「内村鑑三研究」第三四号 (一九九九年 ) 掲載論文
 

 内村鑑三とラスキン…… 楽園労働の回復          高橋照男

はじめに―――ラスキンとの出会い

 わたしは今から七年前の一九九二年の春に、腎臓結石の手術のため一ヶ月入院した。そのときかねてから読みたいと思っていたラスキンの「建築の七燈」を読んだ。入院というような時間のあるときでないとこの難解な本は読めなかったからである。この本は全部で七章からなり毎日一章ずつ格闘しながら読んだ。格闘したと言うのは、この翻訳は昭和六年に出版された岩波文庫の高橋訳であり、活字がつぶれていたり難解な言葉や漢字か多かったためである。これは世界的な名著であるのにもかかわらず、日本において他の訳が出なかった理由は、聖書と建築の素養がないとなかなか内容が理解できないからだと思われる。幸い一九九七年の秋に杉山真紀子訳が鹿島出版会から出版された。これは現代口語訳であり内容を理解するのにずいぶんと楽になった。「建築の七燈」はラスキン三四歳のときの建築論である。建築の本質を導くものとして七つの燈をあげ、この七つの燈に導かれて建てる建築がよい建築になるというのである。七つの燈とは、犠牲の燈、真実の燈、力の燈、美の燈、生命の燈、記憶の燈、従順の燈である。この燈を内にもつ建築をラスキンは理想とする。ラスキンが十九世紀後半から二〇世紀初頭にかけての世界中の芸術家・建築家に与えた影響は、計り知れないものがある。ウイリアム・モリスとそれに続く英国のアーツ・アンド・クラフト運動、またサリヴァン、ライト、コルビジェなどの建築家たちは皆ラスキンの影響を受けている。普通この本は建築史や美術論の方面から取り上げられる場合が多いが、筆者はこれは「建築労働者の幸福論」なのだと読解した。つまり神と建築と経済が調和するところに労働者の幸福があると読んだ。この理解はラスキンの生涯の課題である「労働の神聖」というテーマからしても当たっていると考える。退院してからもますますラスキンに引かれていったが、その過程で実は、内村鑑三は日本にラスキンを紹介した先駆者であること、また「労働の神聖」に関してラスキンと内村鑑三が同じ見解を持っていることなどが分かり、ここに本稿執筆に至ったわけである。

ラスキンが与えた影響の大きさ

 ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819―1900)は英国のヴィクトリア朝時代に生きた芸術批評家・社会思想家である。その影響は壁に染み付いた声のように多方面に深く浸透している。私の見聞きした範囲に限っても次のとおりである。まず経済学の面では「この最後の者にも」で経済学は社会的に弱い人間に目を向けたものでなければならないことを説き、これが自由主義経済の強者繁栄の論理に警告を発するものとなっている。川勝平太氏(元早稲田大学政治経済学部教授、現在は国際日本文化研究センター教授)によればマルクスの次に来るのはラスキンで、二一世紀はラスキンの時代であるという。政治学の面で見れば、英国国会議員に影響を与えた最大人物としての地位を確保しているという事実。美術工芸の面では、ウィリアム・モリスに影響を与え、アーツ・アンド・クラフト運動に発展した。これは機械生産を嫌い手工業のなかに労働の本質を見出そうとする運動である。建築の面では先に述べた「建築の七燈」のほかに「ヴェニスの石」があり、手の業による建築労働の尊さと喜びを説いている。この著書は労働問題にも尽力した賀川豊彦によって一九三一年(昭和六年)に翻訳されている。本書に注目した賀川豊彦の慧眼と難解な建築造形論の内容を訳しきったその努力に脱帽するものである。社会思想の面では賀川豊彦をはじめ宮沢賢治の活動にも影響を与えている。それは人間労働の尊さへの覚醒運動である。賀川豊彦は松沢教会を建築ギルドという組織体制で建築し、その建築細部のデザイン意匠にはアーツ・アンド・クラフト運動の影響がある。東京都世田谷区の上北沢にある賀川豊彦記念館には、旧松沢教会の一部が保存されていてそこにそのデザインを見ることができる。宮沢賢治の農民運動の一つである羅須地人協会の羅須は、ラスキンのラスと関係があるのではないかと言われている。宗教の面では内村鑑三がラスキンに注目して、いち早く日本に紹介している。特に両者には「労働の神聖」「労働の喜び」の回復という共通のテーマがある。内村鑑三の無教会主義はそれを指向しているのであり、それはルターの宗教改革の本質である聖と俗との対立の克服という重要な事柄である。このことから英国十九世紀の思想界の巨人ラスキンと、わが国近代化の巨人内村鑑三は「楽園労働」の回復という共通テーマを持ち、理論だけではなく実現のフィールドを開いたというべきである。ラスキンにおいてはアーツ・アンド・クラフト運動にはじまる芸術活動と人道主義的な経済思想にもとづく楽園労働の回復、内村鑑三においては無教会主義の実現であった。本稿は両者に共通のこの「楽園労働の回復」というテーマを扱うものである。

