行基菩薩は生涯の間に、畿内に49院の寺院を建設したとされているが

その一つとして法禅院(檜尾寺)がある。

建立年代は天平三年(西暦731年)行基年齢六十四歳の時,

所在地は山城国紀伊郡深草郷,比定地として京都市伏見区深草鞍ヶ谷

行基菩薩の生涯の業績とともに,その伝承,

法禅院の比定地深草鞍ヶ谷から発掘された遺物など

今の現状,並びにその周辺地域の地理・歴史についてしらべてみた。


京都市伏見区深草鞍ヶ谷町(地図)





 
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(1)行基菩薩

(2)行基信仰と伝承

(3)道昭(道紹)は行基の師

(4)玄奘は道紹の師

(5)行基が建てた四十九院の寺院名と所在地・比定地と関連施設

(6)行基と秦氏集団(行基集団)との関連

    (7行基の十大弟子,行基集団と菩薩行について











行基菩薩座像   唐招提寺蔵

行基菩薩


西暦668年(天智7年)に河内の大鳥郡(今の大阪府堺市家原寺町)生まれで749年(勝宝1年)没する

奈良時代の僧侶で,父は高志才智(こしのさいち),母は蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)で百済系の下級の帰化人であり,

又高志氏は王仁氏の子孫と言われ百済系渡来人の書(文)(ふみ)氏の分派で中級の帰化人族であった。

行基は河内国(大阪府)大鳥郡の母方の家で生まれた(この地はのち和泉国に属した)。

682年(天武11)15歳で出家し(飛鳥寺の道昭を師としたと考えられる),瑜伽論(ゆがろん),唯識論(ゆいしきろん)の教義をすぐ理解した。

道昭は653年(白雉4)入唐し長安で玄奘(げんじよう)に師事し,同室に住むことを許され大きな影響を受け,

経論をたずさえ帰国し,飛鳥寺の東南の禅院で弟子を養成するとともに,民間で井戸,船,橋などを造る社会事業にも努めた。

行基は入唐していないが,師の道昭を介し唐やインドの仏教に目をそそぎ,

また行基の活動における伝道と社会事業の結合も道昭から学んだ影響である。

 702年(大宝2)大宝律令施行によって天皇と貴族が庶民を支配する体制が確立し,庶民は課税軽減,生産向上,宗教的救済を切望した。

行基は704年(慶雲1)生家を寺に改め(家原寺(えばらでら)。

大阪府堺市),その後都鄙に伝道と社会事業を展開した。

彼を慕い集まる庶民はしばしば1000をかぞえ,説法を聞き,また土木技術を修得した行基の指導にしたがい橋や堤を造り,

すみやかに完成させた。

行基が741年(天平13)までに河内,和泉,摂津,山背(城)国などに造った池15,溝7,堀4,誇3,道1,港2,布施屋(ふせや)(調庸運脚夫

や役民(えきみん)を宿泊させ食料を与える)9などの農業・交通関係施設の位置と規模が〈天平十三年記〉(《行基年譜》所引)に記される。

 《行基年譜》(1175,泉高父宿衝著)には彼が745年ころまでに畿内に開いたいわゆる四十九院の寺の位置と建立年代が記され,

これも庶民の信者の寄進や協力で造られた。四十九院は社会事業施設と結合しており,

たとえば狭山池院(大阪府南河内郡狭山町)には狭山池,昆陽(こや)施院(昆陽寺。兵庫県伊丹市)には昆陽池,

昆陽布施屋および孤(親のない子)独(子のない親)収容所が対応する。

寺では伝道のほか社会事業施設の管理も行われ,伝道と社会事業を結合した活動は隋の三階教(信行)が創始者)の影響という。

 717年(養老1)政府が行基の伝道を《僧尼令(そうにりよう)》違反として禁圧したのは,彼への社会的信望を忌避したためとも,

政府が隋の文帝や唐の高宗による三階教(教団は王権から独立すべきものだと主張)弾圧から刺激されたためともいう。

しかし政府は行基の土木技術や,庶民を動員する力量を利用するため,

三世一身法や墾田永年私財法発布の過程で731年伝道禁圧をゆるめ,

743年紫香楽(しがらき)での大仏造営詔発布のさい勧進(募財)役に起用し,745年大僧正に任じた。

