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06/05
「イクメノオオキミ」の校正を終える。校正の作業ではあるが、すでに書いた内容のほとんどを忘れているので、見知らぬ物語を読みような感じで作品に接することができた。その点では、読者の感覚で作品を読むことができた。第一印象は、何とも不思議な物語だということだ。これほど不思議な物語は他にないのではないかという気がする。と書いてみて、いや「とりかえばや物語」の荒唐無稽さには及ばないとか、ダンテの「神曲」ほどではないとか、すぐに反論が思い浮かんでしまうが、不思議な物語がかなりコントロールされて展開されているという点では、なかなかの作品ではないかと思う。
先日、担当編集者と飲んだ時に、第2作はキャラクターが弱い、といったことを酔った勢いで彼が言っていたようにも思うが(こちらも酔っていたので記憶がうすれている)、確かにキャラクターは弱い。しかしそれなりに面白いエピソードがぎっしりとつまっている。それに、強いキャラクターを並べるとワンパターンになる。できれば12巻のシリーズにしたいと考えているので、ある程度のアクセントをつけるために、キャラクターの弱い作品の間に挟まなければならない。実は、「ヤマトタケル」の主人公もやや弱いのだが、ツヌノオオキミに比べればパワーアップしている。ツヌノオオキミの第2の主人公であるマワカノオオキミは、魅力的なキャラクターだ。その子息のカニメノオオキミが、第3巻の「ヤマトタケル」でも活躍することになるが、カニメノオオキミは、父親に比べれば、やや凡庸なキャラクターである。屈折がない。その子息のオキナガノスクネも、ある意味では、強いキャラクターだが、強すぎて屈折がまったくないという点では、魅力は乏しい。それでいい。オキナガノスクネは、第4巻のヒロインの父親としての役割しか担っていない。
ということで、本日から「ヤマトタケル」に戻る。第8章まで書いてあるので、あと2章でゴールインだ。少し疲労を覚えている。もっとのんびりワールドカップを見たいと思う。まあ、いちおう三部作としてスタートした作品の大詰めだから、仕事に集中したい。明日は文芸家協会の理事会。図書館に関する要望書の提出とか、文藝著作権センターの認可申請とか、日本図書教材協会との協定とか、提案し説明しなければならない議題がいくつもあって、けっこう大変である。こういう仕事と、「ヤマトタケル」とは何の関係もないようでいて、実は深く関わっているように思う。世の中との関わりというのは、いってみれば小さな政治や経済の世界だといえる。ふだん小説を書いていると、すべては作者の思い通りにストーリーが進行するのだが、現実の世界は、なかなか思い通りにいかない。いま文芸家協会や文化庁との関わりで、こちらが企画し推進していることも、なかなか思ったようには事が運ばない。そういう体験をしているから、自分の作品の中で主人公たちが体験する苦悩に共感できるということがある。たまには世間の風にあたって苦労しないといけない。大学の先生をやっていたころは、それなりに社会との接点はあったが、学生に教えるというのは、所詮は子供相手の仕事であり、大学の先生というのも、子供みたいなところがある。そこへいくと、文化庁の役人や、業界の人々は、それなりにずるいところがあるので、こちらも戦略を立てて対応しないと、思い通りに事が運ばない。腕力はつかわないが、ケンカみたいなところもあるし、小規模な戦争だという気がすることもある。面白いといえば面白いし、疲れることもあるが、小説を書く上で、貴重な体験になっているように思う。
