市場経済の次に来るのは「人格経済」

(財)建設物価調査会・総合研究所 技術顧問 高橋照男

 

市場経済が勝利したのではない

 20世紀を省みれば、計画経済(ソ連を代表とする共産主義)と市場経済(米国を代表とする自由主義)の戦いであった。その結果無神論で唯物主義思想に立つソ連が崩壊し、ベルリンの壁も崩れて東西の冷戦は終わった。ではこれで市場経済(アダムスミスが説くところの「市場は神の手によって動く」という思想)が勝利したのであろうか。否。市場経済の行きつく先は弱肉強食の冷たい世界となり、その結果が米国9.・11事件を生むことにもなった。この事件により人類にとって市場経済は最終の姿ではないということが示された。

 

市場経済の破綻の次に来るのは「人格経済」

 では市場経済の次に来るものは何か。筆者はそれを「人格経済」とでも呼ぶべきものであると考える。「人格経済」というのは筆者の造語である。それは「人間経済」と呼んでもよい。つまり市場経済は放っておくと無人格な人間不在の数値判断のみの原理で物事が決定される。その結果は不平と不満の渦巻く世界となる。自己の給料が労働効果の数値のみで判定されると「ナニヲ!」と思うのが人間の本性である。そこには人間の真の価値を見るという視点が欠落している。筆者が「人格経済」という認識を持つようになった背景には二つの体験がある。その第一は、あるとき建築会社から提出された見積りが高いか安いかの判定を求められたときのことである。建築主は「あなたが妥当とおっしゃってくだされば私は満足します」という言葉であった。そこには競争による経済の比較判断がなかった。あるのはただ「妥当」という言葉とそれを信じる人の「満足感」だけであった。その第二は筆者の勤務先(3回変わったが)の「長」の人格である。給与報酬に関してはどの場合も一度も不平不満をもったことがない。なぜなら、その時々の「長」は私のことを熟知していてくれたからである。その「長」が私のことを熟知してくれていたので「今の私にはこの給料の額が妥当でこれで満足しなければならない」と常に思えたからである。そこに「長」の人格があった。経済的満足というのは、「自分を良く理解してくれている」という「長」の人格存在が必要である。それがなければどんなに高い給料であっても真に満足せず、常に飢餓感にさいなまれる。市場経済の競争原理というのは常にこの飢餓感というものに満ちている。目標達成やコストダウンという合い言葉はどのような企業にも共通で、それは飢餓感や不足感による競争心が土台にある。

 

J・ラスキンの預言

理想的な経済社会の姿はこのような「人格」が存在する社会であると説いたのは、英国のJ・ラスキン(美術・建築・経済評論家1819−1900年)である。ラスキンはその著「Unto This Last」(この最後の者にも)において、新約聖書マタイ福音書20章1〜16節のイエスの言葉に根拠を置き、少しの時間しか働けなかった「最後の者」(多分それは健康ではなかった弱者)にも、長時間働いた者(多分それは健康であった強者)にも同額の報酬を支払ったという葡萄畑の「長」の人格の存在を誉め、これが来るべき理想的な経済社会の姿であると説いた。筆者もラスキンの思想に賛成である。これが「人格経済」の根拠である。

しかしこの経済原理が広く世に行き渡るには、一人一人が現実に真の「人格」たる神という「長」に出会うことが必要である。現在、英国の国会議員が最も尊敬する経済思想家はJ・ラスキンであるという。英国健全なりと言うべきである。しかし、この思想が広く人類に根付くのはいつのことであろうか。

 

 

 

1498文字  「建築と積算」20033月号    2003.3.2