「縄紋国」と「日本国」

last update (00/07/07)

はじめに

 現在、「縄文文化」の分布範囲として一般に考えられているのは、北東は北海道・南千島、南東は八丈島、北西は対馬、南西は沖縄となっている。これに小笠原諸島などを加えればまるっきり現在の日本国の主張する「固有の領土」の範囲と重なっている(これはまた、幕末・近代初頭の日本政府が支配下においた範囲ということでもある)。これは単なる偶然か?

 本州を中心とした日本列島は5つの島と2つの海で、アジア大陸に接している。南から時計回りに琉球島弧、東シナ海、壱岐・対馬、日本海、樺太、千島、という具合である。さらに伊豆・小笠原島弧はミクロネシアにつながっている。これらの道をたどって日本列島に人類が渡来し、文化が伝わったのであるし、逆に日本列島から文化を発信することもあれば、近代において進軍路ともなったのである。
 あらかじめ誤解を避けるならば、この場で「大日本帝国」の歴史的評価をしようとするのではない。「日本考古学」における時代区分または文化区分としての「縄紋」の確立の過程を検討する際にそれが無視できない背景であることを前置きしておくのである。  本稿では現在認識されている「縄文文化」の地理的範囲がどのように形成されてきたかを追跡しようと試みる。本稿の記載は考古学関係の文献に依拠したのは当然であるが、それらにもまして近代日本における「日本人」という枠組みを探る小熊英二氏の著作(『単一民族神話の起源』『<日本人>の境界』)に多くの示唆を受けたことを明記したい。  なお、以下の文章で「内地」という言葉は、本州・四国・九州およびそれに付属する島々を指す。「北は津軽外ヶ浜から南は鬼界島まで」というやつですね(西北は対馬、東南は八丈島まで)。「本土」という場合はこれに北海道を加える。

 「縄紋土器」の範囲に関しては、時間的範囲、すなわち上限(「最古の土器」の扱い)と下限(「弥生式」との境界と「続縄紋」の扱い)も研究史上常に熱い話題であるが、本稿では最小限にしか触れなかった。また、「弥生」の地理的範囲も合わせて追跡するべきであるが、論点の分散を避けるため省略した。とにかく、色々な視点でなされた「日本文化」の起源の研究の一部のみを切出しているのであり、「縄紋土器の範囲」という問題設定自体が、強引な線引なのである。

「大日本帝国」の形成 −明治・大正期−

(1) 帝国と人類学の形成

 日本考古学史の上で「人種論の時代」と呼ばれる期間であるとともに、「大日本帝国」の領域が形成された時期でもある。

北海道

 近世初期には、松前藩の直接支配地以外は、交易相手の居住地というに過ぎなかったはずなのに、次第に領地として意識され、幕末に近づくとロシアの南下に対抗して明確に「日本国」の一部として扱われるようになる。近代は道制が敷かれ、法制上、内地と若干異なる扱いをされた。原住民のアイヌは法的には「旧土人保護法」をのぞき内地人と同様の権利・義務を負わされ、近代化という名目の日本人化を迫られた。

 さて、北海道には内地と同じ先史文化が広がっていたか? これは明治期には議論もされなかった。というのも、明治期を代表する「人種論争」では石器時代遺跡を残したのがアイヌとせよコロボックルとせよ、北方系の民族であるとされ、北海道さらには南千島の遺物も含めて検討材料とされていたから。「人種論争」が盛んになった理由を「遺跡は先住民が残したものである米国の出身のモースだから、そういう発想をし、欧米人の言には弱かった当時の日本だから、それが受け入れられた」という具合に説明する本も多い。しかし、そうではない。そもそも、現在と掛け離れた先史時代の遺物を別民族(あるいは別人種、あるいは人間以外の存在)が残したと考えるのはほとんどの民族に共通する(アイヌのコロボックル伝説もその1種)。それにもまして、明治の時代には先住民族である「アイヌ」が「大和民族」に土地を追われていくという現象が目の前で展開していたのである。同時代の問題としての「アイヌの保護」にどう関わったかは研究者ごとに様々であるけれども、明治時代の日本が北海道を字義どおりの「植民地」として先住民族の土地を奪ったことを無視して「アメリカ人だから」という発想をするのは大間違いである。ちなみに、初めてそういう考古学史を記述し現在までに影響を与えているのは清野謙次であるが、氏が生まれたのは明治18年(1885)、ものごころつくころには既に北海道に和人があふれ、日清戦争で台湾を獲得した。清野にとって新領土といえば台湾や朝鮮であり、北海道は疑問の余地のない日本の一部だったのである。