ともあれ、第2作の校正も完了した。これでとにかく2冊、本が出る。正直のところ、3カ月かかって本一冊書いても、それほどの収入にはならない。集英社文庫の「ナツイチ」に入っている「いちご同盟」の増刷ぶんの収入にも及ばない。それでは昔の名前で出ている演歌歌手みたいなもので寂しい。この「新アスカ伝説」のシリーズは、ヒットしないと困る。12巻、どうしても書きたいと思っている。書いている時はハッピーだったが、本が店頭に出るということになると、期待もあるが、不安もある。とくにノベルス版というのは初めての体験なので、読者との接点があるかどうか、何ともいえない。とこでもう一度、読者にピーアール。「新アスカ伝説@/ツヌノオオキミ/角王」のノベルス版(新書サイズ)です。ですから大書店の四六版(ふつうの単行本)の三田誠広の他の作品が並んでいる棚を探しても本はありません。俗悪な大衆小説が並んでいるノベルスの棚を探してください。
06/07
校正が終わったので「ヤマトタケル」に戻っているが、ちょうどいい機会なので、最初から読み返すことにした。「イクメノオオキミ」の最終章は、実は「ヤマトタケル」の序章にあたる部分なのだ。ヤマトタケルを描くためには、仇役の父親を描かないといけない。しかし父親の生い立ちから書き始めたのでは長くなるので、「イクメノオオキミ」の最後の部分に、ワカタラシ景行天皇の生い立ちを書いてある。まあ、景行天皇が生まれてから垂仁天皇が死ぬのだから、話の順序としてはそれでいいのだが、そのため「イクメノオオキミ」のエンディングはいささか盛り上がりに欠けるものとなった。一つ一つの作品は独立しているのだが、しかし連続して話が展開していることも確かなので、山場が先送りされてしまうということも起こってしまう。「ヤマトタケル」ではしっかりとエンディングに山場を設定したいと思う。
で、いま2章まで読んできたが、うまくいっている。プロットが流れるように進行して、第1章では父親景行天皇の邪悪が描かれる。一転して第2章には、脇役のカニメノオオキミが登場し、ヤタガラスの予言によって、ヤマトオグナと呼ばれるのちのヤマトタケルと出会うという展開になる。主人公がなかなか登場しない。もったいぶっているわけだ。この作品はシリーズの山場でもあるので、悠然と描きたい。
サッカーのワールドカップも第2戦に突入した。わが孫がスペインとのハーフだから、祖父としては当然、スペインを応援する。スペイン、2連勝で速くもトーナメント進出を決める。イングランドもよく頑張っている。まあ、日本にも頑張ってほしい。うちはスカパーを入れていないので、スペインの試合を見られなかったが、テレビばかり見ていては仕事ができないのでよかった。スペインには是非勝ち抜いて、日本に来て欲しい。
06/09
全国の日本人と同様、テレビでロシア戦を見た。中盤が安定していて、自陣に攻め込まれる時間が少なかったので、それほど疲れなかった。そんなことより、自分の仕事だ。「ヤマトタケル」はまだ8章が終わったところだが、第2巻のゲラを通読した流れで、「ヤマトタケル」を最初から読み返すことにした。「イクメノオオキミ」の最終章では、景行天皇ワカタラシヒコの暴虐が描かれる。そのままの続きで、「ヤマトタケル」の第1章でも、ワカタラシヒコの暴虐が続くことになる。そこまではうまくいっている。
問題は主人公のヤマトタケルが登場してからだ。主に脇役のカニメノオオキミの視点で描いているので、ヤマトタケルを外側からとらえている。出だしのところは、謎めいた感じがして、それでいいのだが、この主人公が何を考えているかわからないという印象が長く続くのはよくない。妻のオトタチバナ姫との心の交流も不足している。ということで、主人公の内面を補足的に描きながらチェックを続けることにした。これは手間のかかる作業だが、丹念に書き込んでいけば作品が深くなる。書き足したぶんだけ、9章、10章は量的には短かくなる。起こった出来事だけをスピーディーに書くことになるだろう。そうなると、描写にこだわる必要もないので、このチェックの作業が終われば、一気にゴールに向けて前進できるのではないかと思う。
06/20
本日、学研の担当者来訪。第1巻「ツヌノオオキミ」の見本届く。これが第1弾で、来月には第2弾が出る。さらに連続して8月には第3弾を出すわけだが、それがいま書いている「ヤマトタケル」だ。ということは、そろそろ入稿しないといけない。担当者もこの見本を届ける日に原稿の受け取りを期待していたはずだが、残念ながら間に合わなかった。それでも、第2巻の校正を終えた続きで、8章までの点検チェックを終えたので、8章まで400枚ぶんを渡すことができた。これを読むのに数日かかるだろうから、読み終えた頃に最後の部分を届けることができるだろう。
