわりに輝いた。
22:7 わたしは地べたに倒れて、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と言う声を聞いた。
22:8 わたしは答えた、『主よ、あなたはどなたですか。』わたしに言われた、『わたしだ、君が迫害しているナザレ人イエスだ。』
22:9 連れの者たちは光は見えたが、わたしにお話になる方の声は聞こえなかった。
22:10 わたしは言った、『主よ、何をしたらよいのでしょうか。』主は言われた、『起きてダマスコ(の町)まで行け。そうすればそこで一切は告げられる。君のすることは決めてある。』
塚本訳 ルカ 24:31-32
24:31 (その時)二人の目が開けて、その方とはっきりわかった。すると(また)その姿が見えなくなった。
24:32 二人は語り合うのであった、「(そう言えば、)道々わたし達に話をされたり、聖書を説き明かされたりした時に、胸の中が熱くなったではないか」と。
塚本訳 ヨハ 14:22-23
14:22 イスカリオテでない方のユダが言う、「主よ、いったいどういうわけで、わたし達だけに御自分を現わし、この世(の人)にはそうしようとされないのですか。」
14:23 イエスは答えられた、「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。するとわたしの父上はその人を愛され、わたし達は(父上もわたしも)、その人のところに行って、同居するであろう。
塚本訳 ルカ 24:45-46
24:45 それから聖書をわからせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「救世主は苦しみをうけて、三日目に死人の中から復活する。
新共同 ルカ 24:45
24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
塚本訳 使 16:14
16:14 するとテアテラ町の紫毛織物の商人で、敬信家のルデヤという婦人が聞いていたが、主はその心を開いてパウロの話に耳を傾けさせられた。
塚本訳 ロマ 10:20
10:20 (次に)イザヤも勇敢に言っている。『(神は言われる、)「わたしをさがさなかった者にわたしは姿を見せ、わたしを尋ねなかった者に現われた」(と。)』
8・クリスチャンが肉親(血族、一親等 伴侶)の救いに対して特有の悩みがあるのは神の摂理・・・神はその人間としての肉の自然の感情を利用してその祈りに答えて姿を現そうとする・・・伴侶の祈り、肉親の祈りは聴かれる・・・離れがたきものは肉親血族・・・しかしそれから自由になれとイエスは言う。それが肉親への真の愛・・・・儒教とキリスト教の違い
塚本訳 ヨハ 11:21
11:21 マルタがイエスに言った、「主よ、あなたがここにいてくださったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
塚本訳 ルカ 16:27-28
16:27 金持が言った、『父よ、それではお願いですから、ラザロをわたしの父の家にやってください。
16:28 わたしに五人の兄弟があります。彼らまでがこの苦しみの場所に来ないように、よく言って聞かせてください。』
塚本訳 ロマ 9:1-3
9:1 私はキリストにある者として本当のことを言う、嘘はつかない。わたしの良心も聖霊によって、(それが本当であることを)保証してくれる。
9:2 (わたしが急にこんなことを言い出したら信じてくれないかも知れないが、)わたしに大きな悲しみと、心に絶えざる痛みとがあるのである。
9:3 ほんとうに、兄弟すなわち血を分けた同胞の(救われる)ためならば、このわたしは呪われて、救世主(の救い)から離れ落ちてもよいと、幾たび(神に)願ったことであろう。
塚本訳Tコリ7:14
7:14 (夫婦は結婚生活で一体となるため、)不信者の夫は(信者の)妻によってすでにきよめられており、不信者の妻は兄弟(すなわち信者の夫)によってすでにきよめられているからである。そうでなければ、あなた達の子供は清くないはずであるが、現に彼らはきよい(と認められている)ではないか。
新共同 使 16:30-31
16:30 二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」
16:31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
塚本訳 ルカ 14:26
14:26 わたしの所に来て、その父と母と妻と子と兄弟と姉妹と、なおその上に、自分の命までも憎まない者は、だれもわたしの弟子になることは出来ない。
塚本訳 Tコリ7:16
7:16 なぜか。妻よ、夫を(信仰に導いて)救うことができるかどうか、どうしてわかるのか。また夫よ、妻を救うことができるかどうか、どうしてわかるのか。
