苦難の意義に関する説明で「苦難と神の愛」と題する塚本先生の短い説明ほど私を慰めかつ納得させてくれたものはない。私はこれを忘れまいとしてこの二〇年間日記帳の表紙に必ずこの短文が載せられている聖書知識の号数を記した。五十七才の今日、再びこの文章を読み、深く慰められたのと同時に、その内容をまた少し分からせていただけたような気がする。
苦難と神の愛 塚本虎二
(聖書知識九二号 昭和十二年一九三七年八月)
ヨブは神から財産を奪われ、その子女をことごとくもぎ取られ、全身恐ろしい腫れ物で苦しめられながらも、なお神を呪わず
エホバ与えエホバ取りたもうなり、エホバの御名は讃むべきかな
と言って、ついに罪を犯すことをしなかったという(ヨブ記一〜二章)。
まことに義人ヨブなればこそである。もし私達に彼だけの信仰と謙遜と覚悟とがあるならば、私達の生涯は如何ばかり明るくなることであろう。
しかしながら、ヨブのこの言の調子は高くない。神から多くの幸福を戴いているから、どんな不幸でも苦難でも甘受せねばならぬという消極的の諦めであって、まだこの鞭の中にこもっている神の深い愛の意味を把握することが出来ずにいるからである。彼は多分最後にその財産を倍加され幸福なる家庭を恵まれた時に、始めてその無知に気付き、神に懺悔し、限り無き神の愛に対して感謝の祈りを捧げたに違いない。
まことに神の愛は限りなく高く、深く、かつ広い。何人もこれを言葉にし筆にすることは出来ない。ただ神の啓示たる聖書の中には、この広大無辺なる神の愛をいみじくも書き記した個所が少なくない.否、聖書全体が神の愛の大讃美歌である。しかしその中においても最も美しくこれを描いたものの一つが、有名なるモーセの歌の中にある親鷲の比喩である。多分モーセ自身かかる神の愛を度々経験したのであろう。彼は神エホバがイスラエル民族を愛撫し給うのを譬えて言う ――――
鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ翼に乗
せて運ぶように(申命記三十二章十一節)
親鷲がその雛に飛び方を教えようとする時は、まずその巣を騒がせて雛どもを巣の外に追出す。しかし危険を慮って巣の上を舞いながらこれを監視し、もし雛が飛び得ないか、あるいは疲れて飛べなくなった時には、これを自分の翼の上に載せるという。エホバがイスラエルの民を守り導き、これを訓練し給うことが、あたかもこの親鷲のようであるというのである。(註)
註 これを敵が襲来した場合にその雛を呼び起こすことであるとする見方があるが(ケーニッヒ)通説が正しい(ベルトレット、ストイエルナーゲル、ドライバー 等)。
獅子は子を産んで三日を経る時、これを数千丈の谷底に落としてその勢いを見、自ら断崖を登ってくるものだけを育てると言われるが、しかしこれと彼とは違う。これは戦国武士の訓練であり、かれは慈母の愛を持つ父の教育法である。眼球のようにその民をいたわり守り給う神の愛である。
神は愛にてあり給う。私達には愛以外の何ものも臨まない。不幸と見え、神の呪詛と見ゆることも、究極する所は愛である。否、最も愛ならずと見ゆる所に、かえって大なる愛が秘められている。真の愛は隠れるからである。神は掻き裂き、また癒し給うという(ホセア六章一節、ヨブ記五章一八節参照)
ホセア書六章一節「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。
ヨブ記五章一八節「彼は傷つけ、また包み、撃ち、またその手をもっていやされる。」
矛盾である。しかし掻き裂き給うは愛し給うからである。然り、神は愛するが故に掻き裂き、愛するが故にまた包み給う。否、癒さんとして掻き裂き、包まんとして傷つけ給う。私達罪の人間はこの神の愛の矛盾の坩堝において精錬さるることなしには神の国に入ることが出来ない。
ロマ書八章一八節「われ思うに、今の時の苦難は、われらの上に顯れんとする榮光にくらぶるに足らず。」(文語訳)
とパウロはいった。キリストの光に照らされたクリスチャン・パウロの目には、ヨブに見えないものが見えたのである。彼はこの世の苦難と不幸とがすべて神の深き愛に出づるものであり、それが、ただそれだけが、人を神の国に相応しい者にすることを知ったのである。
艱難なしには何人も神の国に入ることをゆるされない。神は殺しまた生かし給うという(サムエル記上二章六節、申命記三二章三九節)。
サムエル記上二章六節「主は殺し、また生かし、陰府にくだし、また上げられる。」
申命記三二章三九節「今見よ、わたしこそは彼である。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かし、傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出しうるものはない。」
然り、彼は私達を生かさんとして殺し、殺して生かし給う。