崇神天皇08

2025年8月

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08/01/金
8月になった。猛暑がどこまでも続いていく。来週は浜松の仕事場に行くことにしている。昨日、今日、そして週末と公用はないので、もう仕事場に行くムードになっているが、行った先でもネット会議はあるので、バカンスという感じではない。浜松も暑いので、軽井沢のように避暑というわけにはいかない。それでも昔は、寝室にはエアコンがなかった。夜になれぱ窓から涼しい風が入ってきて、寒いくらいだった。いまはエアコンなしには寝られない。地球は確実に温暖化している。石油を燃やさないようにしなければならない。原発、太陽光発電、風力発電といっても、それらの建設のために膨大なエネルギーが必要で、結局、石油を燃やすことになる。AIを動かすためには膨大な電力が必要で、そのために発電所の増設が急がれている。だが温暖化の原因は二酸化炭素だけではない。その何倍もの温暖化要素をメタンがかかえている。メタンは北極圏のツンドラの液状化からも発散されるのだが、最大の原因は、羊と牛のゲップとオナラだと言われている。世界の人口が増え、その大半が肉を食べるようになったので、人口の何倍もの羊や牛が増産されている。彼らは草を食むのだが、消化のためには消化器官に住む細菌や酵母の働きが必要で、そこから大量のメタンが発生する。それがゲップとオナラになって空気中に発散される。ぼくは大食漢ではないければも、少量の肉は食べている。酒も飲む。酒も醸造の過程で二酸化炭素を発生させる。困ったことだが、人間も生きているだけで地球温暖化に加担している。マスコミなどが採り上げている温暖化阻止のキャンペーンは、気分だけの無意味なものだ。ではどうすればいいのかというと、世の中をあまり急いで進化させなくていいのではないか、という程度の提言しかできない。しかし弱肉強食の資本主義の世だから、進化の速度についていけない企業は脱落していくのだろう。それにしても今年は暑い。エアコンをかけっぱなしにして、部屋にこもっているしかない。さて、本日は武蔵野大学で催しがあったのだが、猛暑が続いているので欠席させてもらった。申し訳ないが、老人なので許してもらおう。こちらはもう夏休みのモードに入っているのだが、世の中はまだ動いていて、メールが山のように来る。その対応だけでもけっこう仕事をしている感じがする。

08/02/土
散髪に行く。混んでいた。値上がりしていた。本日はそれだけ。世の中のさまざまな問題について、自分なりに考えていることはあるのだが、どうでもいいといえばどうでもいいことばかりだ。円が安くなって、日本人の全体が貧しくなっている。日本人ファーストを提唱する政党が人気を得ているようだが、日本人が貧しくなったのは外国人のせいではない。阿倍政権の時期から今日まで、金利を下げて輸出を促進しようとした結果が長期の円安につながった。そんなことをして輸出を促進しても、トランプが関税をアップすれば、元の木阿弥になる。金利を適切に上げて、輸入品の値段を下げた方がいい。まあ、こちらは老人なので、積極的に何かを消費するわけではない。どうでもいいことを考えても仕方がない。昨日のノートに羊と牛のゲップの話を書いたが、地球温暖化は何とかしてほしいと切実に思う。今年の猛暑はスタートが早かったので、体が限界に来ている。

08/03/日
猛暑が続いている。お盆の前後はいつものように浜松の仕事場で過ごすことにしている。今月の後半に歴史時代作家協会賞の選考があるので、それまでには東京に戻ってくるが、2週間ほどは滞在する。明日は沼津に一泊する予定にしている。浜松ではいろいろなことを考えようと思っていたのだが、トランプの関税の問題とか、地球温暖化とか、日本の政治とか、そんなことを考えてもしようがないので、宇宙について考えたいと思っている。ぼくがこの世に生まれて、つねに考え続けてきたのは、結局のところ、宇宙というもののことだろう。宇宙の問題は、およそ三つの整理される。1,なぜ宇宙は存在するのか。2,なぜ人間は存在するのか。3,なぜ「わたし」は存在するのか。「人間」と「わたし」については、だいたいのことはわかってきた。結局のところ、最後までわからないのは、なぜ宇宙は存在するのか、という問題だ。ただ手がかりはある。わたしたちが日常の生活を送っているこの地球上の空間は、宇宙の一部だ。したがって身近な空間を調べるだけでも、宇宙についのある程度のことはわかる。地球も、生物も、人間も、物質でできている。物質は元素で構成されている。元素はおよそ百いくつの種類があるが、原子核の周囲に電子が分布しているという構成はすべての元素の共通している。電子はマイナスの電荷を帯びていて、質量はゼロに近い。原子核のなかにあるのは、プラスの電荷を帯びた陽子と、電荷のない中性子とで構成されているのだが、陽子と中性子はほぼ同じもので、マイナスの電荷を帯びたパイ中間子を共有している。たとえばヘリウムの原子核は陽子2中性子2と学校では教えているが、原子4とマイナスのパイ中間子2と考えてもいい。この中性子は、原子核の外に飛び出すと、たちまち崩壊して、陽子と電子と中性微子(ニュートリノ)に崩壊する。中性子を陽子プラスパイ中間子と考えると、そこから電子とニュートリノが出てくるので、要するに中性子は、陽子+電子+ニュートリノと考えることもできる。そこでほとんど存在感のないニュートリノを無視してしまうと、物質はマイナスの電子とプラスの陽子だけで、宇宙は構成されているということになる。ほかに原子核内の「強い力」と「弱い力」というものが想定されているのだが、これは電気力のなかに含めて考えてもいいので、これも無視する。電気力の他に無視できないのは、重力というものだ。そこで「なぜ宇宙は存在するのか」という問題は、「電気力」と「重力」という二つの力と、「電気力」を生じさせる「プラスの電荷」と「マイナスの電荷」、および重力のもとになる「質量」ということになる。とここまで考えて、本日はおしまいとする。

08/04/月
午前中、近所の医者に行って、必要な薬を貰う。午後、沼津に向けて出発。夕刻、沼津のホテルに到着。酒を呑んで早めに寝る。昨日の続きの宇宙論。物理学はビッグバンとか、インフレーションとか、さまざまな仮説を立てているけれども、そういうのは数学的モデルを提唱して辻褄合わせをしているのだが、実体として把握検証したものではない。ただ実験的に、空間の局所にエネルギーを集中させると、電子と陽電子が飛び出すということが実証されている。このことから、「真空」と呼ばれているものは、「何もない空間」ではなくて、何かがぎっしりとつまっていて、いちようののっぽりした空間と感じられている状態、というものだと考えられる。ぼくは自分の著書のなかで、こんなたとえ話をしている。部屋のなかにゴルフボールでもパチンコの玉では何でもいいが、ボールを隙間なくしきつめる。ボールの幕のようなものが床をおおって、真っ平らになるだろう。そこで、バールのようなものを手にして、ボールを一個、真っ平らな床からほじくり出す。すると真っ平らな床の上に、異物としてボール1個が転がっている。そして、ボールが飛び出してきたところの床には、ボール1個ぶんの穴があいている。飛び出したボールは床の上を転がっているのだが、穴のところに来ると穴にストンと落ちる。すると真っ平らな床になる。この飛び出したボールを電子、穴を陽電子と考えればいい。宇宙の始まりには、巨大なエネルギーの塊が局所に集中していた。すると次から次へと電子が湧き出してきた。同時に同じ数だけの穴も生じた。同じように、空間には陽子もぎっしりつまっている。バールでほじくり出すと陽子が生じて、穴があく。この穴は、反陽子といったものだ。陽子がもとの穴に落ち込めば、空間は真っ平らになる。ここで、電子と陽子の違いについて考えてみる。電子はマイナス、陽子はプラスの電荷を帯びている。電子1個と陽子1個は、マイナスとプラスの違いはあるけれども、電荷の値は同じで、電子1個の電荷と陽子1個の電荷は等しい。ただし電子は質量がほぼゼロ。陽子は質量が1。とにかく、世界はこの2種の粒子で構成されている。ただし厳密にいうと電子も陽子も丸い球体の粒子として存在しているのではなく、ぼやっとした確率の雲として空間に浮遊している。ただしこれは確率の雲なので、何らかの作用が働けば、一瞬にして1点に収束する性質をもっている。つまり大きさのない微小な点として、電子があり、陽子があるのだが、ふだんはぼやったした確率の雲として存在している。まあ、そんな感じだ。だから、宇宙の存在について考えるためには、電子はなぜ存在するか、陽子はなぜ存在するか、ということを考えればいい。以下は明日。

08/05/火
浜松に到着。猛暑。東京でも40度超えとのことで、浜松は35度程度なので、まだましだと思いたい。エアコンを作動させも、キリッと冷えるわけではないが気分的には涼しい感じがする。電荷と質量の話の続き。電荷というのが、なぜプラスとマイナスがあるのかという問題は、真っ平らな床からボールを掘り起こす、ということでおよその見当がつく。飛び出したボールは、穴に落ち込んでいく。ボールと穴は、互いに引きつけ合っている。これが電気力だ。ただ質量がほぼない電子と、質量1の陽子が、同じ1という電荷をもっていて、互いを引きつけ合っているということ。そう考えてみると、プラス1の電荷をもち、1という質量をもつ陽子が、万物の元だという気がしてくる。電子はそこら質量を剥ぎ取られてマイナスの電荷だけが残っている存在、と考えればいいのではないか。そこで、陽子のもっている質量1というのは何か、ということが考えてみたい。ただこういう問題は、猛暑のなかで考えるべきものではないかもしれない。頭が回らなくなってきた。こういう時は、楽な自分の仕事をやっていればいい。