平城還都後,大仏造営は金鐘(こんしゆ)寺(のち東大寺)で再開されたが,行基は749年菅原寺(奈良市)で没。

彼が大野寺(大阪府堺市)に造った土塔はインドのストゥーパ(仏塔)に源流をもつ。

彼の伝記史料に竹林寺(生駒市)出土の火葬墓誌や家原寺蔵《行基菩醍行状絵伝》(室町時代)などがある。



                         
行基信仰と伝承


仏教の民間布教に尽くした行基は,早くから敬慕の対象になり,多くの伝説が伝えられている。

《日本霊異記》には,行基が説法の場において,教えを受けに来た女の過去を見抜いたり(中,第三十),

髪に猪の油を塗っているのを遠くから指摘し退場させた(中,第二十九)というような話が収められているが,

その説話には,行基の布教の姿をほうふつとさせるものがある。

また,行基が大僧正になったのをねたんだ智光が地獄に落ちたという話(中,第七)も,

平安時代初期の行基信仰の一面を伝えている。

それらの説話は,後の説話集に受けつがれていったが,平安時代中期になると,

行基は胞衣(えな)にくるまったままで生まれたという《本朝法華験記》《日本往生極楽記》の伝のように,

常ならぬ人として強調されるようになった。

幼いときから仏法に通じ,さまざまに方便を用いて人々を救うと伝えられる行基の姿には,民間の行基信仰があらわれている。

中世に入って,行基への敬慕はさらにひろまり,行基の開創になるという寺,行基の手になる仏像,橋,港などの伝承は,

畿内を中心に数多く見られる。

そうした中で,行基は,中世の民間の仏教と,仏教が最もさかえた天平時代とをつなぐ人物として重視されるようになった。

菩醍号を聖武天皇から授けられたという伝承や,行基が伊勢神宮に参詣して神の示現を得たという《通海参詣記》

の記事は,そうした中で生まれたものといえよう。

《新勅斤集》は〈のりの月ひさしくもがなとおもへどもさ夜ふけにけりひかりかくしつ〉を,

行基の辞世の歌として収め,この歌についての説話は《古今著聞集》に見える。

また《玉葉集》に行基菩醍の歌として収められている〈山どりのほろほろとなくこゑきけばちちかとぞおもふ母かとぞおもふ〉という

歌は,日本人の自然観をよくあらわしているためか,広く知られている。

《行基式目》(1622,良定著)をはじめ,行基に仮託される民間の教訓書の多さ,中世以前に用いられた日本全図の原形が

行基によって作られたと伝えられ,行基図と呼ばれていることなど,行基に関する伝承のひろがりを示すものは多い。            



道昭(道紹)は行基の師


西暦629年(舒明元年)iに生まれて700年(文武4年)iに飛鳥寺の禅院で没する。72歳

法相宗の学僧で,道照とも書く。河内国丹比郡の生れ。

俗姓は船連(ふなのむらじ)。653年(白雉4)入唐(につとう)学問僧として遣唐使にしたがい唐にわたる。

玄奘(げんじよう)を師として業をうけた。

玄奘からとくに愛され,同房に住み,禅を習い,悟るところが多かった。

661年(斉明7年)帰朝にあたり,玄奘所持の舎利・経論を授けられている。

翌年,飛鳥の法興寺(飛鳥寺)の南東隅に禅院を建て,天下の僧徒に禅を教えた。

のち,各地を周遊して,路傍に井をうがち,津のわたりに船をもうけ,橋を造った。

山背(やましろ)国の宇治橋は道昭がかけたともいう。

およそ10年余りののち,天皇の勅で禅院にもどり,座禅のまま亡くなった。ときに72歳。

遺言によって火葬に付された。天下の火葬はこれより始まったという。

道昭は,法相宗を最初に日本へ伝えた人物として法相宗第一伝に数えられる。






玄奘は道紹の師


西暦602年に生まれ,664年に没する

中国,唐代初期の僧。西域,インドへの求法僧で,一般には三蔵法師として知られる。

俗姓は陳氏。洛陽に近い陳留郡(河南省)誠氏県に生まれた。13歳のときに出家し,

兄の長捷法師のいた洛陽の浄土寺に住んで経論を学んだ。まもなく隋・唐王朝交代期の混乱期にあい,

