ホスピスへの感謝の言葉

高橋照男

 

  (2004.10.16 日の出が丘病院で行われた「偲ぶ会」において遺族代表で話したものに加筆訂正。日の出が丘病院の新聞に掲載予定)

 

私の母は2004年3月18日、ホスピスで約一ヶ月間お世話になり88歳の天寿で生涯を終わらせていただきました。ここに日の出が丘病院、特にホスピス棟のスタッフの皆様方に衷心より御礼申しあげます。半年以上経った今、母がホスピスで死を迎えることができたことに深い感謝の気持ちが湧いているのでございます。まず何よりも肺癌の母があまり痛みで苦しむことなく逝けたことはもとよりのことですが、家族(次男)である私の死生観が非常に変えられたことであります。どのように変えられたかと言いますと、それは「自然に生き、自然に死ぬのが一番よい生き方である」ということを学んだからです。「自然に」ということ、このことを深く学びました。このことを学ぶまでに私としては多くの壁を乗り越えなければなりませんでした。しかしその一つ一つにホスピスの諸先生とスタッフの方々が「家族ケア」をしてリードしてくださいました。思うにホスピスの主眼の一つはこの家族のケアにあるのだろうと理解いたしました。ここに母の死を通してその「家族ケア」の諸段階を振り返ってみます。

昨年の11月に前の病院で「お母様は肺癌で余命6ヶ月です」と宣告されました。私はキリスト信者ですので嘘はつけず、背広にネクタイを締めてそのことを病室の母に正直に伝えました。すると母は私の目をじっと見つめたまま眉一つ動かしませんでした。その目はかえって「照男さん。よく正直に言ってくれました」と語っているようでした。大正4年生れの母は気丈でした。今年の2月になっていよいよ日の出が丘病院のホスピスにお世話になる段階になりました。その受け入れに際しては小野寺先生から懇々と家族たる私に「面接試験」がありました。今にして思えばこれが「家族ケア」の第一歩でした。先生は「母上に癌と告知してあるか。またホスピスというところは抗癌剤は使用せず、延命処置はしないがそれでもよいか」という厳しい「問い」でした。ここでまず私の心に「覚悟」の地ならしがされました。しばらくして受け入れが許可された時、担当の方から「高橋ハナ子さんはこちらで対応させていただくことになりました」と受け入れ許可決定の電話を頂きました。この「対応させていただきます」との言葉遣いに深い安心感が与えられました。「対応」という言葉に一般病院とは違うホスピスの姿勢を感じました。次に小グループの「癌患者家族懇談会」の席で、小野寺先生は「延命処置をしない意義」について懇々とお説きくださいました。しかしながら癌患者を抱える当事者としては親しい家族には一日でも一時間でも一分でも長く生きていて欲しいものです。それが人情です。その難しいところを先生は「ホスピスとしては抗癌剤を使わないで生きていただくのが延命処置の考え方なのです」と説得してくださいました。この説明には私も納得しました。看護師の皆さんはみな「使命感」を持たれた方ばかりで「お若いのに良くやる」という印象でした。母の枕一つ取り替えるのにも「やさしい言葉」をかけてくださいました。その中の一人に「家いるとき、ご主人にもそうしているのですか」と聞きますと「主人にはこうはしません。仕事と家庭は別です」との答え。私としては余計なことを聞いたものだと思いましたが、付き添いの家族の落ち込んでいる心を看護師の皆様はこのように笑わせてなごませてくれました。立派な家族ケアでした。容態が急変していよいよというとき、小野寺先生が血相を変えて病室に飛び込んでこられました。荒い息をしている母を見ていていてなんとも辛い私に対し、「お母様は今は荒い呼吸ですが決して苦しんではいません。頭は天国です。お花畑を見ています」とわたしの気持を和らげて下さいました。その後、沖主治医が「あと1〜2時間でお迎えが来ます」と言われました。この「お迎えが来る」という言葉にも深い慰めがありました。人間にとって死は次の世に「迎えられる」のだ。そして私と妻が両方から手を堅く握っている時にローソクの火が消えるように静かに静かに息が止まりました。聴診器で心臓の鼓動を聞いていた沖主治医は「残念ですがお迎えが来ました」と言われました。この「残念ですが」の言葉にも慰められました。家族の悲しみの底の底に下ってきてくださった言葉でした。小野寺医師は「お母さんは5日前までは頭がしっかりしていました。理想的な亡くなり方です。私もこのような最期でありたい。」と母を誉めてくださいました。この「お褒めの言葉」にも慰められました。母の最期の昏睡状態の期間は4日間でしたが、その時に「テルオチャン、てるおちゃん、照男ちゃん。照男チャン」と4回も私の名前を呼びました。私が「チャン」とつけて呼ばれたのは物心がついてから初めてのことでした。母は昏睡状態の中で頭にその人生が走馬灯のように浮かび、60年も前の私の赤ん坊の頃のことを思い出していたのではあるまいか。母は赤ん坊のわたしを「てるおちゃん」と盛んに呼んでくれていたのではあるまいか。母のこの言葉もわたしを慰めてくれました。母は癌と宣告されてから「嫁たちのいいところが見えてきた」とも言い、その後整理した遺品の中からは、「○○子さん入浴介助ありがとう」「○○子さん洗濯ありがとう」という感謝のメモの走り書きが出てきました。今私の持論は「癌と余命期間は宣告せよ」ということになっています。癌で死ぬことは「人間を完成させる」のだと思います。余命期間を宣告されてからの短い期間が人生最後の完成の時であると思います。「癌で死ぬことには意味がある。それは人間完成のとき」。ホスピスのスタッフの皆様はこの一番貴重な人間完成の時にお世話できることは仕事として最高であります。そしてその姿勢はすべての職業に共通のあるべき姿であると考えます。なぜなら人生80年、人間は誰でも余命期間を宣告されて生きているわけだからです。人生は長いようで短くあります。「わたしもできることなら癌になってホスピスで死にたい」これが現在の心境です。母をホスピスで送れてわたしの人生観も良くされました。正されました。感謝いたします。

 

2004.11.12