08/06/水
猛暑が続く。せっかく仕事場に来ているのに散歩にも出られない。さて、質量の話をしよう。質量というのは、重力と呼ばれる引力のもとだと考えられている。たとえばぼくの体重は、地球の質量とぼくの質量との相互作用による引力だ。しかし質量の本質は別のところにある。それはガリレオ・ガリレイがピサの聖堂の照明器具が揺れているのを見て発見した驚くべき原理だ。地球の表面上の物体は、重力によって地球に引きつけられている。この引力は相互の質量の掛け算に比例し、と相互の距離の2乗に反比例する。しかし地球の表面上にある限り地球の重心との距離はつねに一定で、地球の質量も一定だ。そうするとそれぞれの物体の質量によって引力は決定される。重い物体は大きな質量をもち大きな力で地球に引かれている。軽い物体は小さな質量なので小さな力で地球に引かれている。それだけのことであれば、重い物体は落下する時に強い力で引かれているので大きなスピードで落下するはずなのに、重い物体と軽い物体との落下スピードはつねに同じだ。なぜか。質量の大きな物体は、その質量に応じた大きな力で、空間に貼り付いているからだ。真空というのは粘性をもっている。重い物体はより大きな力で空間に貼り付いているため、その場所にとどまろうとする。この「動かしにくさ」と、「地球に引かれる力」とが相殺されるので、重い物体も軽い物体も同じスピードで落下することになる。この物体の空間との相互作用のもとは何なのか。独我論のエルンスト・マッハは、全宇宙の質量がその空間に働いているので、重い物体の「動きにくさ」のもとになっていると考えた。アインシュタインもその影響を受けている。ぼくは空間そのものに、糊のような性質があるのではないかと考えている。ヒッグス粒子というものも、そんなものではないだろうか。とにかく空間にはそういう性質があり、宇宙の始まりに質量をもった粒子が生まれるというのは、空間の粘性と関係しているのではないだろうか。すでに述べたように、空間からは粒子と反粒子がつねに生じている。大きなエネルギーが与えられると、空間から粒子が飛びだして、その穴が反粒子としてふるまうのだが、多くの場合、粒子と反粒子は発生した途端に粒子がもとの穴に落ち込んで消滅してしまう。対生成と対消滅がつねに起こって、空間は振動している。空間も、粒子も、不確定性という性質を帯びているので、何もない空間というものは存在しない。真空はつねに確率として振動を続けている。このつねに細部で振動を続けているのが、宇宙空間だし、宇宙のは始まりには、微小な一点にエネルギーが集中して、振動が一挙に拡大されて、さまざまな粒子が誕生した。宇宙の始まりとはざっと言ってそんなことだろうとぼくは思っている。でも、質量のある粒子がプラスの電荷を帯び、質量のない粒子がマイナスの電荷を帯びているのはなぜか。プラスとマイナスというのは相対的なもので意味はない。質量があるかないかというのも、不確定な振動から生じた偶然にすぎない。それ以上のことは、考えてもしようがない。とにかく、質量があって電荷を帯びた粒子を陽子と呼び、質量がなくて反対の電荷をもった粒子を電子と呼んでいる。しかしそれは、あらゆる可能性と不確定性をおびて振動している真空中に生じた、むらむらとした模様のようなものにすぎない。華厳経では海印という言葉を用いる。海の表面に生じた並の模様といった意味で、すべての存在は並が生じさせる模様にすぎない。この世界観は、正確に宇宙の様相を言い当てているように思う。仏教の「空」と、物理学や宇宙論の「真空」というのは、ぴたりと符合している。真空はつねに振動していて、そこには不確定という原理が働いている。「見る」ということ、「考える」ということ、「数理モデルをあてはめる」ということは、いわば不確定性に楔を打ち込むようなものだが、そこから幻影が生じ、迷妄が始まるというのも、仏教の世界観だ。宇宙物理学というのも、そうした迷妄のなかに生じた幻影にすぎない。ウィルソンの霧箱も、シュレーディンガーの猫も、量子もつれも、霧のなかに浮かんだ幻影だ。以上がぼくの宇宙論だ。次に、生命というものについて考えてみたい。

08/07/木
仕事場に来ているのだが、会議はどこまでも追いかけてくる。本日はネット会議2件。さて、電子と陽子。これだけで宇宙はできる、という話まで進んだのだが、ここで大きな疑問が出てくる。プラスの陽子の周囲にマイナスの電子が分布している。これが万物のもととデモクリトスが考えた原子の姿なのだが、プラスとマイナスは電気力で引き合っているので、なぜ電子は陽子とくっつかないのか、という疑問があるはずだ。高校の教科書などでは、電子が陽子の周囲を旋回しているような絵が描かれていたりする。高速で旋回する電子は遠心力をもっているので、月や人工衛星のように、中心に向かって落ちていくことはないというイメージだ。しかしそもそも質量をほとんどもたない電子には、月や人工衛星のような遠心力は働かない。ではなぜ、電子は原子核に落ち込まないのか。確かに電子はエネルギーを失う(光を放出する)と内側の軌道に落ち込んでいく。しかし最も内側の軌道に落ちた電子は、それ以上落ち込むことはない。そこには不確定という要素が関わっている。不確定というのは真空そのものの性質でもあるのだが、原子核の近傍の真空でも、同様の性質が働いて、電子の位置は不確定になる。落ち込んで陽子とくっついてしまうと位置が確定されてしまう。そのようなことはけっして起こらない。とにかく不確定であらねばならないのだ。もっとも、電子が原子核にとりこまれることがある。それが原子核内の中性子と呼ばれるものなのだが、鉛よりも大きな原子核をもつウランなどでは、原子核が不安定になって、ヘリウムの原子核や電子が飛び出してくることがある。とくにウラン235と呼ばれる同位元素は不安定で、中性子が飛び出してくることがある。空中に飛び出してしまえば問題はないのだが、自然界では0.7%しかないウラン235を20%に濃縮すると、空中に飛び出す前に、隣にあるウラン235に衝突する。するとウラン原子がたとえばバリウムとクリプトンに分解して、同時に2つの中性子が放出される。その中性子がまた隣のウランにぶつかると連鎖反応が起こって、いわゆる原子爆弾になってしまう。ただ連鎖反応を起こすためには、ボウリングの球くらいの大きさが必要だ。液体の硝酸ウラニウムの場合は、細長い容器に入れておけば安全なのだが、東海村で濃縮作業をしていた時に、アルバイトの作業員が大きなバケツに入れたために連鎖反応が起こり始めた。これを「臨界を超える」という。とてもアブナイ状況だった。テロリストがウラン爆弾を破裂させる場合には、濃縮したウランをボウリングの球をまっぷたつにした半球を2つ持っていればいい。半球ならば臨界を超えることはない。その半球をもって目的地に到着すれば、半球と半球を手にもって球状になるようにくっつければ、ドカン! ということになる。そのテロリストは自爆どころか、瞬間的に蒸発してしまうだろう。広島に落とされた爆弾は、飛行機から投下されたのでアインシュタインが語ったように落下する物体の内部は無重力になっている。そのままでは半球がくっつかない。そこで乗用車の安全装置のような風船を一挙に脹らませる装置で半球をくっつけた。プルトニウム爆弾の場合はもっと強く凝縮する必要があるので、全体から圧力をかける複雑な装置が必要だ。この装置が設計どおりに働くかどうかを確かめるためには、長崎にプルトニウム爆弾を落とす必要があった。巨大な人体実験というしかない。話が長くなったが、原子核から飛び出した中性子は、きわめて不安定で、たちまち陽子と電子に分裂する。だから中性子というものは、「原子+電子」と考えておけばいいといっているのはそういうことだ。何か、話が長くなってしまったので、本日はここまで。

08/08/金
朝のネット会議。これでようやくお盆前の会議は終了。別荘を兼ねた仕事場に来ても会議があるとのんびりできなかった。まあ、浜松も猛暑なので、どこかに出かけるわけにもいかず、散歩にも出ていない。さて、昨日の続き。「原子」と「電子」。これだけの材料で宇宙は構成されている。原子1個と電子1個がセットになった水素原子こそが万物の元だ。宇宙の始まりのエネルギーが凝縮している状態では水素原子が高速で衝突して「核融合」を起こしてヘリウムになる。これは水素爆弾と同じ現象なので高熱を発する。いま太陽のなかで起きているのも、水素がヘリウムに融合して高熱を発するという現象だ。その後、どうなるかというと、ヘリウム同士の衝突でベリリウムができるはずだが、この元素は不安定なので、ヘリウム3個でできる炭素、ヘリウム4個でできる酸素などができていく。最後は原子番号26番の鉄になる。鉄は安定した元素なので、たとえば地球の内部もほとんど鉄でできているし、ぼくたち哺乳類の血液も鉄でできている。それより重い元素は、太陽くらいの大きさの恒星では生産できない。もっと巨大な恒星が超新星爆発を起こしたり、中心部が白色矮星、中性子星などになって凝縮が進んだ時に、金や鉛などの重金属や、もっと重い放射性元素のウランができる。ぼくたちの地球の内部にも、金や鉛がたくさんあるし、中心部にはウランがある。地球に内部が熔けていてその対流によって地球が磁場をもっているのは、ウランが発熱しているからだ。ということは、地球はたまたま太陽のそばにあるけれども、地球に存在する元素のほとんどは、どこか近くで超新星爆発をした巨大な恒星があったことの痕跡なのだ。ぼくたちの現在の生活では、電気製品が欠かせない。電気を通す銀、銅、金などは、いまの太陽くらいの大きさの恒星では生産できない。地球の元素のもととなった超新星爆発を起こした幻の星に感謝しないといけない。

08/09/土
世の中もお盆休みに入ったのだろう。メールも来なくなった。さて、宇宙の誕生の概略はすでに述べた。次は人間の誕生だが、人間が誕生する前に、生物の誕生について考えなければならず、生物の誕生の前には、高分子について述べなければならない。炭素の周囲に4つの水素が配置されたメタン、炭素が2つ並んでその周囲に6つの水素が配置されたエタン、そこからさらに炭素が鎖のようにつながったもの。こういう長い分子や、六角形や五角形をした複雑の分子がなぜできたのか。ボルツマンは「エントロピー増大の法則」を提唱した。エントロピーというのは説明のしづらい概念だ。たとえば常温の水のなかに、キンキンに冷やした氷を入れる。水の分子は液体のなかで自由に動き回っている。動くということはエネルギーをもっているということで、その分子が氷に衝突して、エネルギーを氷に伝える。一方、マイナス20度の氷といえども、絶対温度に比べればはるかに高温なので、エネルギーをもっている。氷は強い結晶構造なので液体のように分子が自由に動けるわけではないが、わずかに振動している。その振動が周囲の水の分子に伝わり、氷のエネルギーが水に伝わる。つまりエネルギーのやりとりをするという点においては対等なのだが、ここでエントロピーが出てくる。ここで突然、たとえ話になってしまうのだが、1億ほどの資産をもっている金持と、所持金1万円の貧乏人が出会って、1000円のランチを食べたとしよう。会計の時に、どちらかが飯代を二人ぶん払ったとしよう。メシをおごられた人の幸福度はアップする。おごった方はダウンする。この場合に、1億の資産家にとっての1000円は、ごくわずかな価値しかもっていないから、メシ代のやりとりをしても、幸福度の変化はわずかだ。資産1万円の人が1000円払うと資産が10分の1減ってしまう。逆にメシをおごってもらったら、10分の1の幸福度アップになる。この時、双方の幸福度の和を求めると、金持がおごった方が、双方の幸福度の和は大きくなる。この幸福度にあたるものがエントロピーで、常温の水は大きなエネルギーをもっている金持、冷やした氷はエネルギーの少ない貧乏人ということになる。そうすると、時間をかければ必ず常温の水のエネルギーが氷に伝わり、結果としては氷は解けて、水の温度が少し下がる。これをエントロピー増大の法則という。熱いお湯と冷たい水を容器に入れれば、かならず「ぬるま湯」になる。そこで宇宙全体を一つの容器と考えれば、宇宙の始まりにはエネルギーが局所に凝縮していたのだが、長い時間をかければ、宇宙全体が均質な「ぬるま湯」になってしまう。こればボルツマンが唱えたエントロピー増大の法則だ。ところが宇宙の推移や進化を見ていると、高温ではあるものの均質であった宇宙のなかに、陽子や電子が生じ、原子が生まれ、恒星や銀河となり、恒星の周囲に惑星が生まれ、その惑星の表面に高分子が誕生し、やがて生命が誕生する。この状況を見れば、明らかにエントロピーは減少している。それはなぜかということを考えなければならない。