618年,兄とともに長安に入ったが,兵乱のために学僧の多くが蜀(四川省)に逃れて

仏法の講席ひとつさえなかったので,ついに蜀におもむき空慧寺に入った。

622年(武徳5)に具足戒をうけ,まもなく成都から長江(揚子江)を下って草州に出,相州,趙州をへて

落着きを取り戻した国都の長安に舞い戻り,大覚寺に住んで道岳,法常,僧弁といった学僧から

抑舎論や摂大乗論の教義を授けられた。

しかし,多くの疑義を解決することができず,かくなる上は親しく原典につき,本場の学者から回答をうるにしかず,

とりわけ仏教哲学の最高峰たる十七地論つまり瑜伽師地論を得たいものだと,インド留学を決意するにいたった。

 唐の法律では国外への旅行が禁止されていたので,志を同じくする僧数名とともに願書を出したが却下された。

しかし,他の僧はあきらめたのに,玄奘だけは国禁を犯して求法の途についた。

629年(貞観3)のことである。涼州,瓜州を通り,伊吾に至ったとき高昌国王の使者に会い,その懇請で高昌に向かい,

ここで国王の大歓迎をうけ,インドへ往復する20年間の旅費などの寄進をうけた。

ついでクチャより天山山脈を越えて北路に出,西突厥(とつくつ)の統葉護可汗に会い,

アフガニスタンをへて北インドに入り,中インドのマガダ国ナーランダ寺に至った。

仏教学の中心であったこの寺に5年とどまり,戒賢論師について

《瑜伽師地論》をはじめとする無著・世親系の瑜伽唯識の教学をきわめ,

さらにインド各地に求法と仏跡巡礼の旅をつづけて,多数の仏典をえて帰路についた。

ヒンドゥークシュ山脈とパミール高原を越え,ホータンを通り,17年ぶりの645年に,今度は大歓迎されて長安に帰った。

 インドから将来したのは,仏舎利150粒,仏像8体,経典520夾,657部で,これらは弘福寺に安置された。

太宗はおおいに喜び勅を下してただちに訳経に従事させ,

故郷に近い少林寺で訳経したいとの希望はうけいれられなかったが,

はじめは弘福寺で,のちには大慈恩寺で訳経に専念した。

彼が20年間に訳出した大乗小乗の経論は,《大般若波羅蜜多経》600巻をはじめ,

《瑜梼師地論》《抑舎論》など75部,1235巻に達した。

その訳風は忠実に逐語訳をなす特徴をもち,新訳と称され,クマーラジーバ(鳩摩羅什)らの旧訳と区別される。

門下の窺基,円測,普光らにより新訳経論に依拠した法相宗,抑舎宗が興った。

弟子の弁機に編述させた旅行記《大唐西域記》12巻は,彼の伝記である《大唐大慈恩寺三蔵法師伝》10巻ともども,

正確無比な記述によって,7世紀の西域,インドを知る貴重な文献であるとともに,

小説《西遊記》の素材となったことでも有名である。西安南郊の興教寺に墓所がある。   

                                            世界百科事典より引用




行基が建てた四十九院の寺院名と所在地・比定地と関連施設  

番号    建 立 年 行基年齢     寺 院 名     所   在   地 現存     比  定   地 「天平十三年記の関連施設
1 慶雲2705 38 大修恵院(高蔵) 和泉国大鳥郡大村里大村山 大阪府堺市高倉台一丁目 -
2 霊亀2716) 49 恩光寺 大和国平群郡床室村 奈良県 -
3   養老2718 51 隆福院(豊実) 大和国添下郡登美村 奈良市大和田町追分 -
4 4720 53 石凝院 河内国河内郡日下柑 大阪府東大阪市日下町 -
5 5721 54 菅原寺(喜光寺) 平城右京三条三坊 奈良市菅原町 -
6 神亀元(724 57 清浄土院(高渚) 和泉国大鳥郡葦田里
大阪府堺市
湊町
-
7     57 同 尼院 和泉国大鳥郡日下部郷高石村 大阪府高石市 -
8 2725  58
久修園院(山崎)
 
河内国交野郡一条内 大阪府枚方市楠葉中之芝二丁 楠葉布施屋(楠薬郷)
9   3726 59   檜尾池院  和泉国大鳥郡和田   大阪府堺市檜尾 -)
10 4727 60 大野寺 和泉国大鳥郡大野村 大阪府堺市土塔町

野中布施屋(土師里),土室池・長土池(土師郷)