千島

 南千島(いわゆる北方4島とほぼ同じ)と中・北千島は近代に少しことなる履歴をたどる。即ち、前者は江戸時代から一貫して「日本」の支配下に置かれ、後者は明治8年(1875)の樺太千島交換条約によって日本に編入されたのである。その後、行政的には北海道の一部として扱われ続けた。さて、北千島の住民は「北千島アイヌ」(または、強制移住先に基づき「シコタン人」)と呼ばれる。人種論争の流れが変ったのはこの集団が土器を作る習慣を持っていたからなのだが、現在の知見からすればそれは中世以降の鉄鍋の模倣に由来する「内耳土器」と呼ばれる土鍋で、縄紋土器とは時代も系譜もまったく異なるものである。ただ単に土器を作る習俗の有無が問題とされたがためにこのような議論になったのである。

樺太

 樺太は樺太千島交換条約によって全島がロシア領となった。日露戦争により明治38年(1905)から南半が日本領となったのである。統治には総督制をとらず「樺太庁」を置いた。樺太庁は一時内務省の下に置かれる等、北海道庁に準じた扱いであり、昭和18年には都庁府県の一つとして位置付けられる。北海道と同様に植民者(「大和民族」)が人口の大多数を占めるがゆえである。

 これら「北方領土」の先史文化の研究が進み「縄紋土器」の範囲が問題とされるのは昭和に入ってからである。

小笠原諸島

 1830年、無人だった島々に捕鯨の基地を必要としていた米国人が移住した。幕末に、ペリーもからんだ米英の領有論争もあったが、江戸幕府が米英の了解を得て日本領に組込んだ。明治9年に再度日本領であることが確認され、米国系人も日本に帰化した。坪井正五郎は日本が多民族国家であることを主張するときに彼ら白色人種も「日本人」に含まれていることをあげた。

琉球

 奄美地域は、近世に島津家にもぎとられ、近代以降も引き続き鹿児島県に含められた。沖縄諸島と先島諸島は明治12年(1879)「琉球処分」により日本領に組込まれ「沖縄県」となった。県制が施行された点において、他の海外領土とは異なった取扱いといえる(ただし、日清戦争直後、台湾と合わせて「南島道」とすることも検討されたという)。民族系統の位置付けについては、比較言語学により同系統であると証明されたのだが、それ以前から文化の同一性が唱えられていた(中国文化との共通性を主張する意見も一方にはあった。両者の論争は琉球の帰属を巡る論議と不即不離のものであったことは言うまでもない)。

 明治37年(1904)、鳥居は伊波普猷に招かれ訪沖した。そして沖縄本島で発見された土器が波状口縁を有することや沈文を有する等の特徴によって本土の「アイヌ式土器」と同一系統に属するとしたのである。一方で八重山諸島の土器が無文であるなど趣きを異にし、むしろ台湾の先史土器に近いことを指摘している。  伊波は、「日本人」の分派である琉球人の祖先が先住民のアイヌを征服した、すなわち内地と同様の民族交替があったと考えた。

台湾

 明治28年(1895)日清戦争の戦利品として日本の手に帰した。住民の抵抗に手を焼いた日本政府は軍政を敷いた後に軍人総督制に移行した。当時の台湾は、明・清代に大陸から渡来した平地の稲作農耕民と、山地の焼畑農耕を主な生業とする先住民から構成されていた。日本が台湾を領有した半世紀間、この構成は、先史・古代の内地の状況を想像するにあたっての身近なモデルであり続けた。

 台湾の人類学的調査も鳥居により手を付けられた。遺跡の調査では無紋赤焼の土器が発見され、アイヌ式土器とは異なるものとされた。

朝鮮

 明治43年(1910)、「日韓併合」により日本領となった。台湾にならい総督制を敷いた。この頃日韓併合の根拠として「日鮮同祖論」がさかんに唱えられた。言語学、神話学、文献史学など歴史・民族関係各分野から「証明」されたのである。もちろん、大多数の研究者にとっては政治的な意図に迎合したつもりはなく「純粋に学問的に研究」した結論なのであった。考古学関係では、鳥居が「固有日本人」が朝鮮、さらにはより北方につながることをとなえた。