08/10/日
エントロピーの増大によって宇宙全体が「ぬるま湯」にならないのは、局所的には電気力と重力が働いて、粒子の凝縮が起こるからだ。真空中にばからまかれた陽子や電子は、電気力によって原子をつくり、さらにより重い元素に変化していく。重い原子は重力によって凝縮し、超新星爆発を起こしたり、白色矮星や中性子星になったりする。その過程で、ウランなどという途方もない重い粒子が誕生する。これは世界が「ぬるま湯」とは反対の方向に進んでいることを示している。さらに高分子というものがある。これは数式で示すとややこしくなるので、たとえ話になるのだが、棚田を想定してほしい。地球の近傍には太陽という反エントロピーの塊のようなものがあるので、水は太陽のエネルギーを受けて蒸発し、雨雲を形成し、雨となって地上に降り注ぐ。雨雲の状態になっている水は、地上の水と違って、太陽のエネルギーから得られた「位置のエネルギー」をもっている。位置のエネルギーというのは、潜在的(ポテンシャル)なエネルギーということで、見かけはエネルギーをもっているようには見えないのだが、地球の重力に逆らって高いところにあるので、これが地上の低いところに行くまでに、山を削ったり、川をえぐったりできるし、水車を設置すれば水の潜在エネルギーから回転エネルギーを取り出したり、発電したりもできる。またこの位置のエネルギーを蓄積することもできる。ダムもそうだが、棚田というのは、小さなダムが連続してあるような状態だ。この棚田の縁は棚田の水面より高くなっているので、水は縁を越えることができず、棚田にたまっていく。実は分子というものは、電気エネルギーの棚田のようなもので、水素ガス、酸素ガス、水、二酸化炭素といったものも、エントロピー増大の法則だけだとバラバラになりそうなものだが、水素ガスでいえば2個の水素原子が共有結合で水素分子を構成している。これは電気的な位置のエネルギーの縁のようなものになっていて、分子は結合するとたやすくは分解されない。そういう結合が複雑に起こっているのが多数の原子が構造的にまとまっている高分子と呼ばれるものだ。DNAと呼ばれているものは、ハシゴのような形状をしたヒモ状の高分子だ。なぜこんなものができたかというのは、偶然としか言いようがない。人間のDNAができるまでには、45億年近くの時間が必要だった。だがいったんDNAができてしまうと、このハシゴが二つに分離して、周囲にある核酸塩基と呼ばれるものを集めて、もとのハシゴの状態を造ることができる。まったく同じハシゴが2本できるわけだ。最初のハシゴができるまでに45億年かかったとして、ハシゴが二つにコピーされるのは一瞬ことだ。ハシゴの内部には、アデニン、チミン、シトシン、グアニンという4種の核酸塩基が並んでいる。これは4種の文字でできた文字情報で、この文字の並びによって、人間を造ることができる。また人体を構成する部品を造ることもできる。人類誕生までに45億年かかったとしても、人間のコピーを造るのは一瞬にすぎない。十月十日というのは、45億年に比べれば一瞬といっていいだろう。人間とは何か。一言で言えば、4種の核酸塩基の配列による文字情報にすぎない。ただ、人間だけでなく、犬や猫も、虫も、植物も、細菌やウイルスも、文字情報でできている。あらゆる生命活動は文字情報の活用と、その情報の読み取りによって成立しているので、人間だけの特権ではない。そこで、人間とは何か、という点に関しては、新たな解釈が必要だ。

08/11/月
ダーウィンが考えた自然淘汰(いまは自然選択)という考え方は、適者生存というふうに言い換えることができる。たとえば白樺の林に生息するガは、保護色の白い色をしている。ところが19世紀に入って工場で石炭による蒸気エンジンが作動するようになると、マンチェスター周辺の白樺が、石炭の煤で黒くなった。すると白いガが減って、黒いガが増えていった。品種改良の場合は、人間が適者を選択していくことなる。田畑に農薬を散布すると、その農薬に強い虫だけが生き残っていく。チーターの脚が速くなるとか、キリンの首が長くなるとか、生物は環境に適応するように進化していく。基本的にはDNAによって表記された情報によって生物は子孫を残していくのだが、温度による誤作動や宇宙線の影響などで、DNAによるコピーには転写ミスが起こる。致命的なミスはただちに淘汰されるから影響はない。どうでもいいようなミスの場合は、生存競争に影響はないので、ミスはそのまま子孫にコピーされる。ここで環境の変化が起こり、何の影響も及ぼさなかった転写ミスのなかに、新たな環境に適合するようなものがあると、その転写ミスのある個体だけが生き残って子孫を残し、転写ミスのないDNAをもったものも競争に負けて淘汰されていく。人間に尻尾がなくなったとか、体毛がうすくなったとか、頭が大きくなったとか、これらも転写ミスが環境に適合した結果、その形質が生き残ったということだろう。体の機能と、反射的な運動は、すべてDNAに記述されている。それが一般の生物の進化の限界だ。ところが人間は集団で狩りをしたり、親族が集団で生活するようになると、言語によって意思疎通ができるようになった。後天的に獲得した狩りの方法や、生活の知恵みたいなものも言語で伝達できるようになった。DNAの情報による進化は、転写ミスが起こり、環境の変化に適合するという、長大な時間のなかで徐々に進化していくものだが、言葉による伝達は短期間で集団全体のノウハウになる。種子島に漂着したポルトガル船員がたまたま所有していた二丁の鉄砲が、半年後には日本全体で何万丁も生産されるようになった。ぼくが生きてきた百年に満たない期間にも、ワープロ専用機、パソコン、iPhone、iPadと、自分の生活に欠かせないものがいくつも発明され、生活必需品となるほどに普及していった。DNAも情報ではあるのだが、言語による情報伝達は進化のスピードを革新することになった。ここが、他の生物と人間の違うところだ。そして「情報」というものは、きわめて鋭利な「反エントロピー」だということができる。地球では、反エントロピーによって地表が満たされていて、「ぬるま湯」などは生じなくなっている。

08/12/火
さて、ぼくは人間だ。人間だと思って77年間生きてきた。ただすべては幻影なのかもしれない。『ブレードランナー』に出てくるレプリカントと呼ばれる人造人間は、製造の段階で記憶を埋め込まれている。だから自分をふつうの人間だと思いこんでいる。ぼくもそういう人間なのかもしれない。妻に言わせると、ぼくには何かしら人間としての欠陥があるらしい。まあ、小説家などという仕事をしているものは、確かにふつうの人ではないのだ。ある作品を書いている時、ぼくは自分が書いている作品のなかを生きている。それをパソコンで文字情報として打ち込んでいるこちら側の人間の方が、幻影のような気がしてしまうことがある。これは職業病のようなもので、ぼくも仕事をしていない時は、ふつうの人間だと思っている。多少の欠陥はあるかもしれないが。ということで、人間について考察するということは、結局のところ、自分の材料にして考えるしかないということになる。もちろん、自分がこれまでに書いたかなりの数にのぼる作品の登場人物も、すべて「自分」だといえるのだが、大半が歴史小説とロシア文学の焼き直しなので、この日本のこの時代を生きている「自分」はそれほど多くはない。それに私小説の類やエッセーも書いているので、そこにいる自分は「自分そのもの」と考えていいと思っている。ただ自分の内部には、誰にも語っていない領域があるのかもしれないが、そんなものは自分の一部にすぎないので、まあ、ごくふつうの人間がここにいると考えていいと思っている。で、人間とはなにか、を考えるためには、一人の人間のサンプルとしての自分について考えるのがわかりやすいだろう。で、続きは明日として、本日の日記めいたものを書いておく。私的な急用ができて本日、東京に戻ることにした。本来はお盆休みの少しあとで変える予定だったが、3連休のお盆休みの中間点で移動も少ないだろうと思ったのだが、渋滞もなく午後1時には御茶ノ水に戻っていた。仕事場は散歩のコースに恵まれているのだが、あまりの猛暑で散歩に行けなかった。東京なら、地下鉄ど1駅乗って大手町から日比谷、銀座と、地下道で散歩できる。とにかく本日、無事に東京に戻れたので落ち着いて作業ができる。