11      60 同 尼院 同 所 同 所 -
12 天平2730   63 着源院(川堀) 摂津国西成郡津守村 大阪市西成区〜西淀川区 比売場堀川(津守村)白鷺鴫堀川(津守里)
13   63 同 尼院 同 所 同 所 -
14 63 船息院 摂津国兎原郡宇治郷 神戸市兵庫区   大輪田船息(宇治)
15 63 同 尼院    同 所 同 所
16 63 高瀬橋院 摂津国嶋下郡穂積柑 大阪市東淀川区 高瀬大橋(高瀬里),高瀬堤樋(茨田郡高瀬里)直通
17 63 同 尼院 同 所 同 所 -
18 63 楊津院 摂津国河辺郡楊津村 兵庫県猪名川町木津 -
19 天平731 64 狭山池院 河内国丹比郡狭山里 大阪府南河内郡狭山町 狭山池(狭山里)
20   64     同 尼院 同 所 同 所 -
21 64 昆陽施院 摂津国河辺郡山本里 兵庫県伊丹市寺本五丁 昆陽上池・下池・院前池・中布施屋池・長江池(山本里) 陽上溝・下池溝(山本里)陽布施屋(嶋暢里)
22 64 ○注
法禅院 (檜尾)
 山城国紀伊郡深草郷 京都市伏見区深草鞍ヶ谷町(谷口町とあるも鞍ヶ谷が
正確)
-
23 64   河原院 山城国葛野郡大屋村 京都市 -
24 64 大井院 山城国葛野郡大井村 京都市右京区天竜寺造路町〜西京区嵐山山田町 -
25 64 山埼院 山城国乙訓郡山前郷 大阪府三島郡島本町 山崎橋(山崎郷)
26 64 隆福尼院 大和国添下郡登美村 奈良市大和田町追分 -
27         5733 66 枚方院 河内国茨田郡伊香村 大阪府枚方市伊加賀 -
28         66 薦田尼院   同 所  同 所 -
29      6734 67 隆池院(久米多) 和泉国泉南郡下池田柑 大阪府岸和田市池尻町 久米多池・同地溝(丹比郡里)
30 67 深井尼院(香琳寺) 和泉国大鳥郡深井村 大阪府堺市深井 薦江池(深井郷)
31 67 吉田院

山城国愛宕郡

京都市左京区吉田神楽岡町 -
32 67 沙田院 摂津国住吉 大阪市 -
33 67 呉坂院 摂津国住吉郡御津 大阪市住吉区長峡町
34  9737 70 鶴田池院 和泉国大鳥郡凡山田村 大阪府堺市草部

鶴田池(日下部郷)

35 70 頭陀院 (菩提) 大和国添下郡矢田岡本村 奈良県大和郡山市矢田町 -
36 70 同 尼院 同 所 同 所 -
37 12(740) 73 発菩提院(泉橋院) 山城国相楽郡大狛村 京都府相楽郡山城町上狛 泉大橋(泉里) 泉寺布施屋(高麗里)
38 73 同 尼院  同 所  同 所 -
39 73 泉福院 山城国紀伊郡石井村 京都市伏見区 -
40 73 布施院  同 所 同 所 -
41 73 同尼院  同 所 同 所 -
42 17(745) 78 大福院御津 摂津国西成郡御津村 大阪市南区御津寺町 -
43 78 同 尼院 同 所 同 所 -
44 78 難波度院 摂津国西成郡津守村 大阪市西成区〜西淀川区 度布施屋(津守里)
45 78 牧松院 同 所 同 所 -
46 78 作蓋部院 同 所 同 所 -
47 不明 報恩院 河内国交野郡樟葉郷 大阪府枚方市樟葉 -
48 長岡院 菅原寺西岡 奈良市疋田町 -
49 勝宝2(750) 没後 大庭院 和泉国大鳥郡上神郷大庭村 大阪府堺市大庭寺 -
50 天武9年(680) 13 蜂田寺華林寺 和泉国大鳥郡蜂田郷 大阪府堺市八田寺町 -
51 慶雲元(704) 37 家原寺神崎院 同 所 大阪府堺市家原寺町一丁 茨城池(蜂田郷)
52 4(707) 40 生馬仙房 大和国平群郡生馬 奈良県生駒市有里町 -
53 和銅元(708) 41 神鳳寺 和泉国大鳥郡野田村 大阪府堺市鳳北町一丁 大鳥布施屋(大鳥里)
                                                                                      