関東州

 遼東半島は日清戦争により日本に割譲されるところを三国干渉で返還し、その一部をロシアが租借し、日露戦争で租借権が日本に譲られた。この間、鳥居は繰り返し調査した。縄紋土器には直接関係ないが、鳥居の「固有日本人」の原郷の一部である。

(2) 大正期の新潮流

 大正2年に坪井正五郎が急死するとともに人種論争はアイヌ派の勝利に終わった。ところが、この頃から各地に帝国大学が建設され、明治10年ごろに生まれた世代(松村瞭(東大)、浜田耕作・清野謙次(京大)、長谷部言人・松本彦七郎(東北大))が舞台に踊り出て、新たな研究法を武器に人類学・考古学に改革の波を興した。あたかも藩閥政治から政党政治への転換のようであった。新潮流は大正6年(1917)から数年間に渡る大阪府国府遺跡の調査に象徴的に表出している。すなわち近畿(弥生式文化圏)における縄紋土器、層位的発掘、「原始縄紋土器」、大量出土人骨による形質学的人種論である。前3者は次の世代を刺激して大正末の「諸磯式論争」と昭和の「編年学派」を生み出すこととなるが、大正期に限ると、顕著な変化は「人種論」の転換である。詳細は省略するが、長谷部や清野は、出土人骨の研究から「石器時代住民」は先住民族ではなく日本人の祖先であることを「証明」したのである。これにより

  縄紋文化の研究=日本文化の起源の研究 

という意味を帯びたのである。

 大正期の研究でもうひとつ欠かせないのが松村による「琉球荻堂貝塚」である。この報告書の考察で、松村は日本各地の縄紋土器と荻堂貝塚出土土器を比較し、それらの文様が表出技法は異なっても相互に対応する構成を持つことから同一系統であることを「証明」したのである。現在の編年から見ればまるで時期の異なるものの比較なのだが、当時にあっては、詳細な資料の分析をした画期的な仕事であった。

南洋諸島

 ドイツ領であったミクロネシアはベルサイユ条約により大正10(1921)から日本の委任統治下に置かれた。これが国際的に公認された最後の日本の領土拡張であった。大正から昭和の初めにかけて長谷部や八幡一郎が人類学的調査を実施した。日本との直接的な関係は見出されなかった。

シベリア出兵

 ロシア革命への干渉を目的としたシベリア出兵の期間、鳥居は絶好の機会として東部シベリアの人類学調査を行った。原住諸民族は「固有日本人」の係累であるとし、さらにハバロフスクの博物館で「アイヌ式土器」の存在を確認した(この資料は後に、日本で出土した資料であることが判明した)。この頃が、石器時代の研究における鳥居の絶頂期であった。第2回のシベリア調査の後、鳥居は帝国大学を去り、人類学教室の主任を引継いだのは松村であった。この時、人類学専科生に山内や八幡が在籍していた。彼等は鳥居の弟子として出発したが、新しい層位的研究に魅せられていた。大正13年(1924)、人骨収集を目的とした松村指揮下の加曽利貝塚の調査で彼等は層位的調査を実験し、有効性を確かめたのであった。

(3) 「先住民族」の範囲

 明治期から大正にかけてまとめられた概説書をみてみよう。まず、「日本考古学」と題する本を2種取上げる。八木奘三郎(坪井正五郎校閲)によるもの(明治31(1898)初版、明治35(1902)増訂版、大正2(1913)改訂版)と、柴田定恵によるもの(大正13(1924))である。

 筆者が入手した八木版日本考古学は改訂版である。刊行年は坪井正五郎が世を去った年であり、まさに明治考古学の決算書ともいうべき文献である。

 本書は前中後の3編から構成される。前編「先史時代」194頁、中編「彌生式土器と竪穴」18頁、後編「原史時代」360頁という内訳である。問題の前編は本論第一章を「人種」とし、その第二節が「分布」である。長文になるが明治の学界の雰囲気も伝わるように長めに引用する

