故 古田あや 告別の辞

1999年9月8日午後2時34分 召天 90歳3ヶ月
前夜式9月10日(金)午後6時 告別式9月11日(土)午後1時 今井館聖書講堂

式辞 高橋照男

 はじめに本日の式について一言申し上げます。本日の告別式はキリスト教でございますが、キリスト教のなかでも無教会という形でございます。無教会と申しますのは教会の上に無(む)、ないと書きます。これは教会を無視するとか破壊するというのではなく、いわゆる教会組織、数ある教派のどれかに所属してそこの教会員になることではなく、神と聖書一巻だけで信仰の道を歩もうとする主義であります。日本において内村鑑三によって提唱された信仰の姿であります。内村鑑三の弟子に塚本虎二という先生がおられました。その先生が出しておられました「聖書知識」という雑誌の紹介文に次のようなものがあります。「教会によらず、聖書一巻だけで信仰生活を営もうとする人たちの月刊雑誌」、この言葉が無教会の説明に最もふさわしいと思います。
 わたしは若い頃、この言葉に引かれ、無教会の道を歩みようになりました。ところが無教会主義で困るのは、教会堂という建物がないこと、牧師や司祭という専門の宗教家がいないことでございます。さいわい今日はこの会堂が使えますが、これは無教会のなかで唯一の共通の会堂です。この建物は昭和10年に新宿の柏木にあったものを移転してこの地に建替えたものでございます。次の問題、冠婚葬祭のときはどうするかとのことです。専門の宗教家がおりませんので、そのようなときには素人が式を司るということになります。わたくしの職業は建築士でございまして、ここで申せばこの隣にあります聖書講堂の付属書庫を設計したものでございます。このように無教会では素人が先輩の葬儀をおこない、また後輩の結婚式を司ることをします。今日の式について、はじめに一言説明またお断りをさせていただきます。

 去る9月7日(火)の夜、故人の長男、古田直樹さんから「母が危篤です、間もなくです。」とのお知らせをいただきました、それと同時に葬儀執行の御依頼を受けました。それから20時間後の、9月8日午後2時34分、召されたとの御報告を受けました。すると走馬灯のように古田さんの思い出がわたしの頭のなかを駆け巡りました。ここにお集まりの皆様は、私と同じようになんらかの形で古田さんとの思い出が浮かびあがったものと思われます。わたしは私なりに2つだけお話しし、はじめに古田さんのお人柄を偲びたいと思います。
 私には子供が4人いますが、そのうちの一人は娘です。娘が中学生の頃、生きる事にゆきずまりました。そのとき妻が娘を連れて古田さんのところにお伺いしました。このとき以来古田さんの祈りは私の娘、そして娘ばかりでなく私の家族全員に降り注がれるようになりました。その後しばらくして娘が日曜日の集会に出席するとことになりましたが、その初めての日の事です。古田さんは集会会場の入り口に娘の来るのをじっと立って待っていて下さり、両手をひろげて抱えるように出迎えてくださいました。この姿は実に神の愛の姿そのものではないでしょうか。テニスンの詩に「砂州こえて」というのがあります。それによりますと、われわれが死の川を渡る夕暮れには星が瞬き、私を愛してくれる人が私の名前を明るい声で呼んで下さるというのです。その天国の姿を古田さんは具体化してくれました。
 次の思い出。今から7年前の1992年のことです。わたしは腎臓結石摘出のために1ヶ月間入院しました。退院後間もなく私の霊肉の父が87歳で召されました。葬儀は私がとりしきりました。気が張っていましたし、塚本虎二先生は葬儀のときには泣いてはいけないとおっしゃっておられたと聞いていましたので、涙は出なかったのであります。
1週間ほどして私のところに古田さんがお悔やみに来て下さったときのことです。
古田さんは私に次ぎのように言われました。「お父様は、照男さんの御病気の回復と御退院を見届けてから、天国に旅立たれたのですよ」と慰めてくださいました。これを聞いて私は自分を制することができずに、ついに涙がとめどなく流れてしまいました。
