故 坂上百合子 告別式 「感話」

東京聖書読者会所属 高橋照男 二〇〇二年二月十二日 於清瀬市荒田葬儀社

 

東京聖書読者会に所属します高橋照男でございます。

内村鑑三は植村正久の告別式において、その遺骸に接した時「グレイト、グレイト」と2度叫んだそうです。私はこの遺影写真を見て、百合子さんに対しそれと同じ言葉を発したいのであります。「百合子さん、グレイト、あなたはグレイトでした」と。

 病人の友、悲しむ者の友、清瀬の愛の光、まことに巨星落ちたとの感じがします。

私はなぜ百合子さんをグレイトと感じるか。それは百合子さんがイエスが「、私の弟子はかくあれ」と理想とした姿であったと思うからであります。イエスは「あなた達は世の光である」と言いました。そしてそれに続けて「山の上にある町は隠れていることはできない」と言いました。(マタイ5章一四節)

 その愛の業の数々は数え上げればきりがないでしょう。それはここにお集まりの皆様の胸の中に非常に多くあって天の書に記されています。そしてそれらは不思議に深く心に残り、忘れられないことが多いのです。ヨハネ伝の最後二一章二五節に「イエスのなさったことはこのほかに山ほどあって、もしそれをひとつびとつ書きつけるならば、全世界にも、書いた書物の置き場所があるまいと思う」とありますが、はじめ私はこれを誇張と思いましたが、百合子さんの思い出を皆さんが書いたらそれこそ書ききれないものであると思うにであります。

 私は昭和一八年に埼玉県の浦和市に生まれました。父がクリスチャンでありましたので、小さい時から教会に通っていましたが、十六歳の時に塚本虎二先生の「聖書知識」をむさぼるように読み、この方は本物だと感じました。その結果教会に違和感を感じるようになりまして、世話になった教会を去ることになりました。その頃、坂上さんご夫妻は生きるか死ぬかの死線をさまよう病人の方々には「聖書知識」が一番よいとの鋭眼からすでに入手困難であった「聖書知識」の旧号をガリ版ずりにして書き写し「聖書知識ぬきがき」として発行しておられました。わたしもその「ぬきがき誌」を求めてある日曜日の午後、浦和から自転車で清瀬の坂上さんのお宅に伺いました。これが坂上さんとの初めての出会いでした。そのとき百合子さんは「あなたは教会を去ることによってお父様とお別れになったのですか」と尋ねられました。また、ご主人の国蔵さんは「無教会といってもピンキリである。本物は教会との違いが分かって、教会と別れて無教会に来た人だ」と慰めてくださいました。それほど自分を生んでくれた教会と別れるいうことには辛いものがあるのです。無教会が日本に誕生した時にはそういう悲劇が沢山ありました。私としてもなま木を裂かれる思いでした。

 その後塚本先生の喜寿のお祝いが春風学寮であったとき、塚本先生に私を紹介してくださったのは国蔵さんでした。その後毎週丸の内の集会に出席したいという希望のために東京に出てくるように考えてくださったのは百合子さんでした。そして藤林先生に引き合わせてくださいました。これが後に最高裁判所長官になられた藤林先生との出会いでした。従いまして私が塚本先生、藤林先生という御両名と出会うことが出来ましたのは、その背後に坂上さんがおられました。百合子さんは良い人を紹介するのが得意でした。

 さて、幸福論の著者カール・ヒルティは人生の最大の目標はバルナバのような人になることだと言っています。このバルナバは使徒言行録の四章三六節には括弧で(「慰めの子」という意味)とあります。つまりこれはあだ名であったといいます。百合子さんもあだ名をつければ「バルナバ(「慰めの子」という意味)と言うことがふさわしく、ヒルティの誉める人であったと思います。

 ではその慰める能力はどこから来たのかを考えます。それは苦難です。百合子さん自身の悩みと涙です。百合子さんは光の人愛の人でありましたがその愛の大きさと同じぐらい、ご自身の苦難も大きかったと思います。