「神仙の秘区世界の公園と賞賛せられし秀麗なる我日本の邦土は何者か初て之を開拓せるや。予は此問に対して吾人祖先の力によると答へざるを得ず、然れ共山河成立して鳥獣群を為し、而して後始めて足を此土に染し者は即ち先史人類就中石器使用者を以て第一と為すこと適当の順序なる可し、以斯予は彼等を其首位に置くことゝなしぬかく我邦土の先到者たる石器使用の人民は如何なる範囲内に在りしものか之を考ふること尤も必要なる可しと信ず、今当時の遺跡に基て分布の有様を称ふるに大要図に示す所の如し而して其地名を列挙せば概ね左表の ・・・(図・表省略。九州から北海道・千島までの分布を示す)・・・  付言 今日我邦の土中には右の外琉球、台湾等に石器時代の遺物を出せりと   雖も内地の遺物と同一なるや否や不分明なるを以て此地名表に引用するこ   とを為さざりし(但シ琉球は十三台湾は四十七個所の遺物発見地有り) 右の如く嘗て我日本全国に分布せし所の石器使用人民は果して一人種に限れりや否や此問題に対しては意見同じからざる人士なきにあらず、然れ共予の見る所を以てせば、部落と年代との差異は多少ある可しと雖も敢て人種の差異を認む可き点はこれなきが如し(琉球台湾の事は姑く措く)故に今後証左の出る迄は一人種と認て不可なかる可し」

 増訂版と改訂版の間に発表された鳥居による台湾・琉球の研究は反映されていない。それらに南樺太・朝鮮を加えた明治に獲得した新領土を含まない、「日本全国」に残された遺物を同一人種の所産と考えるのである。

 柴田版日本考古学の構成は第一編「総説」(16頁)、第二編「先史時代」(215頁)、第三編「原史時代」(未完、93頁、古墳時代に相当)であり、「先史時代」を第一章「先住民族」(152頁)と第二章「原始日本民族」(63頁)に分ける。前者が縄紋文化、後者が弥生文化に相当する(ただし、本書では「縄紋(縄文)」という言葉は土器の説明も含めて一切使われていない)。

 さて、第一章第四節「結論」の中で石器や土器の比較により「先住民族」の範囲を具体的に考証している。結論を抜き出せば

「要するに我版図内の殆ど全部に亘って石器時代の遺跡遺物ありと雖も朝鮮と台湾に属するものは全く別種族の手に成る者で、琉球は尚ほ調査の必要があり、北千島は学者の議論の存ずる所なれど、其他の帝国の首要部(引用者注:九州から南千島・樺太)に存ずるものは同一種族の遺せしものと見るべきである。」

 これらの根拠の多くは鳥居の調査により得られたものであった。ただし、琉球については「土器の存在をも聞く所なく」「他日の研究に待つことゝして暫く除外し置く」との言であり、鳥居・伊波の研究が見落されている。

 また、本書では、「先住民族」と日本民族の祖先である「原始日本民族」は血縁関係が無いとし、両者の分布が九州から東北南部まで重複することを示しながらも、両者の時間的関係は述べていないことにも注意される。すなわち形質人類学側での学説の転換と異なり、「考古学」側では民族交替説が確固たる定説の位置を占めていたのである。

「縄紋国」の成立 −昭和前期の研究−

(1) 山内清男の枠組み

 大正末〜昭和前期(戦前)の縄紋文化研究を主導したのは、明治30年台に生まれた研究者であった。ことに明治35年(1902)は先史学者の当たり年ともいうべきで赤星直忠、酒詰仲男、中谷治宇二郎、直良信夫、山内清男、八幡一郎ときて、その前後に大場磐雄(1899)、榊原政織(1900)、甲野勇(1901)、森本六爾(1903)が並ぶとなると、まさに一大星座というべきである。ちなみに昭和天皇も同世代(1901)である。この世代にとって南樺太まではものごころついた時から日本領、朝鮮は小学校の時に合併された新領土ということになる。この世代の中でも縄紋文化研究の骨格を作ったといえる山内を見てみよう。

 日本の「先史考古学」の体系を構築したのは山内清男である。この「縄紋学の父」とも呼ばれる大先生は、常識に囚われない思考の生むオモロイ(またはオソロシイ)挿話の数々を残している。一般には知名度が低いが、もっと知られてよい人物である。おいおい紹介していきたいと思っている。

 さて、大正の終わり頃から先史文化の編年的研究を手掛けた山内が一応のまとめをしたのが雑誌「ドルメン」に昭和7年に連載した「日本遠古之文化」である。時に山内は30歳。