ここまでチェックした感じでは、すべてうまくいっている。「イクメノオオキミ」ではエンディングの盛り上がりが少なかった。「ヤマトタケル」では、主人公の死が山場となる。ただし、死んだあとでも物語が少し進行することになるので、そのあたりがダレないように気をつけたい。
06/26
9章を終えたところで、ワープロ画面で150ページ、原稿用紙で450枚となった。@巻とA巻とは、だいだいこれくらいの長さだ。今回はシリーズの中でもピークとなる作品なので、少し長く書くことにした。というか、あとから手を入れているうちに、一つ一つの章が長くなってしまったのだ。9章の終わりで、オワリ(尾張)まで来た。最終章は、ただヤマトタケルが死ぬだけだと考えていたが、実際に書いてみると、登場人物すべての動きをとらえて、人物一人一人のラストショットを決めないといけないことがわかった。少なくとも、主人公ヤマトタケルと、もう一人の中心人物カニメノオオキミ、そして首都マキムクにいるワカタラシヒコとタケシウチの動向を、並行して描かないといけない。
ワカタラシヒコは主人公の弟で、大して重要人物というわけではないのだが、次の代の天皇、すなわち成務天皇なので、少しは活躍させないといけない。ヤマトタケルがハムレットだとすると、ワカタラシヒコはフォーティンブラスにあたる。といってもシェイクスピアを見たことがない人にはわからないだろうが。『ハムレット』の最後に出てきて舞台をしめくくるノルウェーの王子だ。
タケシウチは重要人物である。この作品では、Aに出てきた相撲の祖ノミノスクネの息子としてことにしてあるが(これはわたしのフィクション)、このタケシウチノスクネは、大化改新で滅ぼされた蘇我氏の祖ということになっている。しかし『碧玉の女帝』では、蘇我氏は百済から渡来したことになっている。タケシウチというのは、蘇我氏が捏造した人物だろう。古事記・日本書紀には、こうしたフィクションがいっぱい入っている。わたしはなるべく、捏造された神話も取り込んで、ファンタジーを作っていきたいと思っている。で、タケシウチは、次の神功皇后の物語では、ヒロインを支える英雄として活躍することになる。ここで初めて、角のない英雄が登場することになる。ヒロインには角があるから、角のある人物をめぐる長大な物語はさらに続いていくのだが、神話の時代から歴史への移行の一つのメタファーとして、タケシウチは生身の人間の英雄の元祖だということになる。
さて、カニメノオオキミはケヒで祖父のツヌノオオキミの亡霊と出会う。ここでケヒを描いておくことは重要だ。次のCでは、物語がケヒの行宮からスタートするからだ。ヤマトの首都マキムクでは、大王タラシヒコが宴会を開いている。ワカタラシヒコとタケシウチだけは、宴会に参加しない。これは史実(というか『日本書紀』に記述されている正史)である。というような事柄を叙述してから、ヤマトタケルの死を描く。死んだあとも、物語が続いていく。カニメノオオキミらが、大王を討つことになる。しかし、主人公がいなくなってしまったあとは、できるだけコンパクトに描かないと、作品がダレてしまう。このあたりは『天神』で体験しているので、うまくまとまると思う。ただし、『天神』では歴史書ふうに、史実だけを淡々と語る、という手法をとったのだが、そういう意味での「史実」は、今回は設定できないので、ある程度、シーンとして描かないといけないだろう。
本日、主人公の死を描いた。コンパクトに、美しく描けたと思う。ヤマトタケルは死ぬと白鳥に変身するので、そのままベタに書けばマンガみたいになってしまうが、ある程度、スリムで格調の高い文体で描けたと思う。突然だが、このノートは今月で終わる。月内に完成しないかもしれないが、とにかくここに作品の完成までは、書き込んでいきたいと思う。来月のノートには、次の作品の構想などを書き込んでいくことにする。次の作品については、「ミステリーである」ということの他には、何も考えていないのだが。