08/13/水
子どものころから、大人になる過程で、ぼくも人並みに、「自分」というもののことを考えた。とりあえず考えるのは、家族、友人、その周囲の知らない人の目に映る「自分」と、自分の頭のなかの思考で考えている「自分」というものについてだ。ぼくは大阪生まれだから、大阪人の習性として、友人たちといっしょにいると、すべてがマンザイになるような会話をしていた。大宰治の「人間失格」では、つねに道化ている少年が出てくるけれども、大阪人はすべての人が道化ている。ところが中学生になって、ドストエフスキーなどを読むようになると、頭のなかで暗いことを考えるようになる。学校での日常ではマンザイが続いている。その乖離からややウツ状態になってくることがある。しかし高校に入って、文学について語り合える友人が得られると、そういう乖離は小さくなった。ドストエフスキーについて語り合える友人がいれば、その友人を相手にマンザイをする必要がなくなる。学生運動が盛んだった時期だから、政治や思想について語り合える仲間も増えていった。ただその仲間たちが学生運動に深入りするようになって、自分一人だけの領域が急にふくらんでいった。そこで高校を休学して、文学と哲学にひたりきる状況を作った。兄が心配して、大阪外国語大学の学生を家庭教師としてつけてくれたので、フランス語を独習した。まず会話の本を丸暗記して、その家庭教師の先生と会話をする。レコード20枚くらの会話が収録された会話をひととおり暗記して、フランス語というものが身についた(いまはすっかり忘れてしまった)。フランス語はパリではまったく通じないのだが、ブリュッセルでは店やレストランなどで必要な注文をすることはできた。ブリュッセルはすべての方向の郊外がオランダ語圏なので、郊外から来た人はすべて学校でフランス語を勉強した人なので、ネイティブスピーカーではない。だから店の人は、ゆっくりとフランス語をしゃべってくれるし、ネイティブでない人の発言を好意的に聞いてくれる。ネイティブでない人の間違いやすい傾向も熟知している。そういう環境でやっと通じる程度というのがぼくのフランス語だった。ただ楽譜を見てシャンソンを歌うくらいのことはできる。カラオケで加賀乙彦さんといっしょに「枯葉」を歌ったこともある。大学に入ると、文学部だから、友人と文学の話をすることができる。早稲田だから政治の話の方が多かったが、当時は政治と文学は密接に結びついていた。卒業して働いていた4年間は、職場の人と仕事の話をしていた。当時の日本のサラリーマンは皆がそうだったのではと思うのだが、仕事のあとの飲み会でも仕事の話を続けていればよかった。それから作家になったのだが、作家として世に認められていれば、作家として言動していればよいから、まったく問題はない。いわゆるアイデンティティーというものに悩むこともなかった。ただ流行作家みたいな仕事はしだいに疲れてきたので、40歳くらいの時に、「売れない作家」に転じた。これは楽だ。売れないけれども、2000部とか3000部くらい売れていれば、作家として本を出し続けることはできる。ただそれでは生活できないので、晩年は大学の教員をつとめていたが、大学の先生方はとてもインティメートで、大学の話さえしていればいいので、まったく問題はなかったし、作家が文学を教えるというスタンスで仕事ができたので、とても楽しい仕事だった。まあ、そういう「自分史」みたいなものはあるのだが、次に、生物としての自分とは何か、という話をしなければならない。

08/14/木
子どものころ病気がちだったので、自分の体力というものに自信をもてなかった。まあ、文弱といっていいのだが、体は大きかったので、いじめを受けるようなことはなかった。数学や物理化学が得意で、歴史や地理などの暗記物はきらいだった。単にめんどうだと思っただけで、興味をもてば何でもおもしろいし、おもしろいと思ったことは忘れないので、歴史や地理の知識もけっこうある。大学入試くらいまでは、試験の成績というものが人間評価の基準になる。幸い早稲田文学部の入試は英語・国語・社会一科目で「倫理社会」を選択できたので、問題なかった。独学でフランス語を勉強したので、英語もわかるようになった。英単語の99%はフランス語だからだ。あとはまあ、「芥川賞」という一種の試験に受かったので作家として仕事ができた。さて、「生物としての人間」なのだが、パソコンというものを使うようになって、この機械と自分とが一体となっているように感じている。乗用車や自転車を運転している時も、機械が自分の体の一部になったような感覚をもつことがあるが、パソコンの場合は、知的作業や、感覚や、知識までもが一つに融け合ったように感じる。ぼくは十数年、同じパソコンを使っている。いまもこの文章をそのパソコンで書いている。驚くことにスペースキーがぼくの左手親指の形に凹んでいる。それくらい長く使ってきたのだ。もちろんWindows11でも10でもない。7だ。ほとんどのホームページは見られなくなった。それでもメールのやりとりはできるし、ワープロとして使える。ワープロは辞書登録の機能があるので、登場人物の名前などは指が覚えている。何も考えずに文章がすらすらと出てくる。さて、パソコンは機械としてのパソコン本体がある。これは人間でいえば身体だ。購入した時にウィンドウズなどの基本ソフトと、ワードやエクセル、インターネットエキスプローラー、メールソフトなどがプレインストールされている。これは人間でいえば本能だ。買った当初は使い勝手がよくわからないのだが、慣れてくれば指が勝手に動くようになる。昔のパソコンはデスクトップだった。停電などで電力が遮断されると、当座のメモリーに入っていた情報が消えて、「脳震盪」とか「記憶喪失」状態になってしまうのだが、ラップトップは電池が内蔵されているので、情報が消えることはない。間違って消してしまうことがたまにあるが、とにかく長く使い込んでいくと、内部に情報が貯蔵されていって、使い勝手がよくなっていく。ただ内部メモリーの容量に限りがあるのだが、SSDを差しておけばメモリーを増やすことができる。で、「自分とは何か」というのは、パソコンの内部に貯めこまれた情報の集積、といったものだろう。ぼくはいま、77年分の記憶を貯めこんだ生物として生きている。人間は本能だけで生きるのではなく、内部メモリーに情報を詰め込んでいるので、本能に頼らない独自の生き方をすることができる。ただ問題は、人間の身体は神経のパルスによる情報だけでなく、血液中のアドレナリンとかドーパミンとかの分子情報や脳内ホルモンの作用によっても作動しているということだ。もちろん薬物やアルコールの作用によって、人格が変わってしまうようなことがあるかしれない。ぼくは酒にあまり酔わない。それでもアルコールの血中濃度が上がると、意思によってコントロールしているサービス精神が失われて、急に黙り込んでしまうところがあり、さらに限度を突破するとひとりよがりになって、急におしゃべりになったりする。薬物というのはあまり服用したことがないのだが、それだけにわずかな薬で変調をきたすことになるのかもしれない。ぼくは比較的にストレスに強い方だと思っているが、40代の後半からは、いやな仕事はやらない、ということにしているせいもある。大学の先生などは、朝起きるのはつらいけれども、いやな仕事ではなかった。原稿を書くのも、短いエッセーなどは楽しんで書ける。文芸雑誌に書かなくなってしまったのは、何となく楽しんで書けなくなったからだ。書きたいものを書いていいという条件で書き下ろしの本を書くのは楽しいものだ。その40代の半ばに、更年期障害なのか、めまいなどの症状が出たことがあったのだが、医者にストレスによる肩凝りだと言われて、アンメルツみたいなものをくれたのだが、雑誌の連載などの仕事がストレスになるようなら、書き下ろしの仕事だけにすればいいと考えた。だから、更年期以後は、まったく元気に生きている。

08/15/金
本日は終戦の日だ。月遅れお盆ということで、とくに祝日ではないが、全国的にお休みになっている。政治家がこの日に靖国神社に参拝するかどうかが、一種の「踏み絵」になっているところもある。無謀な戦争に巻き込まれて命を落とした人を慰霊するというのは、何も問題がないことのように思えるのだが、そこにA級戦犯とされている人たちの霊も含まれるということで、中国や韓国からの厳しい批判がある。ぼくはやや左翼がかった学生だったので、同じような批判の気持を昔はもっていた。しかし無謀な戦争が拡大していった過程には、戦犯とされる政治家だけでなく、それを支援した朝日新聞などのマスコミの責任があり、さらに新聞が戦争を礼賛したのは、新聞を購入する人々にも、戦争を歓迎するムードがあったということで、ポピュリズムによって戦争が拡大したという考えに、ぼくの内部で変化したところがあって、慰霊ということそのものには抵抗をもっていない。ただ先日の選挙でも、右傾化したポピュリズムが大きな成果を出しているように見える。ほとんど危険水域に迫っているという懸念をもっている。当時の民衆は、真珠湾の奇襲によって大きな戦果が出たというマスコミの報道を鵜呑みにして歓喜していた。サッカーのワールドカップでドイツとスペインに勝ったのと同じような歓喜を感じていたのではないか。しかしサッカーの試合と違って、戦争はどんどん拡大している。そして最終結果が広島と長崎の原爆投下なのだから、ぼくのような戦後生まれの人間でも、戦争を支援するポピュリズムの拡大には危険なものを感じる。ところで、学生時代の自分と、いまの自分では、考え方の変化というものが、確かにある。学生時代のぼくは、あの赤い表紙の毛沢東語録をもっていた。正しいとは思っていなかったのだが、さほどひどいものだとは思わなかった。当時からスターリニズム批判というものがあって、革命後のソ連がひどい状態になっているという認識はもっていたのだが、毛沢東による文化大革命では、もっとひどい状態になったのだし、カンボジアのポルポトはもっとひどいことをした。つまり、スターリンや、毛沢東や、ポルポトは、いちおう「左翼」ということになってはいるのだけれども、ヒットラーやムッソリーニとまったく同じような危険な状況を作ってしまったということだ。こういう認識をぼくがもつようになったのは、やはり報道の影響が大きい。では、そういった報道は「正しい」のだろうか。トランプは公正であるように見えるマスコミを全否定して、ネットでの情報を発信して、ポピュリズムの支援に頼ろうとしている。これはまさにファシズムなのだとぼくは思っている。ファシズムのことをぼくは、「きずな主義」と呼んでいて、ファシズムの語源のファッショとは、まさに「きずな」のことなのだ。左翼も右翼も、行きつくところは「きずな」による全体主義に傾いている。彼らに言わせれば、「全体主義」を嫌うのは金持階級のインテリだということになる。確かにアメリカの民主党の有力議員は皆、金持のインテリという感じがする。そんなことを考えている「主体としての自分」は、どこから来たのか。マスコミの報道を鵜呑みにしている金持のインテリの一員にすぎないのか。「自分とは何か」ということを考えていくと、そういうことを考えている自分は、なぜいまそういうことを考えているのか、というウロボロス的な疑問に到達する。こういう時は、軽く酒でも呑んで、楽しく生きればいいのではという気もする。

