素麺の夏

 夏もまもなく終わりである。夏の間にしておかなければならぬことは、皆様もうお済みでしょうか。宿題だけではない。夏と言えば、ビアガーデン。ナイターに生ビールと枝豆。敗戦のやけ酒。花火見物。浴衣見物。密着カップル見物。海水浴。日焼け。スイカ割り。虫取り。蚊に食われる。ダニに食われる。怪談。金縛り。夢枕。コミケ。脱水症状。これらのことを夏の間にやっておかないと、冬になってからひどい風邪をひくと言われている。

 以上のことはクリアしたのだが、実はまだやっていない夏の風物詩が残っている。これだけが心残りだ。
 それは、流し素麺である。
 流し素麺と言えば、古代ギリシアの哲学者アルキメデスが川に落とした素麺が流れていったことから偶然発見したと伝えられる、由緒正しい行事である。日本では古事記でヤマトタケルが放浪していたとき、川に流れる一筋の素麺を見て、「上流に人家があるに違いない」と言い当てたくだりがあることから、奈良時代には少なくとも行われていたと推定される。
 いま、流し素麺は世界じゅうで行われている。今年ナイアガラの滝で行われた「第124回大瀑布流し素麺大会」では地元カナダのユーコン・エリック氏(49)が激流をものともせず13筋をすくい取って世界記録を樹立した。イタリアではフォークでテーヴェレ川を流れるマカロニを突き刺す「流しマカロニ」が盛んである。高田屋嘉兵衛はこれにヒントを得て鮭の突き刺し漁法を編みだし、アイヌに伝えたという。ベトナムでは蛇を素麺に見立てて川を泳ぐ蛇を箸でつまみ取る「流れ蛇」があまりに盛んなため、共産党政府はこれを禁止して「蛇を食べず、鼠を食べましょう」というキャンペーンを始めたそうだ。タイでは「流しトムヤム」を始めたところ、下流の魚が全滅してしまい、訴訟問題に発展している。麺類に関しては口を出さずにはおれない徳島では、対抗して「鳴門うどん」という、鳴門のうず潮を流れるうどんを箸でつかむ豪快な行事を始めたが、観光客4人が船から落下してうず潮にのまれ行方不明だという。

 そんな流し素麺にも、厳然たるヒエラルキーが存在する。まず最上位の貴族階級に属するものは、川での流し素麺。やはり群馬とか伊豆とか、とにかく山の方の川に限る。水あくまで清く、夏なお冷たい渓流に足をひたし、彼女とさんざめきながら素麺を待つのだ。目の前に彼女の白いふくらはぎ。頭上には木陰。そよ風にゆれる緑の葉。川のほとりでキリギリスの声。遠くではヒグラシのもの悲しげな声。やがて上流から白い筋がいっせいに流れてくる。皆で争って箸を突きだし、素麺を掬わんと競う。勢い余って苔に滑り、轟音と共に沈没する人間。「流し人間だー」と皆で蹴る。「あ、つかんだ」と彼女の声。「やった、赤い素麺」赤い素麺は願いがかなう。「んーと、じゃあね、あなたとキッス」うふ。うふ。うふうふうふうふうふふふふふふ。

 流し素麺界の中堅たる神官階級に属するのが、屋内での流し素麺だ。料亭の庭先。青竹を割った筒がいくつも継がれ、スラロームを形成している。大きな氷の上に置かれ、ひんやりと冷たそうだ。浴衣を着た彼女が隣に座る。「行きますよー」上品そうな女将が和服のたもとをはしょり、ざるを掲げ、一気に青竹に流し込む。冷水と共に勢いよく流れる素麺。えいっ。外れた。「きゃ、青い素麺」これは彼女の声。青い素麺は相手の言うことを聞かねばならぬ。「よーし、じゃあ、ぼくのほっぺにキッス」うふ。ふふふふふうふふふうふふうふふふうふふふ、うううふふふ。

 ここまでは身を落としたくないという、流し素麺界の大貧民、農奴、ハリジャン、阪神と広島、それが自宅流し素麺だ。蒸し暑い自宅。窓を開けても風は流れず、流れてくるのは隣の子供の泣きわめく声とそれを叱る母親の声、それと向かいで作っているカレーの臭いだけだ。ろくに掃除していない雑然とした机の上には、いま通販で届いたばかりのトリプルバード製流し素麺器「流しソーメンくん」特別価格5980円。がさごそと包装を剥がす。楕円の洗面器の如き物体。付属している単2乾電池を底面にセット。水道水を洗面器に流し込み、スイッチを入れる。ぐるごあぐえがあ。妙な音を立てて水流が起こる。水に指をつけてみたが水道水は当然鮮烈でもなければ冷たくもない。つと立ち上がり、台所へ行く。鍋を火にかけ、3年前のお中元でもらった「揖保風素麺」を2把投入。冷蔵庫から生姜を取り出し、不器用な手つきで皮を剥く。葱を刻む。薬味を容器中央の薬味入れに置き、茹だりすぎた素麺を洗面器に投入。洗面器から水が溢れ、テーブルは水浸し。あわててティッシュを取り出し拭く。スイッチを入れ、ぐるぐる回る素麺をつかみ取っては、「にんべんつゆの素」を3倍に薄めた汁に薬味と共に投入。冷たいか。ぬるいぞ。うまいか。うまくないよなあ。
 かくてひとりわびしく素麺を食う男。永谷園も近寄らぬ惨状だ。「流しソーメンくん」は慰めるかの如く嘆くが如くぎゅうわいんぐぃんと唸る。がんばれ。赤い素麺は願いがかなう。青い素麺だったら願いを聞いてくれるぞ。しくしく。


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