 第1回『縄紋土器文化の真相』では次のようにいっている。

「縄紋土器は結局我々が想定して居るように一系統土器だと認められるであろう。けれどもその存続の期間が甚だ長く、その分布は広範囲──樺太千島から琉球まで──に亘って居る。」

 連載の末尾をこう結ぶ

「我々の最も注意を引くことは、もと縄紋式の文化圏内に属して居た北海道及びその附近にのみ、人種の孤島とも云われるアイヌが残存したと云う一点である。アイヌの文化圏が暫次溯ってこの地方の縄紋式にまで達するとすれば、これは縄紋式土器の文化圏一般の人種観に対して重要な暗示を与えることになるであろう。尚これに関しては、内地及び特に弥生式以降の内地文化の辺境に当る南島に於ける所見をも参照すべきである。縄紋土器の文化圏とその住民との運命が如何なる関係を持ったであろうか、この問題の解決には、尚多くの事実の集積と、その吟味を待たねばならないであろう。」

 このように沖縄を縄紋土器の分布範囲に加えながらも、具体的には触れていない。生涯にいくつか発表した編年表も北は「渡島」(函館近辺)、西は「九州」という範囲にとどまっている。当時沖縄の石器時代の代表的資料といえば荻堂貝塚であるが、人類学教室専科に入学した頃の山内が、松村が荻堂貝塚の資料整理に奮闘している様子を「面白い」と表現した文章が残されており、山内が荻堂貝塚の土器を実検したことがあるのは確実である。鳥居や松村が指摘した内地の縄紋土器との共通性を認めつつも、編年的位置が不明なため、資料の増加を待つこととして積極的な記述を避けたのであろう。そして、結局、山内は生涯、沖縄の先史土器について編年位置や系統について具体的に記述しないままに終わる。そうすると、山内は「証明」も「位置付け」も示さないままに沖縄の土器を縄紋土器とし続けたのである! 朝鮮の櫛目文土器との対比に慎重であったことに比べれば、この態度は、山内にとっての「国外」と「国内」の意識が反映したように思われる。

 さて、ミネルヴァ創刊号の座談会“日本石器時代文化の源流と下限を語る”(昭和11年1月に実施?“ミネルヴァ論争”の発端となったことで著名である)から関連する発言を拾ってみよう。

「縄紋式文化圏の範囲は南は琉球、北は千島、ざっと日本列島に一定して居る」「縄紋式の住民の渡来については南方、北方色々の説があるでせうが僕はこの文化が相当長期間、丁度弥生式に代るまで孤立して発達したことを認めたい」「小金井博士はアイヌを人種の島と云はれたが、僕は縄紋式文化圏を文化の島と考えて居ります」「アイヌと云い切るのは如何かと思ふ。仮りに縄紋民族とでも云って置いて、地方により、又年代による住民の体質の変化を調べて行くのが順序でせう。兎に角、縄紋式文化圏 −僕はこれを戯れに縄紋国と称して居るが− これとアイヌとの関係が問題です。」

 北限から樺太が除かれているが、これについては別項で触れる。アイヌが縄紋文化を残した人々の末裔だと示唆しつつ

    縄紋式文化圏(“縄紋国”)=日本列島に孤立

 と明言している。実は、山内以前に「縄紋式文化圏の範囲」というような、記述はほとんど見ることができない。「アイヌ式」や「先住民族」に代えて「縄紋」を固有名詞として用いること自体が編年研究上の便法なのであり、“編年学派”の立場表明なのだ。  山内の日本先史文化観を端的に言えば、鎖国・太平をむさぼる“縄紋国”が急激に大陸文化を取入れ“弥生維新”(筆者造語)をなしとげたというものなのだ。この枠組みが戦後考古学の柱となった“定説”なのである。

(2) 縄紋と弥生

 この時期に「弥生式」が時間的概念として確立し、それに連動して「続縄紋式」が分離したことも、「縄紋」の空間的範囲を追跡する上で欠かせない。これについては「縄文時代」の始まりをご参照いただこう

(3) 続縄紋式(執筆中)

(4) 「人類学・先史学講座」にみる縄紋土器(執筆中)

(5) 後藤守一の概説(編集中)

(6) 南北2系統論(編集中)