08/16/土
リチャード・ドーキンスの『利己的遺伝子』を読んだのは大学生の時だ。これはおもしろい着想の本で、生物の個体を「遺伝子の乗り物」と呼んでいる。たとえば人には誰も運転のクセというものがある。ある人がトヨタからホンダに乗り換えたとしても、車の動きは運転者のクセに応じた動き方をする。それと同じように、個体として生きているぼくたちは、遺伝子によって操作されているというのだ。キジのような鳥は自由に空を飛べるのだけれど、ヒナを育てている時は、草むらに巣を作ってヒナを守らなければならない。そこにキツネが近づいてくると、親鳥は翼を傷めているふりをして、キツネの前に出てくる。キツネは楽な獲物だと思ってあとをつけていく。充分に巣から離れたところで、親鳥は翼を働かせて逃げていく。これらの行動はすべて遺伝子による本能で操作されている。ヒナを救うためにキツネの前でよろよろ歩くというのは危険な行為だ。生物には生存本能があるから、できる限り危険を避けようとする。ヒナを救うという行為は生存本能に反するし、実際にヨロヨロ歩いているうちにキツネに襲われてしまうこともある。するとそこで親鳥は死んでしまうのだが、その親鳥の遺伝子はヒナの体内にコピーされている。個体としての親鳥が死んでも、遺伝子は生き残ることができる。遺伝子は自分が生き残るために、時として個体を滅ぼすことがある。そもそもヒナを育てるということ自体が親にとっては負担が大きく危険な行為なのだが、親がエゴイストだと子が育たない。するとエゴイストという性質をもった遺伝子は淘汰されて消滅してしまう。何としても子を育てそこに遺伝子を残すという、犠牲的な精神をもった遺伝子だけが生き残っていく。エゴイスティックな遺伝子は、自分が生き残るために親を殺すこともある。そもそも生物が老化するのは、個体としては性能が悪くなった親を早く殺して、子の世代を生き延びさせるための遺伝子の策略なのだ。ぼくは25歳の時に、長男が生まれた。その時に痛感した。子どもを育てるために、親は死にもの狂いで働いて、食べ物を確保しなければならない。子のためなら犠牲になってもいいという本能が親にはある。息子二人が子どもを育てている姿を見ても、子を大事にするという利己的遺伝子が確実に息子たちに伝えられていることがわかった。ということてなので、老人となったぼくも妻も、孫のために少しでも蓄えを残そうとしていて、まったくもって質素な生活をしている。それはぼくの親もそうしていたからで、利己的遺伝子だけでなく、生活ぶりを情報としてぼくは後天的に学んだのだろうと思う。人間というのは遺伝子による本能をコピーされているだけでなく、子どもの育て方みたいな情報も、親から子へと受け継いでいくのだろうと思う。さて、77歳になったぼくは、もはや子どもを育てるという義務からは解放されている。将来の夢みたいなものもないので、長生きしたいとも思っていない。生存本能が枯れてきたなという実感がある。このままぽっくりと死んでしまいたいという気がする。ぼくの遺伝子は、六人の孫に受け継がれているのだし、ぼくが情報として学んだ文学や哲学は、自分の著作として読者に伝達できたと思っている。まあ、老人が何を考えているのか、というのも、おもしろいテーマだと思っているので、エッセーのようなものはこれからも書き遺したいと思っているのだが、なすべきことの大半はなしおえたという気分になっている。

08/17/日
今日は日曜日か。お盆休みが続いていたので曜日の感覚がないのだが、明日から世の中は動き始めるのか。さて、人間について考えている。人間も「利己的遺伝子の乗り物」といえるのか。しかし人間は本能だけで動いているわけではない。言葉という新たな情報伝達のツールをもち、文化とか、概念とか、理念というものをもつようになった。遺伝子の乗り物なら、どんどん子どもが増えるはずだが、少子化の傾向が強まっている。子孫を求める本能としての性欲は、ピルやコンドームによって遮断されるだけでなく、性欲そのものが減衰しているようで、たとえば盗撮画像の愛好家というのは、子孫繁栄につながらない。ホモとかレズとか、ジェンダーレスとか、新たな領域の新人類の誕生も、少子化に拍車をかけている。ぼく自身は、高校で出会った妻と大学一年のころから生活しているので、息子が二人いるけれども、若者にありがちなギラギラした性欲はなかった。ありがたいことにスペインにいる息子が、スペイン人の嫁さんの活躍によって4人も孫がいて、名古屋の孫2人と合わせて6人孫がいる。ぼくの遺伝子がそこに乗っているはずだ。ぼくは作家として情報を発信しているわけだが、その情報がどこまで伝わるかは何ともいえない。文学そのものが衰退しているように見える。そのことについては改めて考えてみたい。ただありがたいことに、『いちご同盟』は今年も増刷になった。確実に誰かが読んでくれている。まあ、それでいいと思っている。ぼくは大学で講座をもっていた。そこから文学賞の新人賞をもらった学生も何人かいるし、評論家も何人かいる。エンターティンメントでいまも活躍している人もいる。まあ、何かが伝わったのではないかと思っている。で、改めて、人間って何だろう、と考えてみると、ぼくが考えている人間というのは、「知っている人」くらいの領域なのかとも思う。テレビの報道で見る戦地の人の姿は、ある程度は推察することができるけれども、ぼく自身が戦争を体験していないので、何もわかっていないのだろう。だから戦争について軽々しく発言する気にはなれない。ロシアに侵略されたゼレンスキーが、反撃するという気持もわかるが、これほど戦争が長引いたところを見ると、違いやり方もあったと考えられる。まあ、ぼくの知り合いにウクライナ人はいないので、本当のところは何もわかっていない。スペイン人なら、多少は知っている。スペインの人はみんな明るい。しかし息子の嫁さんの両親など、年輩の人は、フランコ独裁政権の時代を知っている。軍事政権の圧制下で、経済が衰退していた時代を知っている人が、明るく笑っているのを見る。考えてみれば、ぼくの両親も戦争体験者だ。妻の父親から、中国にいたころの話を聞いたこともある。そのように間接的には、戦争というものを伝えられている。このことについては、さらに考えてみたいと思っている。

08/18/月
誰もが「自分」というものをもっている。そうではないか。違っているかもしれない。他の人のことはよくわからない。人間は本能だけで生きているわけではない。子どものころは家族のなかで育つ。家族の生活のなかの約束事や、役割分担みたいなものが見えてくる。成長するにつれて、それが身の周りの社会に広がっていく。社会のなかに自分を位置づけ、役割を果たしながらも、その役割に徹しきれない自分というものを意識する。「内面」というものが生じる。他人から見られている外観の自分と、内面の自分。その差違が大きくなるとストレスが生じる。そこからウツ状態になったり、逆に攻撃的になったりする。こういう時の自分の「内面」というのは何だろうか。もう一つ、自分が内面と考えているもののさらに奥に、制御できないもう一人の自分がひそんでいることがある。あがり症で緊張すると思うように行動できない人、逆に怒りをコントロールできずに社会性を失ってしまう人、ギャンブル狂とか、アルコール依存とか、薬物中毒とか、自分を制御できない場合がある。幸いにして、ぼくはわりと自分をコントロールできる方だと思っている。ドストエフスキーはギャンブル狂だったし、怒りっぽかったし、浪費癖があった。そのことに悩んでいて、それが作品の幅を拡げた。ぼくがドストエフスキーに及ばないと感じているのはそういうところで、自分の問題についてあまり悩んでいない。これはもって生まれた資質みたいなものだろう。自分の人生を振り返ってみて、大きな転機が三つくらいある。高校時代に登校拒否をしたこと、勤めていた会社を辞めたこと、四十代半ばで連載の仕事をセーブして書き下ろしに集中したこと。このいずれも、自分では意図的で戦略的だったと思っている。学校がいやで行かなくなったわけではない。学校でやっている詰め込み式の受験勉強よりも、自分の関心に従って本を読んで知識を増やしていった方が、何ものかになる(たとえば小説家になる)可能性がある、と戦略的に考えた。勤めていた会社を辞めたのは、そろそろ作家になろうと思ったからで、ここには高校生でデビューできたことと、それ以来ずっとフォローしてくれた編集者の存在が大きい。作家になろうと思っても、新人賞の応募から始めたのでは何年かかるかわからない。妻と子ども2人がいたので、すぐに原稿料が貰える状態にならないと会社は辞められなかった。担当編集者がいたので、よい作品さえ書けば雑誌に載せてもらえるという算段ができた。四十代半ばで連載の仕事をセーブしたのは、戦略もあったが、更年期障害のせいか少し体調を崩したこともある。めまいがひどくなり、大学病院で検査してもどこも悪くないと言われたのだが、かかりつけの医者に相談すると、ストレスによる肩凝りが原因だと言われて、アンメルツみたいなものを貰った。肩凝りだと言われたら気持が軽くなった。ストレスに対しては、抗鬱剤みたいなものを貰ったのだが、一粒呑むと幸福な気分になって、小説を書く気がしなくなった。それで薬は一粒だけでやめて、仕事を減らすことにした。結果的に、それでよかったと思っている。収入が減ったので、大学の教員を引き受けたのだが、これは楽しかったのでストレスにはならなかった。ただ学長の理解があって、学部長会議の時にも内職で原稿を書き続けるなどの粗暴な行為を認めてもらった。会議は退屈で、何もしなかったらストレスになっていただろうが、小説のメモを書きながら話は聞いていて必要な発言をする、ということができていたので、迷惑はかけていない。いまも月に数多くの会議に出ているのだが、ZOOMなので内職ができる。ZOOMはiPadでつないで、会議の資料はパソコンで表示しているのだが、資料を見つつ自分の仕事もできる。ということで、いまのぼくはストレスがない。実は、たまに孫が来たりすると、嬉しいのだけれども、「おじいさん」の役割を演じなければならないので、それがストレスになる。まあ、その程度なので、あとしばらくは元気で生きていけると思っている。

08/19/火
猛暑が続いている。9月末くらいまで、どこまでもこの猛暑は続くらしい。人間について考察してきたが、話が抽象的になってきたので、突然だが、昔の想い出などを語ってみたい。ぼくは大阪生まれだ。大阪という町に、とくに思い入れがあるわけではない。むしろ大阪という町が好きではなかった。阪神タイガースは嫌いだった。それでも高校卒業まで大阪にいたので、影響は受けている。数多くの思い出がある。思い出せる限りのことを思い出して、大阪の影響を探っていきたい。ぼくが生まれたのは東成区というところだ。生まれたのは病院なのでそことは違うのだろうが、物心ついた時には、東成区の自宅で暮らしていた。そのころはまだ大阪の環状線はつながっておらず(つながったのは中学の時)、大阪駅から東の天王寺までは城東線、西の桜島までは西成線と呼ばれていた。電車は直通だったが、大阪駅止めの電車もあった。ぼくが生まれ育ったのは、森ノ宮と玉造の中間地点の、路面電車の玉堀町という電停からまっすぐ東に向かったところで、平野川という運河にかかった中本橋の手前で左折、少し北の方に寄ったところに自宅があった。自宅といっても二階建ての長屋を5軒ぶん借りて、仕切りをぶちぬいて父の会社として使っていた。南側から、青写真の焼き付けの機械、次の2軒ぶんが事務所、次が部品を作る旋盤の機械、最も北側が複写機の組み立て作業場だった。事務所の裏側には青写真の感光紙を作る作業場もあった。で、その5軒ぶんの会社の二階もつながっていて、南から青写真の原図のトレースをする作業場、2軒ぶんがわれわれの自宅、次が従業員の食堂、最も北側が従業員の休憩所になっていた。そういう状態がぼくが小学校2年の時まで続いていて、会社が新たな場所に引っ越したあとも、1階は何かの作業場になっていた。小学校6年の時にようやく環状線の内側の丘の上に、社長の大邸宅が建設されて、そこに引っ越した。その邸宅は兄が引き継いだ会社が倒産するまでは存続していて、正月には家族をつれて母を訪ねていた。印象に残っているのは二階の裏側に物干し場があって、そこからは大阪城が見えたことだ。大阪城は天守閣の石垣そのものが高台に上にあったので、当時は大阪のどこからでも見えたように思う。とくに東成区は戦災を免れた戦前の木造住宅が密集した地域だったので、高いビルなどはなく、二階の裏の物干しからも、かなり高い位置に大阪城が見えた。夜はライトアップされていて、少し青みがかった照明のなかに天守閣がうかびあがっていた。このイメージがいまも頭のなかに残っている。