ラスキン紹介の第一人者としての内村鑑三

 内村鑑三が諸外国の先駆者たちをいち早く日本に紹介した功績には目覚しいものがある。教文館版の内村鑑三全集の索引を見ても内村が紹介した人物の多さがよく分かる。しかし内村鑑三がわが国にラスキンを紹介した第一人者であったことは内村研究家の間でもあまり知られていなかった。これを指摘したのは川勝平太氏である。以下の文章は「ラスキン文庫たより」第二十九号(一九九五年九月ラスキン文庫発行)所載「明治日本の社会思想とラスキン」川勝平太の論考からの抜粋である。刺激

明治日本に、ラスキン紹介の重要な種を蒔いた人々がいる。内村鑑三はその一人である。……
明治期の日本のラスキンの受容のありかたは、第一に、紹介されたのは『近代画家論』『胡麻と百合』(一八六五年)の一部である。第二に、紹介者は藤村、上田敏、久保、蘇峰、小島鳥水ほか十名前後の人たちであり、社会科学というよりも美術文芸にかかわる人たちであった。第三に、紹介時期はおおむねラスキンの死後である。この三点にまとめられよう。……明治二七年(一八九四年)に志賀重昂の「日本風景論」が出版されると内村鑑三はたちどころに『六合雑誌』(一六八号、明治二七年・一八九四年一二月一五日)で長文の批評をして、そのなかで「今を去る半百年前、英のジョン・ラスキンが自然画の泰斗ジョゼフ・ターナーの技工に刺動を受けて、彼の有名なる『近世の画工』(Modern Painters)を著してより、文明世界は始めて美を自然に読むの眼を開かれたり。日本風景論を読んで余輩は著者に『日本のラスキン』なる名称を呈することをおしまず。」と言っている。……ともあれ、志賀を「日本のラスキン」と評したのは内村鑑三であった。鑑三は明治一〇年(一八七七年)に札幌農学校に入学しており、志賀と数年間、同じ札幌農学校で学んでいるのである。内村は志賀より二歳年上であり、農学校では三年先輩にあたる。内村が志賀『日本風景論』をラスキンと結びつけたのは慧眼である。同時に志賀がラスキンを読んでいたことを推量させるものである。それだけではない。内村鑑三自身がこの時点で、ラスキンのModern Paintersに説かれた思想を自家薬籠中のものにしていたということも知られるのである。……内村鑑三のラスキンに対する敬愛の情は生涯変わらなかった。かくてわれわれはラスキンの偉大さを一貫して認めた最初の日本人として内村鑑三をあげるのが適切だと考える。

 以上が川勝平太氏の論考の要旨である。つまり明治期にラスキンを日本に紹介したのは十名前後いた。そのなかで内村鑑三は紹介の第一番手ではなかったが、ラスキンの思想を自家薬籠中のものとしてそれを高く評価していたことにおいて第一人者であった、というのである。川勝氏のこの指摘は今後の内村鑑三研究に一つの光を投げかけるものと思われる。その試みの一つとして本稿はラスキンと内村鑑三の労働観にのみ絞って考察してみたい。