 ※【年譜】作者は,47・48・49をかぞえず,51・52・53を四十九院にかぞえた。            「行基と律令国家」吉田晴雄著より引用



〇注  法禅院檜尾寺に寺の名称が変わっていることを示している 


行基と秦氏集団(行基集団)との関連


「行基年譜」によれば,行基は山背国紀伊郡深草郷に法禅院, 同国葛野郡大屋村に河原院,, 同郡大井村に大井院,

同国乙訓郡山前郷無水河側に山崎院,そして大和国添下郡砥三登味村に降福尼院を建てている。

最後の降福尼院は,養老二年四月に生駒山中した降福院に,尼院を別置したものと考えられる。

「年譜」の記載からすれば,法禅院の起工が九月二日 ,降福尼院の起工が十月十五日だから,

前記四院はすべて九〜十月の一ヶ月余の間に造営が行われることになる(恐らくは並行して工事が進められたものだろう)。

しかもこれらにはすべて秦氏の播距地であるという興味深い共通点がある。

秦氏は全国各地に分布する古代最大の氏族名の一つで, 長期にわたって半島から渡来してきた複数の集団を,

,国家が一括して把握するために便宜的に付した名称に過ぎず,「秦」という名を冠していても、

居住地域によりその系統は大きくことなるといわれている。

しかし復姓を帯びていて分枝しても同祖伝承を保持している集団が多く,同族的結合は強固であつたらしい。

まず深草郷において法禅院を起工している。深草の秦氏については,{書記}欽明天皇即位前紀に不思議な伝承のある

秦大津父が見出される。現在の研究では,この伝承は継体・欽明朝の内乱(530-550年頃)において

欽明に協力した深草の秦氏が,その収束に貢献して朝廷に取り立てられたことを示すものと読解されている。

またこの深草のすぐ近隣にある伏見稲荷社は「二十二社注式」に和銅四年(西暦711年)の成立と伝えられているが

,{延喜式}神名帳頭注所院[山城国風土記」逸文には秦氏の創建とある。

伝説では,農業によって巨富を得た秦公伊呂巨なる人物が戯れに餅を弓矢の的にしたため,稲魂が白鳥と化して逃亡,,

その到着した先が稲荷山で,後に過ちを悔いた伊呂巨の子孫が社の木を家に移して祭ったという。

農耕との関連が密接な伝承であり,豪農伊呂巨はやはり深草の秦氏と考えられる。

とすれば,後に稲荷社を奉祭したこの氏族は農地開発に成功し,王権に認められるほどの勢力をかくとくしていたということだろう。

大津父の伝承がわずかでも欽明朝の事実を伝えているとすると,

深草の秦氏は,その頃には山背国における同氏の族長的役割を担っていたのかもしれない。

行基による法禅院の建立は嵯峨野の秦氏についてもみられる。

葛野郡の嵯峨野周辺に居住する秦集団は著名で,聖徳太子と関わりの深い秦河勝は有名で

,正史に登場するのは「書記」の推古天皇十一年(西暦603年)十一月条の蜂岡寺創建記事、

同十八年十月丁西条における新羅使節の接待役を勤めた記事,

そして皇極天皇三年(西暦644年)七月条の,東国から中央まで広まってき

大生部多と巫覡集団による常世神信仰を鎮圧したという記事のみである。

これらの限られた情報から河勝の性格,嵯峨野の秦氏の性質を充分把握することはできないが,

蜂岡寺=広隆寺の創建にもうかがえるように,太子によって推進された佛教の普及を支持する存在であったこと,

,また常世信仰の鎮圧や,物部守屋討伐の際の太子の軍事顧問として描かれていること,

白村江の戦争や壬申の乱の功臣に「秦」の氏族名を冠するものかおり,

又藤原広継詞の乱や恵美押勝の乱に際し,秦氏が漢氏とともに天皇を守護するされていることから

,軍事的性格の強い側面もあったことが指摘されている。

河勝はその当時の族長として,彼らを指揮・統率しうる立場にあったと見られる。その頃の山背の秦氏の内で,

嵯峨野の秦氏はきわめて強大な勢力を保持していたとかんがえられる。

「続紀}天平十四年八月の条によれば森宮緑正八位下秦下は嶋麻呂なる人物が,

恭仁宮の大宮垣を築いたことで従四位以下へと異例の昇進を遂げ,太秦公の姓を贈与されている。