08/20/水
父は戦前から青写真の仕事をしていた。青写真というと、未来の計画とか設計図のようなものを譬喩的に「青写真」ということがあるが、いまのようなコンピュータもなく、ゼロックスのようなスキャニングした画像に炭素を吸着させるコピー機もない時代の複写の方法として幅広く利用されたのが青写真だった。原理はフィルムを用いる写真と同じだが、写真のフィルムが銀塩を用いるのに対し、青写真は鉄塩を用いて、鮮やかな青色を発色する。ただ青写真の場合は基本的に透過光を利用するので両面印刷の本やふつうの紙に印刷されたり書かれたものは複写できない。そのため設計図などは、原稿の上に半透明のパラフィン紙を当て、墨でトレースをして写しとる作業が必要になる。青写真の機械はかなり大きなもので、写真のフィルムにあたる感光紙と呼ばれるロール状の紙をセットしてから、感光紙の上にパラフィン紙に写した原図を乗せる。感光紙は一定のスピードで機械のなかに吸い込まれていくので、次々と原図を乗せていく作業が必要だ。機械のなかで光が当たると感光紙が化学反応を起こす。薬剤のなかをくぐると感光紙は青く発色し、原図の炭で描いた線だけが白く浮き出す。ヒーターで乾燥させて、出てきた発色した感光紙を、巨大なカッターで原図ごとに切り分けていく。機械は一定のスピードで動き続けているので、作業としては感光紙の上に原図を乗せる人と、カッターで切り分ける人の、2人いれば仕事ができる。出来上がった青写真は、オートバイに乗った配達員が、発注した工場や建築業者に届ける。その時に、新たな設計図などがあれば貰ってきて、トレースの担当者に届ける。青写真の焼き付けの作業員は2人いれば充分なのだが、トレースは精密な手仕事なので10人くらいがつねに働いていた。それと配達員。および事務員。それだけで仕事が動いていく。戦前の父は、青写真の機械を三台保有してフル稼働させていたそうだ。その作業場は空襲で焼失した。兵役から無事に帰ってきた父は、機械に強い義弟とともに焼け跡に赴き、使えそうな部品を拾ってきた。三台ぶんの残骸から一台ぶんの機械を組み立てることができて、それで青写真屋を再開したのだが、残骸から拾った部品を組み立てた経験から、機械そのものを自分たちで製造することを思いついて、青写真屋を続けながらも、製造業にも取り組むことになった。やがて小型の卓上複写機というものを発明して、これがヒット商品となり、テレビで宣伝して売り出すほどになった。当時は、リコー、ミタ、ミノルタが卓上複写機の三大メーカーだった。ただ卓上複写機が売れ始めたころは、工場は少し離れたところに移っていた。ぼくにとっては懐かしいのは、やはり青写真の機械だ。二階に住んでいたぼくたちは出かける時は階段で階下に下りるのだが、その降り口が青写真の作業場のなかにあったので、青写真の機械はとくに懐かしく感じられるのだ。

08/21/木
昔の玉造駅には貨物駅があった。国電の城東線は高架だったが、玉造駅は地上にあった。城東線の高架のすぐ横の地上を森ノ宮まで進み、その先で城東線に合流する。京橋の少し先で城東線と分かれて、都島の操車場に向かう。一日に一本だけ、貨物列車が通過する。当時、すでに都心では珍しくなった蒸気機関車が牽いているので、ぼくの子守を担当していた祖父に連れられて、玉堀町の踏切まで見に行ったものだ。祖父は通過する時間を知っていたのだろう。母とデパートなどに行った帰りにタクシーで玉堀町の通りを進むと、ちょうど貨物列車の通過時刻で、踏切の遮断機が下りていることがある。タクシーの運転手にとっても驚きの場面だったようで、こんなところに踏切が、というつぶやきが聞こえる。玉造の駅は、今里行きの市電の通りに面しているのだが、反対側の鶴橋寄りの改札口から出ると、貨物駅の横に出る。鉄道と並行して日の出通りという商店街が鶴橋まで伸びていて、その商店街に向かうための、地下通路が設けてあった。小学生の時に、たまたま好奇心から反対側の改札口を出て、その地下通路を発見した時は、とても嬉しかった。その商店街には本屋があって、母に本を買ってもらったことがある。まだオート三輪を改造したタクシーが走っていた時期だが、玉造の駅前には輪タクが待っていた。人力車みたいなものを自転車で牽く乗り物で、タクシーや三輪タクシーより安かったので、母はよく利用していたようだ。ぼくは子どもだったし歩くことは苦にならなかったから、乗ったことはない。オート三輪のタクシーにはよく乗った。初乗りが70円くらいだった。バタコと呼ばれるオート三輪は、エンジンの音がうるさかった。三輪タクシーも同じエンジンで、ハンドルは自転車のハンドルのように両手で支えるものだった。当然、運転手が真ん中に座っているので、客はリアシートにしか乗れなかった。

08/22/金
大阪には市電と呼ばれる路面電車が走っていた。大阪は東京のような放射状の道路ではなく、京都と同じような直角に交差したタテヨコの道路なので、市電の路線図もわかりやすい。南北の幹線は四つ橋筋と上本町筋で、メインの御堂筋と玩具や菓子の問屋がある松屋町には市電は走っていなかった。ぼくは私立の追手門学院小学部に入学した。最寄りの玉堀町の電停から馬場町まで乗り、上本町筋の馬場町で乗り換えて一つ目の大手前で下りる。わずかな距離だが、電車はけっこう混んでいた。市電に乗ると、運転席の後ろに仕切りに、市電の路線図が掲示してある。いまでもその路線図は頭のなかに入っている。何の役にも立たないのだけれど、それでも「大阪」という街について何か考えようとすると、市電の路線図が頭のなかに浮かんでくる。上本町筋を北上した路線は、追手門学院の中学高校の裏門のある京阪東口でT字路に突き当たって、そこで左折して淀屋橋まで行き、そこで右折する。淀屋橋から大阪駅前までは、御堂筋に線路を通っている。もう一つの幹線の四つ橋筋は、大阪駅前から桜橋、肥後橋、四つ橋と進んで、その先で左折して難波の南海電車のターミナルの前から、天王寺に向かう。上本町筋の路線も終点は天王寺で、大阪の街は北の大阪駅(地元の人は梅田と呼ぶ)、南の天王寺の間が、いわゆる旧市街だ。東京は南の入口が品川、北は上野だが、渋谷、新宿、池袋などの西側にも大きな町がある。大阪は「北」と「南」しかない。「南」というのは、南海電車の難波から延びている御堂筋と、並行している心斎橋筋が中心で、天王寺はかなり外れたところにあるのだが、動物園や美術館があるところは上野に似ている。茶臼山というところに池があるのも上野に似ている。何よりも奈良方面に行く関西線と、和歌山に行く阪和線の出発地点になっている。大阪駅からは東海道線で京都方面、神戸方面に出かける時に通るだけでなく、阪急電車で宝塚や箕面にも行ける。天王寺に行く機会は少なかった。ぼくは小学校のころは児童劇団に入っていて、その拠点は肥後橋だった。肥後橋は淀屋橋のすぐ西にあるのだけれど、上本町筋の路線は梅田の方に曲がってしまう。学校から行く時は、都島の方から来る路線に京阪東口から乗ると、淀屋橋から肥後橋の方に行ってくれる。自宅から行く時は玉堀町から乗って、四つ橋筋の信濃町まで行って乗り換える。とにかく大阪の街を移動する時は、市電に乗る。ただバス路線もあって、いろいろな路線に乗った記憶がある。いまの大阪は地下鉄が縦横に走っているので、市電もないし、バス路線もほとんど廃止になっているのだろう。だからぼくの記憶に残っている大阪の街は、もはや存在しないといっていいのだ。

08/23/土
通っていた追手門学院の裏口の先に京阪東口という電停があった。上本町筋がT字路になって突き当たっている。突き当たりの先には京阪電車が走っていて、京阪東口という出口があった。ここは降車だけのための出口で、入ることはできない。当時の京阪電車は天満橋が終点だった。天満橋の交差点に入口があり、6番線まである大きな駅だった。京阪は城東線の乗り換えができる京橋から、京都の七条までノンストップの特急が走っていた。次に速いのが急行で、成田不動尊のある香里園、石清水八幡宮のある八幡、伏見稲荷のある伏見などに停車した。正月は三社参りといって、この三つにお参りするのが定例だった。次が準急で、母方の祖母が住んでいる寝屋川に行くにはこれに乗る。さらに京橋から守口までノンストップの区間急行というのもあった。京橋から守口までは複々線になっていて、各駅停車はどんどん追い越されていく。これだけの種類があるので6番線まで必要だったのだが、乗り場の混雑を避けるために、電車は少し手前で停車して、乗客をすべて降ろしてしまう。その降車専門のホームの出口が京阪東口だった。降車した人々はバスに乗るので、その東口にバスターミナルがあった。私立の追手門学院は、遠くから通ってくる生徒が多いので、学校から近い東口にバス乗り場があるのは便利だった。級友には梅田から阪急に乗るのもいれば、難波から南海電車に乗るのもいる。友だちのところに遊びに行くことが多く、このバスにもよく乗った。ぼくは4人兄弟(姉・兄・姉がいる)の末っ子だったが、のちに女優になるすぐ上の姉は寝屋川の祖母の家で暮らしていた。たぶん香里園にある聖母女学院の小学校に通っていたからだ。ぼくも幼稚圓は聖母女学院の教会のある幼稚圓に通っていたので、二年ほど寝屋川にいた。畑のなかの一軒屋で、そこに行く道路は祖母の家の専用だった。土の道で、そこにぼくは大きな釘で線路を描いていた。天満橋から京阪三条まで、すべての線路を描くことができた。天満橋はただ6番線まであるだけで単純な配置だったが、京阪三条駅はとても複雑な配置になっていて、それを描くのが楽しみだった。当時は奈良電という電車があって、それが京阪三条まで乗り入れていたので、奈良行きの電車が止まるホームがあった。奈良電はやがて近鉄に吸収されていまはJR京都駅から出る近鉄の路線しかない。しかし昔は京阪の線路とつながっていたのだ。三条からは大津に行く電車もあって、それが駅を複雑にしていた。もちろんいまの三条駅は地下に潜っているし、路線が延びているので三条はただの通過駅になっている。