ラスキンの労働観
 ラスキンの生きた時代に文明は次第に機械化していき人間の労働が疎外され始めた。そのことにより労働の喜びや神聖意識が薄れ、人間の尊厳が失われるようになった。ラスキンはこの問題に深い悩みを抱き、美術評論とともに経済評論も書くように移って行った。労働の疎外という問題意識はマルクスも同じであった。マルクスはラスキンより一歳だけ年上の同時代人である。この両者が同じ問題を抱えていて一方はマルクス主義経済学を打ちたてて人類の解放に向かった。しかしそれは八〇年と続かずに崩壊した。一方ラスキンの経済思想と労働観は今までマルクス主義の影に隠れて目立たなかったが、マルクス主義が崩壊した現在、その真の価値が見え出したのである。経済学の専門家ではないので詳しくは論じられないが、マルクスとラスキンの違いを一言で言えば、「人はパンだけで生きるのではない」(マタイ四章四節)ということであろう。つまりマルクスはあまりにパンのみに集中したのである。二〇世紀は終わろうとしているが、一つの見方としてマルクスの世紀が終わるのである。ここへきて、これからは個人の「生命活動」「文化活動」が人間生存の本質であり、そのことによる「人間の尊厳の回復」が真に人類を解放するのだというラスキンの思想が浮かび上がってきたのである。この見地から川勝平太氏は、「二一世紀はラスキンの時代である」と予言するのである。
 ではラスキンの労働観はどのようなものであるかを、私が深く心に残ったこと三点を通して紹介して見よう。ラスキンは一貫して機械作業を嫌い手仕事を推奨した。それも注文主との心の通う仕事を理想としたのである。
 その第一は賀川豊彦が訳した「ヴェニスの石」の訳者序文である。これにより賀川がなぜラスキンに傾倒したかを読み取ることができると同時にラスキンの労働観とはいかなるものであるかがよくわかる。賀川は次のように言う。「『ヴェニスの石』を通じて、建築物そのものの中に、物質以上の精神的表現が伏在していることを、日本の若き人々に理解してもらいたいのである。もしも『ヴェニスの石』が、そうした意味において日本に理解せられ、人間の欲望と労作が、単なる物質の変動の一つの表れではなく、神と永遠への思慕の表れであることを理解してくれるならば、それほどに私は幸福なことはない。」―――――つまりラスキンはヴェニスの建物を見て、その石の一つ一つに職人の労働の喜びと尊厳を感じ取ったというのである。労働問題にも尽力し、労働の尊厳の回復を唱導した賀川豊彦が本書を訳すに至った動機もこの序文から知ることができる。このようにラスキンの労働観の背後には神とか永遠とかの概念が土台として存在しているのである。
 第二の例はラスキンの詩を用いて説明しよう。それは『建築の七燈』六章六節である。ラスキンはあるとき、スイス、ベルンの高地グリンデルヴァルト近くの美しい村の、とある山荘にかかっていた詩に目が止まった。ラスキンはその詩に神の恩恵への感謝があふれていることを見たのである。その詩を次に掲げるが、そこには建築労働者の祈りと幸福が込められていて天地が調和している。その労働は喜びのうちにあり、それが天にこだましている。私はこの詩を読んでラスキンの労働観が一瞬のうちに分かった。詩は偉大である。

  心からなる信頼をもって、
  ヨハンネス・モーテルとマリア・ルビが
  この家を建てさせたのである。
  願わくは御神よわれらを守らせたまえ、
  あらゆる不幸と危害より。
  そうしてこの家をば祝福の中に立たしめ給え、
  苦難のこの世の旅、
  信仰深き人みなの住む天国への旅において。
  かの国にて神は彼らに報い給うであろう、  
  平和の冠をもて、
  永遠の永遠までも。

 第三の例は、ラスキンが真に価値のある建築とは何かを語っている部分である。「建築の七燈」の第五章二十四節には次のようにある。「(建築の真の価値は)それに携わった労働者がその建築に従事しつつある間、幸福であったか(によってはかられる)………幸福なきところには生命もないであろう。」
ラスキンの言う意味は次のとおりである。神を知らずして真の建築はない。それは死せる造形礼賛か経済利潤追求の道具である。そこにはむなしい感情が残るのみで生命の喜びがない。真の建築は建築労働者の一人一人が神を信じて生命の喜びに溢れ、自分に与えられた技術の賜物を通して、神の栄光を表わすことである。そのとき建築労働者は初めて幸福であり、その人たちによって建てられた建物は神の目に真に価値あるものなのである。
 以上三っを引き合いに出したが、これでラスキンの労働観の本質を把握することができたであろう。ここに聖なる職業と俗なる職業を区別しない労働観を見ることができる。        