 昭和前期は、北方ユーラシアの新石器時代土器と共通する尖底を有する土器型式の発見を契機として、縄紋文化起源論が盛んになった時期でもある。中でも注目を浴びたのが多系統論であった。

 縄紋文化多元論といえば江坂輝弥氏が著名である。江坂氏は昭和13年9月の貝塚研究会設立総会ですでに多系統論を開陳したようだが、具体的な内容ではない。

 実は、それに先行して三森定男が多系統論を盛んに唱えていた。三森氏の説は昭和@年頃にかなり変化している。昭和@年。@@。@@@。その後『日本原始文化』(昭和@年)に記した変遷案は弥生土器まで同時期異系統とするなど、混乱の極みである。

 さて、江坂氏により昭和10年代後半に示された多系統論は次のようなものである。

 伊豆・小笠原経由で伝来した文化という視点はそれまでの日本先史学には明確な形で表われていなかった。江坂氏が誕生したのは大正8年(1919)である。この年とその前後にも芹沢長介氏などの著名な先史学者が多数生まれている....というのはおいといて、日本先史学が大きな変革を開始した年である....というのもおいといて、前述の南洋諸島が日本の委任統治下に置かれた年であることに注目したい。この領有を契機に、南洋諸島に関する情報があふれ、ロマンを掻き立てる対象となったのである。南洋に対する心理的距離は、現代よりもはるかに近かった。「南洋」から感じる「懐かしさ」というのは近代に「作られた」ものであり、関連するキーワードに“ムー大陸”もある(^_^;(このあたりの話は長山靖生「偽史冒険世界」(199@)に詳しい)。ちなみに、かの復刻事実上不可能漫画「冒険ダン吉」は昭和8年に連載を開始した。

 さて、江坂氏ほかによる多系統論は一世を風靡した。これは、当時の国民の願望に沿った面が有るからである。すなわち、日本人の祖先が多系統であるならば、その発進地の住民は「兄弟」であり、進出は他民族への侵略ではないという説明が可能になる。もちろん、多系統説そのものはそのために牽強付会した説ではない。しかし、学説の成立の背景に時代の雰囲気があり、かつ、戦争協力的な一部の学者にとっては考古学が「役に立つ」学問であることを体制側にアピールできる都合のよい学説だったことが学説の普及の原因だったのである。

 昭和17年に小笠原諸島の考古学的位置付けに関する重要な論考が発表されている。「北硫黄島@@」(甲野勇)である。東大人類学教室に北硫黄島出土という丸ノミ状石斧が収蔵されていること、形態の比較から@800km南に連なるマリアナ諸島の石斧と同系統と考えられること、中世の文献でも南洋諸島の住民が伊豆諸島に漂着したと解釈できる記述が有ることを指摘し、江坂説を後方支援する役割を果たした。

 昭和20年2月、硫黄島守備隊は「玉砕」し、硫黄島が東京爆撃の基地となった。昭和20年6月に沖縄が陥ち、8月にはソ連軍が樺太と千島を攻め上ってきた。

 江坂の指摘した3つのルートはあたかも連合軍の進路を予言したような結果となった

「日本国」からの出直し −戦後の研究−

(1) 南西諸島の土器(編集中)

 戦後、日本国は朝鮮・台湾・樺太・千島・南洋諸島を失った。そして、南西諸島と小笠原諸島は本土と切り離され沖縄駐留米軍支配下におかれ将来アメリカの信託統治に移行するものとされた。奄美地域は昭和28年、小笠原諸島は昭和43年に返還された。沖縄では、終戦直後は独立論もかなり有力であったが、次第に本土復帰論が多数派となっていく。復帰論の根拠は「同一民族」だからであり、その有力な証拠のひとつに沖縄から「縄文土器」が発見されることをあげている(岩波新書「沖縄」19@等)。

 では考古学者は荻堂貝塚に代表される南西諸島の土器をどう扱ったか。沖縄返還以前は、学界自体、本土と沖縄に分かれていたことに留意しつつ、本土側は主要概説書、沖縄側は主要な論文を見ていこう(この項に関しては、奄美諸島の土器についての河口貞徳氏の研究も欠かせない話題なのだが、手元の資料が不十分であるため触れることができなかった)。