08/24/日
今日はこれから歴史時代作家協会賞の選考会がある。リアルな会議なので猛暑のなかを出かけないといけない。終わってから飲み会があるので、体調を調えて出かけたい。で、大阪の思い出を先に書いておく。東成区北中道町というところに住んでいた。戦前は西区境川というところで青写真屋をやっていた父だが、召集令状が来て中国に赴いた。残った母は、空襲の可能性を考えて、東成区の長屋を借りることにした。なぜそこにしたのかはわからない。森ノ宮には砲兵工廠があって真っ先に狙われやすいところだ。住宅の密集地で火事になったらどこまでも燃え広がっていきそうだと思うのだが、何か勘が働いたのだろう。祖母が姫路にいたので母はそこから毎日境川に通っていて、空襲の日も大阪駅から徒歩で境川に向かい、会社が丸焼けになっていることを確認した。しかし東成区のその長屋は空襲に遭うこともなく存続して、父の復員後、そこで青写真屋を再開することができた。ぼくが生まれたのは戦後のことで、その東成区の会社のことしか知らない。ぼくが物心ついたころには、従業員が百人近くいたのではないかと思う。毎年正月には従業員が集まって、福引きをやった。従業員が家族の一員になっているような、昔の会社だった。長屋二軒ぶんの事務所の奥に社長の席があったが、父はいつも会社のなかを歩き回っていた。父は来客から「たいしょ(大将)」と呼ばれていた。母は事務を統括していて「奥さん」と呼ばれていた。そういう状態がぼくの小学二年生まで続いた。やがて会社は大きくなって玉堀町の仁丹の工場の隣に引っ越した。玉堀町から玉造の近くまでの広大な敷地に広がっていた。その会社にも何度か行ったことがあるが、木造の建物ばかりだった。まだ家族経営の会社という感じがした。父の兄がトレース部門の主任、義弟の一人が製造部長、もう一人の義弟が神戸支店長だった。四年生くらいになると、父の会社がテレビで宣伝するようになった。私立の小学校だから、他にも大きな会社の子どもがいたので、とくに目立つわけではなかったが、名字を変えさせられたのには驚いた。「三田」というのは、大阪では「さんだ」と読まれることが多い。神戸の北に「さんだ」という町があるからで、いまでも「三田牛」の産地として知られている。しかしこの名字は、父の母親の実家の名字を継いだもので、母親は岡山の出身だった。「みた」というのが正しい名称だった。会社の東京支店を出すと、東京では「みた」と呼ばれる。テレビの宣伝でも「みた」を使っていたので、名字を「みた」にすることにした。小学三年生までは「さんだ」だったのだが、四年生になると「みた」になって、アイウエオ順の出席簿の後ろの方になってしまった。まあ、いまでは「みた」という呼び方に慣れているので問題はないのだが、幼稚圓の同級生に会うと、昔は「さんだ」だったことを覚えてくれていた。そういえばぼくの幼名は「清」という。幼稚圓では「さんだきよし」だったので、全然違う人みたいだ。

08/25/月
昨日の歴史時代作家協会賞の選考会はおもしろかった。新人賞、文庫新人賞、作品賞と三つの選考があるのだが、いずれの部門も、7人の選考委員の意見が拡散してすぐには決まらなかった。候補作の水準が高く評価が均衡していたということだろう。直木賞・芥川賞が受賞者なしになって大きな話題となったが、時代小説の水準も上がっているのではないか。三つの部門のうち、自分が強く推したいと思っていた作品が一つだけあって、それは何としても推さねばと思っていたのだが、これはわりとすっきり受賞が決まった。あとは自分があまり評価していなかった作品が受賞と決まったのだが、選評を書く前にもう一度じっくり読んで評価したい。さて、大阪の話。ぼくの子守をしていた祖父は、海に近い九条というところに住んでいた。祖父に連れられてそのあたりを歩いた記憶がある。九条はいまは地下鉄が通っているのだが、当時は市電で行くしかなかった。最寄りの玉堀町から玉船橋行きの電車に乗れば一本で行けた。近くに九条の商店街があって、その突き当たりは安治川だったが、そこに源兵衛渡しという地下隧道があった。乗用車やトラックも乗れる巨大なエレベーターで地下に降下して、川の下のトンネルを走っていく。歩行者は車の横の方に立っていて、地下の歩道を進む。トンネルの先にはまたエレベーターがあって、上がるとそこは西九条の商店街で、西成線の西九条の駅があった。そのトンネルができる前は、渡し船があったのだろう。高校生の時に行ってみたら、歩行者用の専用エレベーターができていた。もう一つ記憶に残っているのは大阪港だ。天保山という桟橋があって、そこから別府行くの船が出ていた。小学校の臨海学校で淡路島に行った時も、修学旅行で別府に行った時も、そこから船に乗った。大学生の時に小豆島に行ったのだが、その時は安治川の上流の弁天町に埠頭が移動していた。天保山は砂浜が続いていたそのあたりに大工事で埠頭を造ったもので、大阪商人の待望の施設だった。「築港」と呼ばれていて、祖父もそういう言い方をしていた。別府航路の桟橋の横に、ポンポン蒸気の小さな船の乗り場があった。対岸の桜島に渡る船で、無料だった。その船には何度も乗った。桜島は西成線の終点で、そこから国電に乗ると、森ノ宮や玉造まで一本で行けた。中学生の時に、西成線と城東線は、西九条から天王寺まで延長されて一本につながり環状線となったのだが、桜島は西九条から分岐することになり支線になった。ただいまはその手前に大きなテーマパークができたので賑わっているはずだ。九条を通る地下鉄は九条のあたりは地上の高架線になっていた。祖父の何周忌かに兄弟4人で行ったことがある。森の宮から大阪港行きの路線に乗れば一本で行けた。いまはその大阪港の先が延長されて万博会場ができたのだが、まだ行っていないし行くつもりもない。

08/26/火
深川のイトーヨーカ堂で買い物。シャツを買った。ぼくはパジャマを着ない。風呂上がりに着たシャツのままで寝る。朝起きた時に別のシャツに着替える。このシャツのままで散歩に出かけることもあるので、外出可能のシャツと、パジャマの代わりのシャツの2種が必要だ。パジャマの代わりのシャツはやわらかければそれでよい。安物でよい。散歩に出かけるシャツは、集合住宅のロビーなどを通るので、よれよれにならない強度が必要だ。ということで、ユニクロで4枚買った。買ったばかりだからよれよれにはなっていないので、古いものをパジャマ代わりに使おうと思っている。さて、大阪の話。結局のところ、ぼくが語っているのは昔の大阪だ。小学生くらいの時までは、まだ高いビルなどが少なく、大阪の到るところで大阪城が見えた。それから生駒山。大阪の人は、大阪城と生駒山の方向や角度で、自分の現在位置を確認することができた。私立の小学校にいると、友だちの家が遠くにある。阪急宝塚線の豊中などは近い方で、西宮で乗り換えて仁川に行ったこともある。南海電車の天下茶屋に行ったこともある。阪堺電車の粉浜にも行った。天王寺と今宮の間くらいに住んでいる友人もいた。そういうことで、小学生でも私鉄や地下鉄を自由に乗りこなしてどこへでもいく。スペインの孫のところに行くと、小学校の送り迎えを任されることがあった。スペインの子どもには通学の自由は与えられない。親が必ず小学校の門まで行って出迎える。子どもだけ放り出すとどこへ行くかわからない。その点、日本の小学生はちゃんと自宅まで帰ってくるし、私立の小学生はバスや電車に一人で乗る。ぼく自身は小学校のころは市電かバスに乗っていたのだが、中学、高校は歩いて通っていた。父が引っ越しで少し学校に近くなった。5分歩けば大阪城の構内に行けた。そこから半周した搦め手門の先に私立の小中学校があった。高校は公立の大手前高校で、こちらは大手門の先にある。いずれにしても目の前に大阪城があった。高校は府庁の隣で、よく屏を乗り越えて府庁の食堂に行ったものだ。高校の食堂は屏が途切れていて、府庁の構内に面した窓があったので、府庁の人が高校の食堂を利用していた。中学の三年の時は、大阪駅から帰る友人が多かったので、いっしょに梅田へ行って、お好み焼き屋などに行くこともあった。高校になると、京阪東口の喫茶店で友だちと議論したものだ。そのうち梅田の古本屋を回ったり、喫茶店に行ったりした。デモの帰りにも必ず喫茶店に寄った。何か、政治とか、哲学の、果てもない議論をしていた。あのころが、いちばん頭が冴えていた気がする。