9・信仰がなくて死んだ人と来世で会えるのか・・・母と再び会えるのか・・・死人を復活して見せたイエスの行為を知って、神には何でも出来ないことはないと一生信じ続けることが大切・・・すると神は奇跡を起こしてくださると聖書は教える・・・信じていればきっとまた会えると信じつづけることが大切・・・信じるという「作用」が神を動かす・・・熱心に、なりふりかまわず、切に祈れと聖書は教える・・・本人に信仰告白がなくとも周囲の祈りで救われる・・・だから「とりなしの祈り」が必要・・・告別式は故人の徳を称えるのではなく故人に代わって神に祈る「とりなしの祈り」がその本質であるべきである。
塚本訳 ヨハ 11:40
11:40 イエスがマルタに言われる、「信ずれば神の栄光が見られると、(さきほども)あなたに言ったではないか。」
塚本訳 マコ 2:1-5
2:1 数日の後、カペナウムにかえられると、家におられることがすぐ知れわたって、
2:2 もはや門口にも場所がないほど、大勢の人が集まってきた。この人たちに御言葉を語っておられると、
2:3 人々が一人の中風の者を、四人にかつがせてつれて来る。
2:4 群衆のためイエスのところにつれて行けないので、おいでになる所の(上の)屋根をはがして穴をあけ、中風の者を担架に寝かせたまま(イエスの前に)吊りおろす。
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て(驚き)、中風の者に言われる、「子よ、いまあなたの罪は赦された。」
塚本訳 ルカ 23:34-35
23:34 するとイエスは言われた、「お父様、あの人たちを赦してやってください、何をしているか知らずにいるのです。」『彼らは籤を引いて、』イエスの『着物を自分たちで分けた。』
10・遠い終末の終わりの日に会えるのか、それとも死んだらすぐ会えるのか・・・終末の日に人類の復活はあると考えるのは単なる頭だけの考えで喜びが湧かない・・・イエスは「その時を待たずとも」(ルカ23:43塚本訳の敷衍に千金の重みあり)会えるということを信じなさいとマルタに言う・・・ヨハネ11:25の「わたしを信じる者は死んでも生きる」とは誰のことか、誰が生きるのか・・・それは自分だけでなく祈りの対象者でもあることはイエスが死人を甦らせた記事全体からわかる・・・だから信仰なくして死んだ者も来世で生き返ることを信ずるようにと聖書の記事が教える。求めよさらば与えられん
新共同 ヨハ 11:23-27
11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
新共同 ヨハ 11:43-45
11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
塚本訳 ルカ 23:42-43
23:42 それから(イエスに)言った、「イエス様、こんどあなたのお国と共にお出でになる時には、どうかわたしのことを思い出してください。
23:43 「イエスが言われた、「アーメン、わたしは言う、(その時を待たずとも、)あなたはきょう、わたしと一しょに極楽(パラダイス)にはいることができる。」
文語 マタ 7:7-11
"400707","求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。"
"400708","すべて求むる者は得、たづぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり。"
"400709","汝等のうち、誰かその子パンを求めんに石を與へ、"
"400710","魚を求めんに蛇を與へんや。"
11・死に方の姿は救いとは関係ない・・・痛みがなく平安の死が望ましいが、苦悶の死でもかまわない。イエスは苦悶の死であった.安らかな死でなくともよい。・・・平安に死ぬことが人生の最終目的ではない・・・ましてや葬式の形式などは救いとは関係がない・・・「大往生」が人生の目的ではない・・・「満足死」が人生の目的ではない・・・癌が脳に転移すると意識も薄れる。するろ信仰告白も出来なくなる・・・母は来世にて生き返ることを信じて生きる
塚本訳 マタ 27:46
27:46 三時ごろ、イエスは大声を出して『エリ エリ レマ サバクタニ!』と叫ばれた。これは『わたしの神様、わたしの神様、なぜ、わたしをお見捨てになりましたか!』である。
塚本訳 マタ 8:22
8:22 イエスはその人に言われる、「(今すぐ)わたしについて来なさい。死んだ者の葬式は、死んだ者にまかせよ。」
塚本訳 ヘブ 11:13-16
11:13 信仰に従い、これらの人たちは皆、(地上では)約束のものを受けずに死んだのである。彼らはただ遠くからそれを眺めて歓迎し、自分たちは、『この地上では外国人であり、旅の者』であると認めた。
11:14 このように(自分を外国人、旅の者と)言う人々は、(ほかにある)自分の国を追及していることを現わしているからである。
11:15 もしも彼らが出てきた所、(すなわちカルデヤのウル)のことを思ったのであったら、(いくらも)引き返す機会があったはずである。
11:16 しかし今や彼らは(地上のものに)まさる天の国を熱望しているのである。だから神も、彼らの神と言われることを恥とされない。彼は彼らのために(天に)都を用意されたのであるから。