内村鑑三の労働観
 内村鑑三の労働観を見るとき、そこにラスキンと似ているものを見出すことができる。それは低い一般職業労働にこそ神から与えられた神聖なる意味が込められているという見解である。これは聖と俗とを分離しないプロテスタンティズムの本質であり、無教会主義は聖職者を否定することによりそのことを実行するものである。ルターの宗教改革が不徹底に終わったことの表れの一つがこの職業観である。ルターには職業召命論がありどんな職業でも神から召されるものだとし、聖なる職業と俗なる職業の差別を撤廃したのである。これが宗教改革の本質部分である。このことはブルンナーの教義学?に詳しく解説がある。(邦訳ブルンナー著作集第四巻・教義学?・上九五ページ 教文館一九九八年発行)しかしながらである、プロテスタント教会では事実上のところ聖なる職業と俗なる職業の差別意識をその根底に持っていて、一般職業労働を神の国には直接に役に立たないものとする神学思想に舞い戻っている。これが無教会主義とは決定的に違う点なのである。ルターの宗教改革は不徹底に終わっているという見解はこの点にもある。つまりプロテスタント教会には、神の国は聖職者の活動と教会の勢力拡大によってもたらされるものだとの「神学」があるため、それに関わりのない一般職業労働には積極的な意義を見出し得ないのである。無教会には、「神の国は人間の活動や教会の勢力拡大で来るのではなく、神がその主権でもたらすのである」との「神学」がある。そして信者は低い一般職業において洗足の姿勢で一生を終わることを促されている。これは教会における教会活動こそが重要なのだという風習とは大いに違うのである。
 ではこの職業観は内村鑑三の著作のどこに表れているかといえば、それは「いかにしてわが天職を知らんか」(一九〇四年八月「聖書の研究」)である。このわずか二頁にも満たない文章の中に内村鑑三とその後の無教会の人生観,職業観が端的に見事に表わされている。有名な文章であるがここでその一部を掲げてみよう。
 「人におのおのその天職のあるのはよくわかっております。しかしこれを発見するのは非常にむずかしくあります。『いかにしてわが天職を知るを得んか』、これ実際の大問題であります。……天職は、高尚なるほど、これを発見するに困難であります。女官であるとか、政治家であるとかいうような天職は、これを発見するのはいたって容易であります。しかしながら貧家の良妻たらんとか、または平民の伝道師たらんとかいうような、高貴なる、神に似たる天職を探し出すのは、非常に困難であります。これには、多くの時と経験とを要します。これは、幾度となく私どもに示されても私どものしりぞくる天職でありまして、私どもがついに感謝してこれを受くるに至りますまでには、多くの失敗にもおちいらなければなりません。しかしながら、神の定めたまいし天職は、とうていこれを私どもよりしりぞくることはできません。神はその選みたまいし者を無理にもその天職に押し込みたまいます。私どもはただひたすらに神に仕えんとの心を持っておれば足ります。されば神は遅かれ早かれ必ず私どもを彼の定めたまいし天職にまで連れ行きたまいまして、そこに私どもに大満足を与え、私どもをしてこの世に生まれ来たりし甲斐(かい)のありしことを十分にさとらしめたまいます。」
 これは「ある青年婦人に告げし言葉」とあるので、誰か若い人の深刻かつ現実的な質問に答えたものであると考えられる。若き日における進路問題、天職問題は深刻である。そんなとき内村鑑三によってこのような指導を受けた青年婦人たちは幸いである。これを聞いた婦人の中には文字通り貧家の良妻で生涯を送った人もいたであろう。無教会は髪を振り乱して伝道活動に走り回る女性を作らなかった。一般職業の深い意義を知らず、人生経験を踏まないで神学校に行き、難解な神学論を振り回す青白い牧師を無教会は作らなかった。このことだけでも神が日本に「無教会」を植えた意味があった。そしてなんと言っても一般職業のそれも低い仕事こそが「神に似たる天職」であるとの見解は、私にとって大いなる慰めであり、啓示であった。ここに名実ともに「無教会主義は宗教改革のやりなおしである」と言われる意味がわかるのである。しかしながら今日の無教会にも聖職者とはいわないまでも、聖書の専門家という人物がいつのまにか生まれた。彼らは聖書研究で生活をしていて、事実上宗教の専門家になっている。そしてこの世の仕事に就くことは俗なることと理解し、そこに積極的な意義を見出していない。彼らに教導される若者たちは気の毒である。普通一般のいわば低い毎日の仕事に意義を見出せずにいる。しかし内村鑑三とそれに続く二代目の指導者たちは、信者が聖書の職業専門家や伝道者になることを嫌った。内村鑑三とその無教会のこのような職業観で、どれだけ多くの青年が一般職業に神の導きを見出し、そこで深くかつ尊い仕事をしたかは枚挙にいとまがない。それは家庭内の家事労働者、正直な商人、病にも失望しない闘病者、山間僻地に働く農業者、手仕事を尊ぶ下町の工場労働者、目立たない洗足の精神で生きる労働者など、私の身近に知るところでも内村先生の教えを忠実に守ってその生涯を終えられた方が何人もいる。彼らは無名であるがそれは天に宝を積んだ生涯であった。内村鑑三の職業観はプロテスタンティズムを徹底したのである。ラスキンは彼らの職業的実存に賛辞を惜しまないであろう。