08/27/水
猛暑はどこまで続くのか。子どものころの大阪を思い出してみても、猛暑の記憶などはない。結婚した姉が近くの公団住宅に住んでいて、時々遊びに行っていた。団地はコンクリートの住宅が密集しているせいか、暑い感じがした。義兄が電話で氷屋に氷柱を注文すると、氷が運ばれてきた。氷を乗せる台のようなものが付随していた。それは台所のシンクのような防水がほどこされていて、底の穴から氷が融けた水が蛇口のようなものから排出できるようになっていた。昔は氷屋というものが身近にあった。ぼくが三歳くらいの時は、冷蔵庫はただの箱で、上部に氷を入れるところがあった。毎朝氷屋が玄関に氷のブロックを配達してくれた。朝、通学する時に、道で氷屋がブックを分割している場面によく出会った。各家庭に氷のブロックを配達していて、その家の冷蔵庫に合わせたサイズに切っていたのだと思う。ぼくが小学校に入ったころには、電気冷蔵庫はあったし、電気洗濯機もあった。テレビとかラジオとか、電器製品はその程度だった。電蓄と呼ばれる電気蓄音機もあった。少しあとで上の姉がオープンリールのテープレコーダーを買ったのだが、電蓄というのはレコードの再生装置だ。レコードは78回転で再生時間は3分くらいだった。小学校の高学年になると、ステレオと呼ばれる高級な電蓄が普及した。レコードは45回転のドーナツ盤と、33回転のLPに変わった。ただステレオの装置にも、回転数を78回転にできるスイッチがついていたし、再生用の針もついていた。4チャンネルステレオというのが発売されたのは大学生のころで、リアスピーカーをとりつけて4方向から音を再生する。試しにビートルズの「サージェントペッパー」をかけてみたら、音が180度くらいに広がったので驚いた。4チャンネルになる前から、ステレオ音源には逆位相の音が入っていたのだ。逆位相というのは、音の波形を180度反転させたもので、たとえば右スピーカーから出るべき音の逆位相を左側のスピーカーから再生させると、音が左のスピーカーよりもさらに左に飛んで、真横から聞こえるようになる。後期のビートルズは公演活動をやめてスタジオ録音に徹していたので、早くから音場操作の技術を採り入れていた。ちなみに音場操作の技術は、著作隣接権のなかにも入っていて、歌手や演奏家と同等の権利をもっている。最近は音楽を聴かなくなった。車で浜松に移動する時だけ、カーナビのハードディスクに入っている音楽を聴く、ほぼサザンオールスターズだ。子どものころの78回転は懐かしい。江利チエミが好きだった。それから三橋美智也。三橋三智也の歌は一番だけなら全曲歌えるのではないか。ステレオ装置が父の家に入ってからは、ベートーヴェンの交響曲を聴き、それからシューベルトの歌曲を聴いた。もっていたレコードは引っ越しの度に廃棄して、いまはもっていない。ビードルズのCD全集は買ったけれども一度も聴いていない。所有しているだけで安心してしまうところがある。さて、テイラー・スウィフトとトラビス・ケルシーの婚約が発表された。えっ、いままで婚約とかしていなかったの、という気もするが、これまではただつきあっていたということなのか。コンサートツアーで世界を飛び回っているスウィフトだが、ケルシーの場合はシーズンオフがあるので、どこかで二人ともオフの期間はあったのだろう。シーズンが始まっても、スウィフトは自分がオフであれば試合の観戦に訪れていた。まあ、めでたいことだ。ケルシーは今シーズンが最後のシーズンになるかもしれない。ただタイトエンドというのは、走り回るポジションではないので、ただ立っているだけでも存在価値はある。今シーズンのチーフスは、短い距離のキャッチにすぐれたライスが、自動車事故の裁定で3ヵ月くらいの出場停止になるのではといわれている。去年の新人のワーシーが成長したので、ロングパスが出そうな気がするが、それも短いパスを相手が警戒している状況が必要なので、ライスがいない間、ケルシーに頑張ってもらうしかない。今シーズンは出だしからフル回転してほしい。

08/28/木
成田へ行く。去年の夏もスペインの長男一家が来て、成田まで送りに行った。今年は孫の一番上だけが一人で来たので迎えに行く。成田にはいろいろ思い出がある。家族旅行をしたこともあるし、長男がスペインで暮らすようになって孫の顔を見に何度もスペインに行った。妻が同行することがほとんどで、すべてを妻に任せていればよかったが、二度ほど緊張感をもって出かけたことがある。一度は、長男がブリッセルに留学している時に、次男と2人で訪ねたことがある。チューリッヒ経由の便で乗り換えなどこちらが判断しなければならなかった。空港まで長男が迎えに来てくれたのであとは楽だった。もう一度は三人目の孫が生まれた時で、妻が先に出かけて子どもの世話などをやっていた。生まれたと知らせがあってからぼく一人で成田に向かった。パリ経由マドリッド行きだったが、パリでの出発ゲートの変更があって危うく乗り遅れるところだった。マドリッドに着いて他の乗客についていったら危うく出口から出てしまうところだった。シェンゲン協定というものがあって、EU域内は国内旅行と同じ扱いになるので自由に出入りできる。パリで乗り換えの時に入管などの手続きをしているのでスペインに移動してもパスポートチェックはないのだが、ほとんどの客が手荷物だけなのでバッジクレームのカウンターに行かないのだ。こちらは大きな荷物があるのでそちらに行かないといけなかった。出口の直前に気づいてあわてて荷物のカウンターの方に進んでいった。一人の旅行というのは慣れていないのでぼんやりしていると迷路に迷い込んでしまう。本日は出迎えだが、孫はのんびりしているので少し心配だった。無事に飛行場に着いたとラインで情報は届いたのだが、なかなか出てこなかった。荷物が出て来なかったのだろう。出てくる人の顔を確認するためにじっと見る。人間の顔というのはどれも似たようなものだと思った。ひげ面の男だけは除外できるが、長い黒髪の女の子というものはけったくたくさんいるものだと思った。

08/29/金
本日は『選手名鑑』の発売日。だがこの半月ほどの間にも選手のトレードや移籍が相次いでいるので正確な名鑑ではないが、参考にはなる。いよいよ開幕が迫ってきたので展望などを書いてみたいが、まずは昨シーズンを振り返ってみよう。昨年のドラフトはQB豊作の年といわれた。1位のケイレブ・ウィリアムスはベアーズに入った。出だしでそこそこ活躍していたのだが、途中から失速。オフェンスラインが弱いのと、投げる時に一呼吸遅れるクセを相手に研究されたようだ。2位のダニエルスが大活躍。弱小チームだったコマンダーズをチャンピオンシップにまで導いた。ブロンコスのボー・ニックスも活躍した。一昨年のドラフトではヤングの不振が目立ち、昨シーズンも復調の兆しが見えなかった。ルーキーイヤーから大活躍だったテキサンズのストラウドは去年も好調でもはやプレーオフの常連となった。コルツのリチャードソンは怪我が多くシーズン通しでの活躍がまだない。スーパーボウルはイーグルスのディフェンスラインがチーフスのオフェンスラインを粉砕した。マホームズはほとんど攻撃できなかった。これに対してイーグルスのハーツはパスが冴えた。ランニングバックのバークレーが安定しているので、相手はパスに備えることができない。今年もイーグルスは強そうだ。Aカンファはビルズのジョシュ・アレン、レイブンズのラマ―・ジャクソン、テキサンズのストラウド、チーフスのマホームズが健在で、地区優勝は決まったようなもの。これにドラフト1番のタイタンズのウォード、大ベテランのロジャースを加入させたスティーラーズ、去年はバローの怪我に泣いたベンガルズ、同じくベテランQBのフラッコに頼るブラウンズなどがどこまでやれるか。Nカンファはバイキングスで大活躍したダーノルドがシーホークスに移って同じように活躍できるか。ジャイアンツに移ったラッセル・ウィルソンはどうか。それよりも新人ダートの先発を望むファンの声が強まっているようだ。ぼくは個人的にはバッカニアーズのメイフィールドの控えに入ったテディ・ブリッジウォーターに期待している。去年出遅れた新人QBの二人、バイキングスのマッカシーと。ファルコンズのベニックスは活躍できるか。もちろんライオンズのゴフやバッカーズのラブも活躍するだろう。Nカンファはハーツのイーグルス、ゴフのライオンズ、メイフィールドのバッカニアーズの地区優勝は堅い。残りの西地区でパーディーの49ナーズは復調するか。それともダーノルドのシーホークスか、スタッフォードのラムズか、マレーのカーディナルスか、この地区だけは渾沌として予想がつかない。スーパーボウルは去年と同じチーフス対イーグルスで間違いないだろう。

08/30/土
開幕が1週間後に迫っている。チーフスはどういうわけかブラジルでチャージャーズと対戦する。来週の土曜日で、テレビ中継はないのだが、YouTubeが初めてFootballの生中継をするのだという。ぼくがふだん使っているiPadは機種が古く、動画を見られないことが多いのだが、会議用に新しいiPadを使っているので、試してみようと思っている。さて、そのチーフスだが、昨シーズンは接戦が多かった。スロットレシーバーのライスが負傷。トレードで獲得していたブラウンも負傷、さらにランニングバックのパチェコまでがリタイア。ランニングバックはハントの加入で何とかなかった。レシーバーは新人のワーシーの活躍で、プレーオフも勝ち抜けたのだが、スーパーボウルではイーグルスのラインの強さと、ランニングバックのバークレーに粉砕された。チーフスのスーパーボウルでの成績は3勝2敗になった。3勝は辛勝ばかりで、2敗は大敗だから、惜しいという感じではないが、このままでは希望がもてない。オフェンスラインの強化が何よりも大事で、少しは強化されたようだが、実際に役に立つかはシーズンが始まってみないとわからない。ライスは自動車事故の責任で6試合の出場停止だが、負傷は癒えて練習には参加しているので問題はない。最初の6試合のなかには、イーグルス、レイブンズ、ライオンズという強敵ばかりだが、3勝3敗でいってもプレーオフには進める。ワーシーの成長でロングパスの受け手ができた。ブラウン、スミスシェスターもいるし、タイトエンドのケルシーもいる。ランニングバックはパチェコとハントでいくしかないが、2人とも小兵なので怪我が心配だ。イーグルスにはバークレー、レイブンズにはヘンリーという大型のランニングバックがいる。控えタイトエンドのグレイなどを使って、何とか切り拓いてほしい。ディフェンスは昨シーズンの陣容と大きく変わっていないので、接戦には持ち込めるだろう。ただイーグルスやレイブンズ相手の守備となると、劣勢になりそうな気がする。それでも地区優勝には届くだろう。チャージャーのハーバート、ブロンコスのボー・ニクスと同地区には優秀なQBがいる。さらにレイダースにはシーホークスにいたベテランのスミスが移籍した。控えにはスティーラーズで一昨年まで先発だったピケットもいる。ぼくはピケットを応援していたので、がんばってほしい。

08/31/日
今月も月末になった。月末になると次のページを用意しないといけない。この日記のようなページを書き始めてからは月末になると必ずやる作業なのだが、けっこう手間がかかる。ホームページビルダーのようなソフトを使わず手作業でやっているので、自分でコマンドを打っていく。コマンドというのは一種の言語だ。昔、ベイシックという言語でプログラミングをしていた時期があった。素数を際限もなく打ち出すとか、円周率の計算とか、当時小学生だった息子に算数の問題を作っていたこともある。まあ、コンピュータというものの原理がそれでわかった気がした。ところでスペインから来た孫のもっているスマホは、日本語の文書をカメラの前に掲げると、スペイン語で読み上げてくれる。だから町の看板や駅の表示板なども読みとれるので、問題なく町を歩くことができる。日本の街にあふれているインバウンドの外国人も、そういう装置をもって旅行しているのだろう。便利になるのはいいのだが、ホワイトカラーの仕事がなくなるのではないかと言われている。小説を書くのは難しそうだが、簡単な文書ならAIがやってくれる。メールの返事などは苦もなくやってしまうので、人間の仕事はサービス業だけになってしまいそうだ。というところで今月も終わった。いよいよFootballのシーズンが始まる。地区優勝の予想はほぼ決まりだが、あと数日あるので、予想を立ててみたい。

以下は随時更新します


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