その子として生まれたのが藤原葛野嶋麻呂である。嶋麻呂は葛野郡嵯峨野の秦氏であったと

考えられる。またウズマサとは族長の意らしかった。

又長岡京の太政官院の垣を築いた太秦公忌寸宅守がおり,嶋麻呂の血縁と推測される。

両者とも造営事業に関連して昇叙されている。

これらのことから嵯峨野の秦氏は渡来以来保持・発展させてきた優れた土木技術とそれを完遂しうる

経済力が蓄えられていたと考えられる。

行基が建立した大井院・河原院は,葛野郡を流れる桂川そして上流の大井川に沿って設置されたものとかんがえられるが,

地理的な問題から,上に述べた秦氏とか関わりのある施設であったと推測される。

秦氏が渡月橋付近に橋を築造したらしいことからして,葛野大堰を行基が修築した可能性がでてくる。

空海の弟子道昌が承和年中(834-847)に葛野大堰の修理監督したとき,古老が涙をながしながら

「図らずも今日また行基菩薩の跡を見た」喜んだと記されている。

この頃すでに大井堰を行基の築造とする認識があり,嵯峨野の秦氏と行基が密接にかかわっていた証である。

「大僧正記」に行基の「十弟子」として名を連ねている延豊は,その注記によれば秦氏の出身ということである。

山階寺(興福寺)寺主として見え,藤原氏の氏寺を管掌する地位についていたことが知られる。

当然藤原氏との政治的結びつきがそうていされ,

行基の葛野郡における活動は,延豊を中心に展開されたと考えられる。

次に乙訓郡に建立された山崎院は神亀(西暦725年)に起工された山崎橋の維持・管理を主な目的とし,

摂津と国境を接する河川交通の要衝に設置された。

近年京都府乙訓郡大山崎町の発掘調査で箆書きされた人名文字瓦が大量に出土し,大野寺土塔の人名文字瓦とも酷似

することから,行基の建立された山崎院のものて゛はないかと推測されている。

このうち「秦」としるされたもの三点と,「秦前」と記されたものが一点含まれている。

これらの秦氏は地理的な近接と言う面からすれば,これらは松尾や深草の秦氏である可能性がある。





行基の十大弟子,行基集団と菩薩行について


1) 景静

         行基の十弟子僧中,第一に顕れる景静法師は,俗姓弓削氏氏,その事績に就いては正史にも各高僧伝にも全てに見ない。

2) 玄基

   十大弟子の第二位にあり,その姓御尾張氏に属している。天火明命の後裔になることは間違いない。山階寺の住僧で

   行基建設の伽藍の廃頽するのを憂い,天平二年夏六月,朝廷に奏し裁可を乞い大いに基跡の復興に努めたのである。

3) 法義   

   行基門下十大弟子中の一人で,第三位 二位 或いは一位に名を列している。俗姓は土師氏である。

   土師は河内国志紀郡に,また和泉国大島郡土師郷などある。埴をもって物を造るの職号によって

   植為のこの姓がおこったと考えられる。 光仁天皇の勅によって十禅師に選抜されている。

4) 行林及神忠

    十大弟子の第四位は行林で俗姓は犬貝氏。,第五位は神忠は俗姓は高志である。

    高志氏は行基の姓氏と同じ百済王爾の後裔である。

    もしそうならば浄安(高志氏)と同じく親族弟子のなかに加えねばならない。

5) 延豊

   十大弟子中,第六位に占めて俗姓は秦氏でうる。

6) 慈深及平則

   
慈深は俗姓辛氏で平則は俗姓巫氏とある。

7) 首勇

   俗姓は河原氏で,光仁天皇によって十禅師に選ばれている。漢の陳思王植の後裔とされている。

8) 崇道

   十大弟子中,最後に列名されている人で,俗名は大唐の蘇氏である。


翼従弟子千有余人


   翼従の弟子 井浄 延暁 光信 恵教 迦成 信定 徳善  是等為首(この人たちは指導者となる)



侍者千有余人

   霊勝 神蔵 恵琳 隆基 主安 帝安 行勝 信厳 明弁 聖耀  是等為首(この人たちは指導者となる)

親族の弟子百有余人

元興寺僧真成(大村氏)  薬師寺僧(浄安) 明者 高息 元興寺亮続 泰均  是等為首(この人たちは指導者となる)