 漏れ伺うところによりますと、百合子さんは青山学院の神学部の御卒業で、はじめは夫人伝道師をされて教会に奉仕されていましたが、塚本先生の説かれる無教会主義に触れてその地位を捨てました。自分を生んでくれた教会を去るということは非常につらく悲しいものであることは経験した人でないと分かりません。次の苦難は病人や気の毒な人を訪ね歩いたために家がいつも留守であって、基恵さんや義雄さんがどれだけ淋しい思いをされたかです。家庭が犠牲になりました。次に不思議なことは、あれほど病者を慰めに回った百合子さんの足が具合悪くなったことです。神様はなんということをするのだろうとその頃思いました。

 塚本先生の言葉に次のようなものがあります。

「一見、不条理な、不可解なところに神の大なる恵みの知恵が隠されていると私は信じる。神はこれを以って私たちに神の愛の何であるかを教えられるのである。」(「神は愛なり」小泉康雄遺稿集)。

 一昨年、わたしの家が火災で消失して、さらに三ヵ月後に脳出血で倒れた時、「神様のなさることはむごいねー。」と言って電話の先でウンウン唸りながら一緒に心から泣いてくださいました。苦難の時に一緒に泣いてくださる方がいるということは人生の慰めまた喜びです。それは永遠に忘れられません。百合子さんはバルナバでした、光の人でした。イエスもヒルティも誉める人でした。それは百合子さん自身が多くの苦難に会い、涙を流されたからです。

百合子さんの生涯は世には隠れていましたが、神にはよく覚えられた生涯でありました。それは「天に宝を積んだ」生涯であったからです。私の人生もこのようにありたいと思うのであります。(了)

 

坂上百合子 納骨式 式辞   高橋照男

2002・3・30 秩父市やすらぎの丘

キリストにあって多くの人を愛し、また慕われた坂上百合子さんの納骨式にあたり、ひとこと式辞を申しあげます。

 百合子さんほどの愛の人がなぜ死んでしまうのかと思います。しかし人は必ず一回死にます。これは神に定められた宿命です。万人に共通のことです。最近わたしは「満足死」と言う言葉があることを知りました。万人が「満足死」を望みます。思うに人の一生の努力は満足して死にたいためにあります。しかしどんなに金と地位と長寿があっても最後に「満足死」を得られなければその人の人生の努力はむなしいものです。そして大抵は真に満足して死ぬことはありません。しかし人は主にあるとき「満足死」が得られます。貧困でも短命でも主にあれば「満足死」を迎えられます。今はやりの「介護保険制度」も大切ですがそれよりももっと大切なのは人が満足して死ぬことです。しかし現代医学はそれをなしえません。目指しません。

百合子さんは肉体の痛みが大きかったのですが心は常に満足でした。肉の体は日々壊れていきましたが、霊の命は輝いていました。話の内容と声は明るかったのです。このことは神の祝福によるもので、最新の医学でもとうていなしえないことです。

 さてその百合子さんは今日ここに永遠の眠りにつきますが、百合子さんを知る人はこれから後2代、長くて3代ではないでしょうか。われわれも多分3代後には誰からも忘れられてしまいます。墓もあるいは無縁仏になるかもしれません。淋しいことです。悲しいことです。人生ははかないものです。これを思うと旧約聖書詩篇作者のごとく深いため息を禁じえません。

詩篇90編5−6節「かれらは一夜(いちよ)の寝(ねむり)のごとし朝(あした)にはえいでてさかえ夕にはかられて枯るるなり」

しかし私達は旧約に生きるものではありません。神は私達の罪を贖うためにイエスを贖罪の死に赴かせ、さらには来世があることを最もわかりやすく教えるために肉眼で見える形(霊の体)でイエスを復活させ給いました。

新約に生きる私達は死のかなたに復活の希望を与えられました。そうです、復活は確実です。なぜなら神はイエスを墓を蹴破って肉眼で見える形(霊の体)で復活させ、私達に来世があることをわかりやすく教えてくれたのです。終末の日には万人が甦ります。さようなら百合子さん。ありがとうございました。また会う日まで、いましばしのお別れです。その日は間もなくです。

2002・3・30 高橋照男

 

新改訳 詩編90編

 

90:1 主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。

90:2 山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。

90:3 あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」

90:4 まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。

90:5 あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。

90:6 朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。

90:7 まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。

90:8 あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。

90:9 まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。

90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

90:11 だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。

90:12 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。

90:13 帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。

90:14 どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。

90:15 あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。

90:16 あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。

90:17 私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。