昭和2@年(194@) 「講座 縄文文化」(雑誌『歴史評論』に連載) 江坂氏が執筆した。@@

昭和31年(1956) 『日本考古学講座3 縄文文化』 九州を担当した賀川光夫氏は南西諸島の土器には一切ふれていない。総論の芹沢氏もしかり。当然編年表にも取上げていない。

 同 年    「琉球列島の貝塚分布と編年の概念」『文化財要覧1956年版』(琉球政府文化財保護委員会) 多和田真淳氏が、本土の縄文〜平安時代に並行する時代を前・中・後期に3分した。本土と異なる独自の時代区分である。以後沖縄ではこの時代を「貝塚時代」「新石器時代」などと呼称するようになった。

昭和32年(1957) 『考古学ノート2 先史時代II 縄文文化@』 江坂氏が執筆。持論の縄文土器多系統論を展開する中で、朝鮮櫛目文土器の系統の曽畑式が阿高式につながり、沖縄の土器はその流れを汲むというかたちで触れている。沖縄の土器を九州の土器の系統で説明するのは戦前からの有力な意見だが、それがさらに朝鮮櫛目文土器につなげられたのである。

昭和39年(1964) 『日本原始美術1 縄文式土器』 総論を山内、早期から中期の概要を江坂氏、後期・晩期の概説を磯崎正彦が担当した。いづれも、南西諸島の土器には触れておらず、当然編年表にも取上げていない。

昭和40年(1965) 『日本の考古学2 縄文時代』 総論の鎌木義昌氏と、九州担当の賀川がそれぞれ数行ふれているのみである。南西諸島にも九州と同じ縄文土器の破片が少数発見されているが、荻堂式などの在地の土器は縄文土器にただちに含めることはできず、「南島土器」として扱うべきとの見解で共通している。編年表には取上げられていない。

昭和44年(1969) 『新版考古学講座3 先史文化』 八幡他が監修。後期九州は乙益重隆・前川威洋が担当。全巻を通し、沖縄に関する言及が見当たらない。編年表は付属していない。

−−−−昭和47年(1972) 沖縄返還−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

昭和48年(1973) 『古代史発掘2 縄文土器と貝塚』 江坂氏が執筆。持論のとおり、曽畑式の流れを汲むものとして触れている。

昭和50年(1975) 渡具知東原遺跡から本土にそっくりの曽畑式と爪形紋土器が出土。

昭和53年(1978) 高宮広衛氏がいわゆる暫定編年を発表。新石器時代を縄文時代並行の前期と弥生〜平安並行の後期に2大別し、前期をI〜V(早〜晩期に相当)に5分、後期をI〜IV(I〜IIIは弥生前〜後期に相当、IVはそれ以降)に4分した。いずれ、本土と共通の時代区分を導入するべきであるが、並行関係が充分明らかでないから暫定的に用いるとした。

昭和54年(1979) 『日本原始美術体系1 縄文土器』 小林達雄氏が解説を担当している。「縄文世界のひろがり」の項で渡具知東原遺跡の発見にふれている。荻堂式などを「伊波・荻堂様式」と仮称し縄紋土器に含めている(ただし、他の「様式」とは異なり注でふれている)。編年表は付属していない。

昭和57年(1982) 『縄文土器大成@』 巻末編年表@

昭和58年(1983) 『縄文文化の研究6 続縄文・南島』 全10巻のうち9巻ではほとんど南島を無視しており(監修は加藤晋平、藤本強、小林達雄)、この巻に集中して取上げれられている。巻頭の藤本論文では、北海道と南島はともに縄文文化が広がっていたが弥生時代以後に内地(藤本氏の「中日本」)と異なる歴史を歩んだ共通性を述べ、この巻の編集意図と思わせる。しかし、そのような意図であれば、北海道の資料と同様に、南島の資料も縄文時代のものは他の巻に入れ、弥生〜平安並行の資料をこの巻で扱うべきであるが、後続の諸論文は縄文時代相当期の南島の資料を対象としているのである! この巻に、高宮氏等は暫定編年による新石器時代前期の概要を解説した。こういう形ではあっても、講座物で沖縄の資料が正面から取上げられたのは初めてで、画期的なことであった。