 幸福論の著者カール・ヒルティは、人生でもっとも素晴らしいことは、「慰めの子」(バルナバの名の由来)になれることだと言っています。古田さんは「慰めの子」にふさわしい人格を備えておられました。これは古田さんに接するすべての人の感じるところであったと思います。ではなぜそのような人格が備わったのか、その秘密は周囲の人も私も誰も今まで知ることは出来なかったと思います。しかし私は昨日午後、その秘密を知ることができました。古田さんのご遺体は、昨日午前中に現在はハーバード大学の教授をされておられます御長男の直樹さんの指導の元に、直樹さんが最近まで局長をされておられた国立国際医療センター(旧国立第一病院・新宿区戸山)において解剖されました。死因は膵臓ガンでありましたが、その他に若き日に病んだ肺結核のあとが痕跡としてはっきり残っていたことがわかったそうです。これを伺いましたそのとき、私は一瞬神の手を見ることができました。神は若き日に「あやさん」の肺に残酷にも傷をつけた。結核はその当時は「死に病」と言われました。その悲しみ苦しみがその後のあやさんの人格を練り上げたのです。わたしの父も25歳のときに胸を病みましたので、胸を病んだ人がそれによってキリストの血によって救われると、真に人を慰めることができる資格が備わり、「慰めの子」としての生涯を送るようになるのです。古田さんの「慰めの子」としての人格は、神が肺に一撃を加えることによって備えられたのです。わたしは、古田さんの胸の傷に神の秘密とその愛を見たのであります。それは解剖して始めて分かったことです。古田さんは90歳の今日までその神の愛の秘密の傷を抱えて生きてこられたのです。 これが古田さんの原動力でした。
 塚本先生はかって次ぎのように言われたことがあります。「一見不条理な、不可解なところに神の大なる恵みの知恵が隠されていると私は信じる。神はこれを以って私達に神の愛の何であるかを教えられるのである。」塚本先生とはどんな方であったかは、この一言を聞けば分かります。
 古田さんとキリスト教との出会いは次ぎのように始まりました。古田さんの旧姓は渡辺あやでした。あやさんはその若き日に、後に旭硝子の社長夫人になられた山田せつさんに連れられて、塚本先生の集会に出席されました。そこで初めてキリスト教の神と出会いました。家に帰ると尊敬する父上に次ぎのように話したというのです。「お父様、キリスト教の神様というのは、お父様のようなお方ですよ」と。これがあやさんのご家庭にキリスト教、神の愛が注がれはじめた始まりでした。
昭和11年2月26日、満鉄に勤務されておられた古田重樹氏と結婚されました。満州に赴くとき、あやさんは一冊の聖書をお父様の机に残して行かれたそうです。戦争になり、音信不通になり、帰国してから初めて知ったのはお父様の死でした.そのとき同時に知ったのは、お父様はあやさんが残していかれた聖書を読んでクリスチャンになって死んでいったとのことです。あやさんが初めてキリスト教に接したときに語った言葉、「お父様、キリスト教の神様はお父様のようなお方ですよ」。子供がこのように話すとき、「では聖書を読んでみよう」という気を起こさない親はいないと思います。お父様はことのほかあやさんをかわいがっていたそうです。ここに無教会主義の福音の伝わり方の素晴らしい形を見ることができます。親に説教し、伝道し、教会へ連れて行って信者にしようとする教会主義の態度とはおよそ違います。私自身大いにこのことを反省しなければなりません。
 さてあやさんを通じて渡辺家に侵入した神の愛は、その後止まることを知らず、あやさんの祈りでご兄弟の4人もの方が福音に接し、クリスチャンになられました。そしてそれはそのお孫さんにも引き継がれました。