楽園労働を回復する道
 以上、ラスキンと内村鑑三を通して「労働が神聖である具体的な実証」の姿を見てきた。それは楽園の労働への回帰である。ここにおいて楽園の労働の姿にはなぜか洗足の姿勢のイメージがあるが、それはただ単に低い仕事であればそれでそのまま尊いというのではない。それはキリストによる救いを通して神との交流を回復し、心に楽園を回復した者が携わるときに初めて低い仕事こそが「神に似た仕事」(前掲の内村鑑三「いかにしてわが天職を知らんか」のなかの言葉)になりうるのである。人間は神との交わりが回復して始めて労働の喜びが湧き出す。それまでは神以外のものに仕える労働なのであるから必然的に生きがいも喜びも湧かないのである。神以外のものとは、マモン(金銭)、支配欲、思想、美、哲理、効率、高度な技術、早さ、大きさ、などである。それは荒野の誘惑でイエスに対してサタンが並べ立てたこの世の魅力である。(マタイ四章一―一〇節)神なき人生観は必ずこれらのどれかに生きがいを見出そうとするのであるが、結局はそのどれにも喜びを見出すことはできないのである。そこにあるのはただむなしさと寂しさだけである。人類がなぜこのように労働に生きがいと喜びを見出せなくなったのかは、創世記にその答えが出ている。(二章一五節―三章十九節)神ははじめにアダムにエデンの園を守らせ、これを管理させた。アダムを愛して彼に財産を任せ、アダムはこれに答えて労働をした。ここに美しい心の交流があった。労働は愛するものに捧げるときには苦痛でなく、かえって喜びである。アダムの楽園での労働はそれであった。しかしリンゴの件で神とアダムとの関係がまずくなり、心の交流がなくなった。アダムにとって労働が苦痛になったのはこの時からである。以来何千年、労働は人類にとって苦痛以外の何ものでもなくなったのである。人類はその苦痛をやわらげるために様々の努力が積み重ねられてきた。しかし神との交流を回復することなしにはそれはどの道無駄なことであった。しかし第二のアダムといわれるイエスキリストによって人類に楽園が回復されると、労働も再び喜びに変わったのである。それは聖職でなくともどんな職業でも神と共にあるとき労働は神聖で喜びである。このような職業観を教えず、あいかわらず聖なる仕事と俗なる仕事を区別する意識を持つ教会主義は災いである。彼らはキリストの血でせっかく開かれた楽園労働回復の道を塞いでいるのである。ラスキンと内村鑑三はそのことに気がつき楽園労働回復の道を指し示し、具体的なフィールドを作ったのである。英国の巨人と日本の巨人は期せずして同じことを指向した。
 これらの思想の聖書的根拠はルカ福音書一六章一―十三節が最も適切であるが、筆者は塚本虎二の解説ではじめてその深い意味を知ることができたのでそれを掲げる。
 塚本虎二著「聖書知識」一六三号一六ページ「行方不明の息子の譬話7・救われし人の生涯」
 (これは聖書知識文庫「放蕩息子とその父」聖書知識社発行に収められている。)
 塚本虎二著「聖書知識」三一七号二ページ「不埒な番頭の譬」
   同        三一八号二ページ「この世の生き方」
実に楽園労働の職業観は、来世観を背景にしたイエス自身の言葉の中に答えがあることがわかる。

忘れ得ぬ言葉
 わたしの仕事は建築である。内村鑑三が作った無教会のフィールドにおいて、今日まで無教会者から二六件の建築を依頼された。それらのいずれもが信仰の交わりに基づくものであってそれは実に楽しく喜びに満ちたものであった。天国の前味とも言うべき労働であった。そこに労働の苦痛はなかった。楽園が回復された労働をわたしは味わうことができた。この二六名の方々はわたしに労働の本質と喜びを実地で教えてくれた。そのなかでもどうしても忘れ得ぬ言葉を頂いたことがあるので最後にそれを紹介しよう。それは次の手紙である。
「建てていただきましたこのビルは、先日屋上でご一緒に見た隅田川の花火のように、永遠という時の流れから見れば一瞬のうちに消え去るでしょう。しかし信仰によって高橋さんに一生懸命造っていただいたという思い出は、私の心に永遠に残ります。」
この手紙を頂いた私は、この短き生涯において楽園が回復した労働をすることができたと感じた。このことはラスキンにも内村鑑三にも喜んでもらえることであると信ずるものである。

                        (一級建築士・建設物価調査会技術顧問)
                                 一九九九年一月二日