 昭和61年(1986) 『岩波講座日本考古学5 文化と地域性』 この講座で続縄文〜アイヌ文化や南島の文化にふれるのはこの巻のみであり、他の巻では旧石器から縄紋は本土、弥生以降は内地のみが意識されている。金武正紀氏と当真嗣一氏が沖縄における地域性をまとめる。「貝塚時代」の語を多用し、「縄文文化」への包含を明確には否定しないものの、「日本本土における縄文文化のイメージで沖縄の前期文化を理解することが可能だろうか。沖縄の土器文化が縄文文化からの派生した一つの類型として捉えられるとしても・・(中略)・・文化の異質性は数多く存在するのである。」とした。「本土における縄文文化のイメージ」という表現には「縄文文化」の多様性が無視されている感じは否めないものの、かつて伊波普猷が日本民族と同一系統ではあるが別の「琉球民族」を主張したのと同様の構図である。本土復帰から14年が過ぎていた。

 昭和6@年(198@) 『縄文土器大観』 「様式」分布図は興味深い例である。琉球の土器は特別の扱いなく「縄文土器」として扱われている。それどころか縄文文化内の5つの大領域として北海道東部、東日本、西日本、南島@、先島@をあげている。先島諸島の先史文化を「縄文文化」に含める考えは他に例を見ない。日本国土=縄文文化圏という考えなのであろうか。

 こうして見てくると、見事に沖縄返還の前後で論調に変化が認められるであろう。すなわち、返還前は、本土側からはほとんど無視、沖縄側も独自の時代名を採用したのに対し、返還後は、沖縄を「縄文」に含める見解が強まっていく。これについて、境界線の変更ではなく資料の増加により本土との関係が判明したからだとの反論もあり得る。しかし、たとえば南九州の縄文早〜中期の諸型式は、研究初期に(というか近年までも)、東日本との関係がほとんど不明でありながら縄紋土器として扱われ、不確実な根拠で編年表に置かれてきた。それと比較すれば違いは明瞭なのである。

 沖縄の本土復帰によって、「南島土器」は「縄文土器」へ復帰した。しかし、その扱いは本土の縄紋土器とは異なっている。

    “「縄文土器」であって「縄文土器」でない。”

 これが沖縄の土器の現在の最大公約数的な位置付けである。そして、本土側の論調には安直さが、沖縄側には警戒が、見え隠れするのである

(2) 浦幌式と曽畑式(執筆中)

(3) 対馬,伊豆,小笠原(執筆中)

 内平外成(観察中)

(1) バルディビア,バヌアツ

(2) 国後,択捉,樺太

(3) 沿海州,朝鮮半島

さて、どうしよう

 延々と過去の研究者の考えを紹介してきた。ここまで御読みになった方は、で、おまえはどうする、といいたいことだろう。

 「縄紋土器」がその内部に驚くほどの多様性を抱えており、ある性質の共有(“縄紋”“突起・波状口縁”“深鉢を主とする”“彫塑的装飾”“渦文”など)によっては定義しきれないことは常識と思われる。

 系統的定義ということが次に考えられる。ある母体があって、それに由来するものが縄紋土器という考え方である。南西諸島の土器の場合、「南島爪形紋土器」をのぞき九州の縄紋土器と密接な関係を持って変遷しており、縄紋土器に含めることはためらわない。しかし、「縄紋土器」には成立過程不明の型式も存在する。また、ある型式の成立には複数の型式が関与することがある。そのとき、どう系譜を追うべきか。すなわち、系譜を単系的にたどれないものをどうするのか。轟B式から曽畑式の変遷は、朝鮮半島の土器を一切無視しても一応は説明可能である。しかし、実際は強い影響を受け、または強く影響し合っていることは明白である。

 結局は、「日本列島に分布する、弥生時代以前の土器型式の集合。ただし、他地域の土器型式そのもの(対馬の越高式)および、それを直接の祖型とするもの(八重山の下田原式?)を除く」という暫定的なものになる。とはいえ、数少ない例外を除けば草創期の隆起線紋土器からの転変を辿って説明可能なものであり、現時点では、系統的な定義といっても大きくはずれない。

 今後、樺太や朝鮮半島その他の極東地域で、草創期に相当する古い時期の土器が充実していき、分布が連続的になった場合(そしてその情報が共有された場合)、上記の定義は暫定的・便宜的な意味合いが強まるだろう。

 境界があやふやになること。それは、わかりにくく面倒臭いことに違いない。しかし、枠組みからの開放が望ましいこともまた明らかである。


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