あやさんのこの影響力の秘密はどこにあったかと申しますと、それは「祈りの力」でした。塚本先生は「祈りは打ち出の小槌」であると言われました。その言葉の通り、古田さん自身は弱く小さな存在でしたが、祈ることによって、全能の神、宇宙を支配する神、奇跡を起こし得る神、その神に常に繋がっていました。それがあやさんの影響力、エネルギーの秘密でした。古田さんは、皆さまがよくご承知のように「神様、神様」というのが口癖でしたが、あれは古田さんのエネルギーの源泉を語っていたのです。我々が呼吸して酸素を吸うように、古田さんは神様を呼吸していたのです。
 また古田さんの特徴は、来世と復活を固く信じておられたことです。このことが人生の質をいかに高めるものであるかについて申し上げます。私は日曜集会でヨハネ福音書を11年間講読しました。古田さんは前のほうで熱心にノートをとって聞いてくださいました。話す人の水準は聞く人の水準が規定すると言われます。わたしはこれまで常に古田さんの信仰の深さに啓発されてきたと思います。ヨハネ福音書20章のイエスの「墓が空になった」ところにさしかかったときのことです。イエスの復活はどこまでが史実であるか、特に「墓が空になっていたのは史実か」という問題に興味を持ち、約60冊ほどの本を読みました。すると大略次ぎのように二分されました。まず第一は、イエスの墓が空であったという聖書の記事は聖者伝説の神話であると言う説で、それは約半数でした。その本を読むと頭がすっきりしました。第二は残りの約半数で、イエスの墓が空であったことは史実であるとするものです。このとき私の身に不思議な事が起こりました.史実であると信じている人の本を読むと胸が熱くなったのです。そして胸が熱くなったことの故に「イエスの墓が空になったのは史実である」と信じられるようになったのです。これは実に非科学的なことです。しかし自然に不思議に信じられるようになったのです。墓が空になったというこの超自然的なことが信じられることによって、それは「復活、罪の赦し、永遠の生命の実在の証拠である」ことが分かったのです。
 イエスの復活はどこまでが歴史内のことか、これは今世紀の新約聖書学の最大の問題の一つです。しかし墓が空であったということまでは歴史内のことである、と言うのが現在第一線の学者の見解になりつつあります。わたしは学者ではありませんが、「胸が熱くなることによって」それを史実と信じることができるようになりました。そしてこれが実は人生を明るくするのです。私自身、これが信じられるようになってから人生が変わりました。不思議な喜びが湧き、死の悲しみに歯止めがかかりました。さらに来世と復活と最後の日の死人のよみがえりが本当にあることだと信じられるようになりました。なぜか、その証拠は「イエスの墓が空になっていたからです」。わたしは何年もヨハネ福音書を講読していて、ようやく私の話しを長い間聞いていてくださっていた古田さんの信仰に目覚めたのではないかと思います。実に話す人は聞く人が作る、とはこのことであると思います。
 昨日、直樹さんから伺った話しです。「母の人生は最後までそのQOL(Quality
 of lifeクォリティ・オブ・ライフ=人生の品質)が最上級でありました」と。これは最後まで希望を失わず、前向きで明るくあったということです。ご入院されてからは「私はガンなのか、私の病気は治るのか」などという、答えるほうも困るような質問はついぞしなかったと言うことです。そして安らかに平安のうちに召されました。古田さんの最後を知って誰もが思います。人生は長さではない、クォリティ、質である。私達も最後はあのように、来世の実在に希望をもって明るく死にたいと思うのであります。古田さんの最後の病床生活は看護婦さんにも感化を与えました。これは人生の質として最良であり、本物の質を備えていた証拠であります。人生はただ長生きするのがよいのではありません。質と中身です。古田さんは来世と復活と死後の甦りを固く信じていたので明るかったのです。これは人生のQOL(クォリティ・オブ・ライフ=人生の品質)として最高級のものでした。私も古田さんのように信仰に固く立ち、人生のQOL(クォリティ・オブ・ライフ=人生の品質)は最良であったと言われるような人生を送りたいものだと考えるものであります。
これを式辞とさせていただきます。