06/28
ゴールが見えている。あとは流しても、ゴールインできる。エンディングも考えてある。仲哀天皇が幼児として登場する。そこに父のヤマトタケルが霊となった白鳥が飛んでくる。このエンディングは一カ月前くらいに思いついた。次の「新アスカ伝説C」のヒロインは神功皇后オキナガ姫なので、オキナガ姫をラストに出したいという気もしたが、今回の主人公ヤマトタケルと直接のつながりがあるのは子息の仲哀天皇だから、オキナガ姫の方はちらっと出すだけでいいだろう。
ニギハヤヒもちらっと出しておきたい気がするので、オキナガ姫の父のオキナガノスクネに、イコマ山を迂回してもらうことにした。何がどうしたという事跡を示すだけではイメージが痩せてしまう。スペクタクルな映像としてイメージを定着しないといけない。簡潔な言葉で的確にイメージを重ねていく。それがエンディング直前のスピード感をもたらす。イコマ山の西を回ると、当然、フシミの近くを通る。稲荷も出さないわけにはいかない。キツネたちの霊がオキナガノスクネの周囲に集まってくる。なかなかいいシーンになりそうだ。
昨夜、夜中の再放送で、「鳥羽伏見の戦い」というのをやっていた。これは幕末の戦争。淀川が、木津川、宇治側、桂川に分かれる分岐点は、交通の要所である。いわゆる「天王山」といわれるのもこのポイントで、天王山と、石清水八幡のある男山の間は、淀川が流れるだけの隙間しかない。三本の大きな川に、京都市内を流れる鴨川も合流して、この狭い隙間を通り抜けていく。いま、オキナガノスクネも男山のふもとを通過して、アワウミ(近江)に向かうことになる。
わたしは幼稚園の頃、京阪電車の沿線の寝屋川市に住んでいた。京都と大阪の間には、阪急、京阪という二本の私鉄が走っている。阪急は天王山側、京阪は男山の側で、京阪沿線の住人は、正月には三社参りというのに出かける。三社とは、香里園の成田山不動尊、八幡(やわた)の石清水八幡宮、そして伏見の伏見稲荷だ。八幡には遊泳場もあった。淀川で泳ぐのである。水流は緩やかで、水は澄んでいた。川の底は気持ちのいい砂地だった。関西で生まれ育ったので、土地カンがある。とくに京阪電車は、すべての駅名を暗記していたし、レールの配線も熟知していた。宇治へ行く支線があり、当時は奈良電(いまの近鉄京都線)に、京阪が乗り入れていた。そこで線路は複雑に交差することになる。線路というものに異様に執着した子供だった。大阪の市電の路線も暗記していた。いまでも描けるのではないかと思う。
話が横道に逸れた。要するに、登場人物が京阪沿線を走っていると、わくわくする、ということが言いたかった。ここからシガ(大津)を経て、ビワ湖の西岸を北に向かう。そこでカニメノオオキミの合流して、引き返す。白鳥の亡霊に追われた大王(景行天皇)が、シガの行宮に遷宮する。そこに南から、タケシウチ、大伴のタケヒらの軍が進撃する。というのがおよその段取りだ。これは、『日本書紀』には書かれていない物語である。つまりフィクションである。わたしが書いているのは歴史小説ではない。歴史に素材を借りたファンタジーである。簡単にいえば、「アーサー王伝説」みたいなものが、日本にもあっていいだろう、ということだ。アーサー王というのは、ケルト人の王だから、いまのイギリス人の祖先ではない。つまり歴史としては何も残っていない。ただ伝説だけがある。アーサー王に関する物語はすべてフィクションだといっていい。わたしの「新アスカ伝説」も、似たようなものだ。
06/30
本日、完成。昨夜、明け方、最後の後日談だけを残して、すべてのプロットを書き終えた。妻が旅行に出ているので、犬の散歩を終えてから仮眠、そして起きたらすぐに犬の食事、それからワープロをかかえた。後日談のエピソードを書き、最後に少年が白鳥と対面するシーンを可能な限りコンパクトに書いて、それでゴールイン。昨年の9月から書き始めた作業がようやく終わった。10カ月かかったが、1500枚の大長編と考えれば、まずまずのペースで書けたのではないかと思う。
