塚本先生に学んだこと

清永昭次先生の講演草稿 高橋照男補足解説

 2004.10.24 第31回塚本先生記念会で発表

 

清永昭次先生はこの度の「第31回塚本先生記念会」の講師予定でありましたが、丁度一ヶ月前の去る9月24日に召されました。病名は肺炎で享年77歳5ヶ月でした。清永先生は永らく学習院大学教授であられ、ご専門はギリシャ古代史でした。信仰は矢内原忠雄先生に学ばれました。私は清永先生の代わりの講師をどうしようかと思いあぐねていましたが、ご遺族から「講演会の草稿」(A4半ページ)があることを教えられました。そこで今日の第一部、清永先生の部分はその講演草稿をご披露し、私が補足解説させていただくことにさせていただきます。この講演草稿は清永先生の「遺言」のような気がいたします。以下太字の大文字は清永先生の草稿原稿そのままで、●印の細字の小文字は高橋の補足解説です。                             (高橋照男)

 

 

「塚本先生の信仰に学ぶ」

 2004.10.24(日)2〜2.30PM 千駄ヶ谷野口英世記念会館

講師を引き受けたいきさつ。

昨年10月、市川の山崎製パン会館での無教会全国集会の時、高橋照男様からの依頼。辞退したが塚本の著作を読んでいなくてもできる話でよいと説得された。

 

●塚本先生没後30年、塚本先生の著作を通して塚本先生を改めて注目する人が多数出てきたことを側聞している。清永先生もそのお一人であられたので今回の講師を依頼した。

●過去の人物に目が開いたという人は純粋で、その人物の本質を正しく掴む傾向がある。

●肉のキリストを知らなかったパウロが福音の本質を正しく把握したのと同じである。

 

 

T 今井館教友会NPO

エクレシア ― 神の国 霊的なもの(Y,cf復活のキリスト、有体)

 

●無教会の情報サービスの働きをしているNPO法人今井館教友会の理事長としての見解。

●無教会の蛸壺化現象を憂慮する。「わが師尊し」で信仰の若干の違いと違和感を感じるとすぐ相手を毛嫌いする宗教者特有の悪い現象がある。これが無教会主義が先細りとなる原因。

●「エクレシア −神の国 霊的なもの」とは特定の人間や特定の集会ではなく霊的なもの。

●「Y」とはYMCAのことか? 今井館教友会の理事の一人にYMCAの理事がいる。

●「復活のキリスト」・・・・それは霊的なもの。

●「有体」・・復活は頭だけのことではなく有体的復活。これは私(高橋)と意見交換した。

 

1 信徒の交わり

   塚本の弟子多し

 

●今回清永先生が「塚本先生に学んだこと」と題して講演をお引き受けくださったのは、次の理由による。つまり「信仰のみの信仰」を標榜する「塚本の弟子達」は「信仰や聖書勉強」に閉じこもって社会問題に無関心、あるいはそれに超然としているのではなく、逆に現実社会に実質的に深く関わりあって生きている人が多いことに目が開けられたからである。このことは清永先生からこの一年間たびたび聞かされてきたことであった。

●具体的には、今井館の内部の実質的な働き手は「塚本の弟子」が多い現実を見て驚いておられた。この事実は昨年の暮れに清永先生自らが藤林益三先生に直接お話されたことでもある。その時、藤林先生は大変喜ばれた。この事は塚本先生も大変喜ばれることであると思う。

●行いは無くとも「信仰のみ」で救われるという信仰の方が「行為主義」を強調する信仰よりも社会的に強い影響を与えてきた。このことはマックスウェーバーの指摘も含めて宗教上の不思議な逆説的現実である。これは歴史的現象として動かないところであり、議論するよりも現実を見据えた方がよい。一例として「塚本の弟子たち」から政教分離の判決(藤林益三)や、戦争の真の原因である食糧問題解決の為に米の多収量理論(松島省三)が生み出された。言論ではなく実質的な働きとしての平和行為が生れるのは人が「信仰のみ」に徹するときである。

 

 

2 a 無教会信徒の交わり 塚本の弟子との関わり、何ら違和感なし 

b 世俗との交わり   隣人との交わり、 

塚本の弟子との間に何ら違和感なし

             戦争と平和、    同調できる点が多々ある

    経験してみることが大切

 

●あるとき建築士のわたしが清永先生に「建築設計というのは見えない思想を見える形にすることだ」と言ったら歴史学者の清永先生はこれに異常な関心を示されたことがある。

●信仰と行為の問題は、内村鑑三の言葉である「真理は楕円形である。一極ではなく二極である」との指摘があてはまる。

●議論や批判でなく具体的に交わりを経験すると無教会内では違和感がないことがわかる。

 

 

U 塚本虎二の信仰の中心

無謀な議論と承知の上なので、間違った点はあとでご教示頂きたい

塚本『キリスト教十講』第1講『なぜ私はキリスト教を信ずるか』

塚本のキリスト教は愛のキリスト教    cf 藤田グループの批判

山下次郎「塚本虎二の信仰の原点について」

 

●塚本虎二の信仰の原点は「震災体験」で「神は愛なり」との声を聞いたこと。それは一体何であったのか。

●山下次郎先生も塚本のこの体験は何であったのかを今でも深く考えるという。

「塚本虎二の信仰の原点について」(「歴史に生きる塚本虎二先生」(シャローム図書)所載

●清永先生も20年前にご夫人を失われたご経験があり、いっそう塚本先生のこの震災の時の体験について共感し、これを深く考えることを人生の「課題」とされるようになったものと推測する。

●清永先生の課題と山下先生の課題は、共にある一定の方向にもベクトルが向いている。

●この「課題」は塚本虎二はあのとき復活体験をしたのだと見ると解けてくる。

●現代における復活体験は百人百様である。

●無教会に与えられた世界的使命は「処女降誕と復活」を信ずる正当信仰への回帰である。

●塚本先生がドイツに留学する人に語ったといわれる言葉。「君、東京の真中で処女降誕と復活をまともに信じている集団があることを土産話としてくれたまえ」(典拠探索中)。これが無教会主義の世界的使命であり、神がこの世に無教会主義を出現させた理由でもある。