行基は「行基年譜」によれば天平十三年(西暦741年)までに, (1)渡橋六所 (2)直道一所 ,(3)池十五所

, (4) 溝六所 (5)樋 三所 (6)船息二所 (7)堀川四所 ,(8)布施屋九所 などの

八種の施設をつくり,さらに天平二十一年(749)の没年までに, 四十九ヶ所の道場を建てたと記されている。

この仕事は,一人の生涯をかけた事業であるにしてはまことに狂的なものである。,

摂津河辺郡の昆陽上溝と下溝を作る際,延べ2122人の労働力と食料など米161石が必要とされるはずである。

施設全体としては,莫大な資材と労働力はどこから調達したのだろう。

それには三種の方法がある。

(1)托鉢(乞食)行為による。

(2)崇敬者を組織した知識による。

(3)豪族上級農民の協力


行基   弟子僧  道場  「知識」  壇 越   (豪族 上級農民) 信者(農民)達
  
                                       止住者 (私度僧 優婆塞)      

                                        ◆優婆塞とは朝廷の課した重税や労役に耐えずに僧になった人々。


彼らの生活
は貧しく, 官寺,氏寺に自由に出入りすることができず ,自由に出入りできるのは行基の四十九院だけであって,

彼等が金・穀・資材を行基集団に献納することはあっても, 大きな力にはなりえず, むしろ彼等が巨大な力を発揮したのは,

労働力の喜捨であつた。

1)出家の弟子らの托鉢行によって資材の調達はある程度なしうるが,主たる目的はこの行為は行動に同調する人々を

ふやす布教を目的としていた。

2)寺院中心に結ばれた大部分は一般農民でてあって、彼らは主として労働力の提供をなしたと考えられる。

3)豪族上級農民たちは,彼らのもてる資材と喜捨することによって,より大きな現報(私服の形成)を期待したと考えられる。

行基の実践が政府の弾圧にめげずに続けられたのは,自己の所業にたいする強い自覚・自信であり,それは経典から与えられいる。

行基の伝記から法相宗で重んずる「瑜伽論}「唯識論」などであった。

「瑜伽論}は声聞 独覚 菩薩の三乗を説いて,特に菩薩地では布施 持戒 忍辱 精進 禅定 智慧の六波羅蜜, 布施 愛語 利行

同事の四摂事について詳説され,佛教福祉の基本的な理念が見いだせられ病める他者の助伴となり,困窮者の必需品を施与し,

恐怖から救済するなどの具体的な他者への援助活動が大乗菩薩の戒律として示されている。

また行基の諸事業は諸経論の説く福田思想で,福田は「田のよく物を産せるごとくに,,之に施せばよく福をしょうずるもの」であって,

布施物を種子に布施の受者を良田にたとえる思想である。行基には経典や中国僧の実践例に全く見ない 堤 池 溝 樋などの

水防灌漑施設を作っている所にある。

行基による土木事業

 1) 池  狭山池(河内) ・・・・土室池・長土池・薦江池・檜尾池・茨城池・鶴田池・久米田池・物部田池(和泉)

      昆陽池・ 昆陽下池・院前池  中布施屋池・長江池・有部池(摂津)

 2)  古林溝(河内)・・・-昆陽上溝・ 昆陽下溝・長江溝(摂津)・・・・久米田池溝・物部田池溝(和泉)

 3) 樋  高瀬堤樋・韓室堤樋・茨田堤樋(河内)

 4) 堀   比売嶋堀川 白鷺堀川・次田堀川(摂津) ・・・・大庭堀川(河内)

 5) 橋   泉大橋・山崎橋(山城)・・・・高瀬大橋・長柄橋・中河橋・堀江橋(摂津)   
                      

 七世紀の仏像の造立者が天皇・朝廷などの官関係では,如来像がが多く作られ,造立者がが私人の場合は逆に,

菩薩像が多く造られている。そして賊盗律の罪は如来像が菩薩像より重くされている。

如来信仰は公的性格を持ち菩薩信仰は私的性格を持っていた。

九世紀の初めの平安新仏教の祖師たちは後者の菩薩行という流れに有り,彼らの運動の遺産の中から,

やがて聖・、上人・遊行僧が生まれ,鎌倉新仏教のの祖師たちにつながっているとかんがえる事ができる。