本日は、ワールドカップの決勝。試合が始まるまでに書き終えることができて、よかった。サッカーはまあ、かなりよく見ていた方だろう。孫がスペインにいるので、スペインを応援していた。韓国に負けたのは残念。もちろん日本も応援したが、トルコに負けたのは仕方がない。韓国との3位決定戦を見てもわかるとおり、トルコは強かった。ポルトガル、イタリア、スペインに勝った韓国に勝ち、フランスに勝ったセネガルにも勝ったのだから、トルコはヨーロッパでは最強ではないか。ドイツ、イングランドよりも強いのではないかという気がする。決勝戦はこれから見る。ロナウジーニョはかわいい。がんばってほしい。
ここでこの10カ月の総括。なぜ「ツヌノオオキミ」なのかということは、いまとなってはわからない。廣済堂で女帝三部作を担当してくれたT君が学研に移動したので、何か書くことになった。学研は「歴史群像」という雑誌やムックを出しているが、どちらかというと伝奇に傾いているところがある。ちょうど某社で伝奇小説「天神」を計画していたこともあり、伝奇でいこうということになった。ただし集英社で「清盛」の次の「頼朝」を書く予定があり、その前に「ウェスカの結婚式」を書かないといけないので、作業としてはその次ということで、プランを寝る時間は充分にあった。
高校生の頃から、ヤマトタケルには興味をもっていた。というか、日本の神話をいつか、自分なりに解釈して、再構成したいと考えていた。中でも最も不可解で魅力的なのが、ヤマトタケルだった。だが例によって、いきなりヤマトタケルから書くのはためらわれた。女帝三部作も、聖徳太子の出てくる「推古天皇」はあとまわしにして、道鏡の出る「孝謙天皇」から、時間軸の逆方向に書き始めた。今回は時間軸に沿って、崇神天皇から、ということになったのだろうと思う。
崇神天皇については、深い認識が最初からあったわけではない。欠史八代といわれるように、第二代から第九代までの天皇は、名前が記述されているだけで、事跡がまったくない。初代の神武天皇を大昔に設定するために、名前だけ捏造されたのだろう。だとすれば第十代崇神天皇こそは、実在する天皇の初代だろう。以上の学説は、わたしが考えたものではなく、歴史学の常識らしい。崇神天皇で注目すべきは、ミマキイリヒコという名前と、唐突に垂仁天皇の項に書き込まれているツヌガアラシトという角のある人物の記載だ。これを眺めているうちに、ミマキイリヒコは「ミマナの城から入ってきた男」という意味だし、ツヌガアラシトは「角がある人」で、ケヒの浜に流れ着いたこの人物こそが、崇神天皇に他ならないという確信に到った。
わたしが書くのは論文ではないから、べつに間違っていてもかまわない。面白い小説になっていればいいのだ。その意味では、ここまで書いてきた3冊は、どれも面白い内容になっている。理屈は極力排除して、動きのあるプロットを積み上げてきた。とはいえ、第1巻のツヌノオオキミと大国主オオナムチとの対話のシーンは、まるでドストエフスキーみたいな議論になってしまった。まあ、そこが凡百のファンタジーと異なるところだ。これはやってぱり、極力読みやすくした文学、といったものだろう。これで第1期の作業は終わる。
このシリーズは12冊ほど書くと、「推古天皇/碧玉の女帝」の冒頭に登場した武烈天皇にたどりつく。つまり、12冊が完成すると、「推古天皇」からの女帝三部作につながって、合計15冊の大長編が完成するのだ。ただし、これは損を覚悟の純文学ではない。何しろベストセラーを前提としたノベルス版である。1万部以上売れないと、次ぎに進めない。読者の支援がないと、第4巻は幻のまま消えてしまうだろう。さて、そろそろ決勝が始まる。このノートはここで閉じることにする。
ただし、これから9章、10章を読み返してプリントする作業が残っている。何か気づいたことがあればここに追加して書く。ゲラの感想なども書く。7月の創作ノートは、タイトル未定のミステリーということになっている。
以下は随時更新します
